リアル!戦国時代 Vol.44

中世のキーワード 「座」 シリーズ 第28回 帯と着物

織り上がった製品つまり反物と呼ばれているものは、現在では筒に巻いて保管、運搬されていますが、当時は小さな板を包むように畳んでいました。
『洛中洛外図』等によると、たとえば水枕や氷枕をタオルでくるむように包んでおり、ものによりますけれども、意外と平べったい印象を受けます。
そのうち、厚手の織物は厚い板を用いたために厚板物と呼ばれ、薄手の練貫は薄い板を使ったため薄板物と呼ばれていました。
現在でも能楽の装束の1つに「厚板」というのがありますが、その呼称はどうもこのあたりからきているようです。

前回少し出てきた帯座は、延暦寺が本所となって京都三条と七条に店を構え、販売にあたっていました。
この頃の帯は、現在のような一定の幅のあるというようなものでなく、「二つ割」「三つ割」「四つ割」などと呼ばれた細めの帯が使われていました。
この「二つ割」とか「三つ割」とかいうのは、布幅に対しての呼称らしく、要するに2分の1幅とか3分の1幅ということでしょう。

日本の帯は、もともとは前結びが正式な結び方で、ふだんは脇で結ぶ、つまり脇結びにしていたようです。
風俗図などでも、たいがいは前結びや脇結びに描かれていて、それが戦国末期・安土桃山期あたりから後ろ結びが流行し始めます。
ただ、新規の流行ということで、当時は卑しい結び方とされたようでした。
また、現在だと着物を着る時は、何本も紐や帯を使っていますが、どうもこれは比較的新しいというか、近世以降の風俗ではなかったかと思っています。
あの貴族女性の代表的な衣装である十二単でさえ、帯は1本しか使っておらず、それを解くとすべて脱げてしまうということですから、この1本の帯だけで着物を着たということは、かなり伝統的なものと言えると思います。

現在の着物の原型とされている小袖は、袖口が小さいということで、もともと貴族女性の下着だったものでした。
しかしそれは、たとえばスーツの袖のような筒袖だったのです。
これだと冬はいいのですけれど、夏は暑くてたまらないため、これに袂(たもと)をつけてゆったりとさせ、これが庶民の表着となっていきました。

今でこそ「着物はピシリと着なければ…」なんて言われていますけれど、現存する絵画資料などで庶民女性の姿を見ている限り、現代のようにそれこそ一分の隙もないような、きっちりした着方をしている例はほとんどありません。
それはゆったりと言うよりも、ちょっとだらしなくはないかと思われるくらいです。
特に中年以降の女性の場合、育児に都合が良いということもあって、かなり前をはだけています。
ただ、若い女性の場合、上着は前をはだけていても下着はしっかり着ていたりしますから、どうもこの上着の前を大きく広げるというのは、1つの風俗と言うか、ちゃんとした着方の1つだったようです。

面白いのは、能楽の装束の着方にもそれが一部残っており、上着の前をわざわざはだけたような着方をしている場合がかなり見受けられることです。
近世になって「武家の式楽」として整備され様式化されて、中世の能楽とはそれこそ180度転換したとも言える能楽において、こういう装束の着方が伝えられているということは、1つの着方として広く認知されていたということに他ならず、その着方は江戸後期の浮世絵にも描かれていたりします。
着物をキリリと着るという着方は意外と新しいというか、江戸期においての、ごく一部の風俗が広まったのではないかと考えています。

さて、話が少々脱線しましたが、こういう製品としての小袖は、はじめ祗園社が本所だった小袖座が扱っていましたが、いつの頃からか延暦寺に本所が移り、洛内での販売をしていました。
また、奈良にも小袖座が組織されていることから、人口の集住しているところではこういう製品の需要があったことになり、布を買った者が、自分で着物に仕立て上げるだけではなかったことがわかります。
その意味では中世戦国時代と言えども、都市部では案外消費社会が成り立っていたと言えます。

また、この頃から織物とは別に、縫物が別事業として独立し始めたとされています。
もともと縫物つまり刺繍技術は、古代中国の官女たちによる宮廷技術が伝わったもので、織り上がったものに色糸や金糸銀糸などで刺繍をほどこし、よりいっそう豪華に仕上げたものです。
特に桃山期以降、豪奢な風が広まり始めると、金糸銀糸をふんだんに使った刺繍技術はもてはやされたことでしょう。
当時の現物はほとんど残っていないのですが、例えば能楽の豪華な装束にもこの技術は使われており、現代に至っています。

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