リアル!戦国時代 Vol.5

第5回 道路事情の話

今回は、当時の道路についての話です。
具合悪佐守様からリクエストいただきまして、車の話をしようと思ったのですが、その前に当時の道路事情がどうだったか見ておいた方がよいかなと思い、車の話は次回にさせていただこうと思います。
本当はすべての絵巻物などをチェックすれば一番いいのですが、とりあえず手持ちの図書を片っ端から見てみました。

前回の「田んぼの話」でも少しお話ししたのですが、中世では近世のように大規模な土地開発はできませんでした。
武田信玄の釜無川改修などは例外中の例外で、むしろこれは信玄の財力と人心を掴む術が長けていたからこそ、初めて可能だったと言うべき性質のものです。
道路についても同様で、城下町を作る等の例外を除けば、道といっても現在の農道の、あぜ道程度のものが多かったようです。

ここで「道路」というものについて、少し解説しておきます。
まず、道は「公界」として、誰のものでもないという考えが当時の人々を支配していました。
この時代は「所有」ということに対して、とにかく敏感で、たとえば守護不入という権利もただの権利ではなく、特権であるという意識が働いていたようです。
つまり移動するにしても誰かの土地を勝手に通ってはいけないという考えがあり、道もそれにしたがって、土地と土地の間を縫うようにできていたのです。
かつての駅馬制の公道がまだ若干残っており、そこから枝分かれしていた脇道を含めてが中世の道路でした。

これらの道は舗装されず、人馬が行き交うことによって均等にならされていった道です。
絵巻物ではわりあいまっすぐな道が多いように見えますが、本当に直線的な道はそれほどなく、またS字のような極端に曲がりくねった道もそんなにはありませんでした。
主要都市間の道路、たとえば京都〜大津間の逢坂山などは人通りも多く、山道ではありましたが、こういうところもそこそこ広かったです。
具体的に言いますと、普通の平坦な道同様、幅もせいぜい1間から2間程度、狭いところでは今の軽トラックが通れるかどうかという広さでした。

この1間〜2間程度というのは、現在に残る古街道の幅もそれぐらいです。
基本的に馬がすれ違える程度の広さで、まれに牛が引く荷車が通ることがあるため、道にはある程度の広さが必要だったわけです。
山道などは奥に寺がある場合、建築工事の関係でこれはちゃんとした道が必要でしたが、そんなもののない普通の山道の場合、けっこう狭くてけわしい道でした。
けものみちとか、登山道を思い出していただければいいかなと思います。
たとえばのちに中山道になる東山道の場合、場所によっては材木を崖に組み渡した桟道になっていたところもあり、木曾谷あたりで大軍勢を動かすなど、かなり難しかったはずです。

これが大都市としての京都や鎌倉の場合ですと、また違ってきます。
こういう都会の道は、現代ほどではないですが、当時としては画期的に広かったです。
何しろ貴族などの牛車が行き交ったりするために、広くする必要があったのです。
ただしここも舗装していませんでしたから、江戸時代になっても雨が降るとぬかるみになって大変でした。

京都の地下鉄工事のとき、路線部分を発掘調査していて、現在の道路の何メートルも下に平安京の道が出てきました。
数え切れないほどの轍の痕跡が出土して、いかに牛車での通行が多かったかという証拠として注目されたことがあります。
いろいろな物語に牛車の混雑の話が出てきますが、あれは本当の話だったのですね。

ところが平安京も時代が下がってくると道に家を作るものが増えだして、中世には幅何十メートルという道はなくなってしまい、絵巻物や『洛中洛外図屏風』などに見えるように、せいぜい広くても10メートル程度の道になってしまいました。
ただ、京都や鎌倉の場合は、最初から都市計画を考えて作ってありましたので、わりあい平坦な道でした。
だから牛車が通行できたわけで、当然、そこには牛引き荷車も通行できました。
ただし道が舗装されていませんし、牛車もスプリングがついていないので、乗り心地は最悪だったそうです。
慣れない牛車に乗った関東武士が、あまりの乗り心地の悪さに車酔いした話もあるくらいですから。

都の道路にしてからがこんな感じですから、あとは推して知るべしで、交通量が多いわりにはどこの管轄にも所属していないだけに、戦国大名が軍事的な必要に迫られて整備するまで、こういう状態が続いていたのです。

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