リアル!戦国時代 Vol.48

中世のキーワード 「座」 シリーズ 第32回 加賀一向一揆の中での衣料の座

加賀においては、室町時代以前から白山宮の水引(麻糸)神人が紺掻神人とも呼ばれて、北加賀を中心に分布していました。
その呼び名が示すように麻糸生産や藍染に当っていたことは疑いようもなく、白山宮や金劒宮のあった現在の鶴来町一帯から、海岸部に向って北流する河川ルート沿い、そしてこのルートと北陸道が十字に交わる野々市を中心に彼らは活動していたようです。
彼らの分布はこれら交通路に沿って広がり、石川郡福富市、能美郡寺井市、安宅湊にもいたとされ、当然のことながら彼らは紺掻座を組織していたと見られています。
また、室町時代に入ると、安宅湊近くの小松が座の確認はされていませんけれど、絹織物の産地として登場してきます。

戦国時代の加賀は、一向一揆の嵐の真っ只中とよく言われていますけれど、少なくとも一般生活においては、他地域とそれほど変っているということはなかったはずです。
のべつまくなしに南無阿弥陀仏を唱えて、年がら年中合戦にいそしんでいるイメージがありますが、それでは日々の生活が立ち行きません。
織田軍の対一向一揆掃討戦によって記録類がほとんど焼失してしまったため、史料もほとんど残っていません。

「内蔵寮下
       加賀国河北・石河両郡絹屋座事
                   中奥善乗兵衛信久
                   宮本三郎右衛門安清
右輩綸旨以下証文、今度国中依錯乱紛失云々。
座中進退領掌如元、不可有相違之旨所被仰出也。
仍重書下補任之状如件。
  天文十年十二月廿六日
        目代従四位下行長門守藤原朝臣綱家判」 『加能古文書』1294(『言継卿記』)

以下、本文のみ読下し。
「右の輩、綸旨以下の証文、今度、国中錯乱に依り、紛失すと云々。
座中の進退、元の如く領掌し、相違有るべからずの旨、仰せ出さる所也。
仍って、重ねて補任の状を書き下す。件の如し。」

これは数少ない史料の1つで、京都の山科言継の日記に記載されているものです。
第26回に書いたように、山科家は内蔵寮の寮頭として織手の座を管轄していた関係で、ここに記録されたものと思われます。
「今度国中錯乱」とは、おそらく天文6年から始まった天文の乱のことで、これは加賀一向一揆内部での抗争の1つです。

このあたりの事情はあまりに錯綜しているので省きますが、ともかくこの混乱の最中に、前に出されていた下文が紛失または焼失してしまい、それでも座は存続していることから、再度山科家に願い出たものが天文10(1541)年12月に至って認められたということでしょう。
また、ここでは「河北・石河両郡」となっていることから、浅野川を挟んで隣接している河北・石川両郡を一括して絹屋座を組織し、おそらくそれぞれの郡内を中奥善乗兵衛信久と、宮本三郎右衛門安清とで分かれて統率していたのではないかと思われます。

衣料の座はもう1つ、あったようです。
天文23年正月28日付けで越中神保氏の家臣・寺島職祐から次郎紺屋三郎九郎宛てに跡職の安堵状が出されており、のち永禄2年、同じ「次郎こう屋」宛てに、寺島職定から安堵状が出ています。
これだけなら加賀ではなく越中の紺屋座の話に見えるのですが、この次郎紺屋は金沢にあったようなのです。
天正8年の織田軍の加賀侵攻に際して、次郎紺屋は金沢の割出村から河北郡森下(現在の金沢市森本町)に逃げ、そこで染物業を営んでいます。

この文書はすでに失われており、具体的なことは不明です。
次郎紺屋の創始者がもともと越中の人間で寺島氏を通じて神保氏に繋がっていたのか、それとも加賀出身の創始者が越中に進出したのか、よくわかっていません。
河北郡森下の地は金沢の北の玄関口にあたり、能登向けや越中向けの交通の要衝であり、その意味においても気になるところです。
謎が謎を呼ぶという感じもしますが、ともあれこの時期に紺屋座が存在したことだけは事実のようです。

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