リアル!戦国時代 Vol.54

中世のキーワード 「座」 シリーズ 猿楽の座特集 第6回 猿楽能の舞台

観阿弥・世阿弥登場のこの頃から、猿楽能の史料も増加し、ある程度の復元が可能となってきます。
まずは猿楽能を演じる舞台です。これは、現代において見る能舞台とはかなり違ったものでした。

その前に、能舞台について簡単に説明しましょう。
図1にあるように、現代とほぼ同じ形である近世以降の能舞台は、1辺が3間の正方形の舞台と、その正面奥に囃子方(はやしかた)が占める後座(あとざ)、向かって右側にバックコーラスも勤める地謡方(じうたいかた)の座る地謡座、後座から斜め左に伸びる橋掛り(はしがかり)から成り立っています。
橋掛りの奥には、主役であるシテが能面をつける鏡ノ間があり、橋掛りと鏡ノ間の間には通常、幕が下りていて、舞台に登場するシテやワキなどは、この幕を揚げて出てきます。
これらのうち寸法が明確に決まっているのは舞台の3間四方ということだけで、あとの寸法はかなりまちまちです。

そして、近世以降の能舞台について、黒で書いているのは、比較的新しい形の能舞台であり、水色の線で、わりと急な角度の橋掛りを記入してあるのは、近世以降ではあるものの古式の能舞台の形態です。
現代に直結する能舞台の最古形は西本願寺北能舞台とされ、国宝に指定されているほか、厳島神社の能舞台も古式を保っています。
国立能楽堂の舞台は、この古式能舞台を再現したもので、橋掛りの角度のみならず、その長さもかなりのものになっています。
これは平面図だけなのでわかりにくいのですが、これらの舞台や橋掛りには四方に柱があって屋根を支えています。
ですから能楽堂の場合、建物の中、つまり屋内に屋根つきの能舞台があるということになります。

しかし中世において、能舞台は臨時舞台が本来のものであり、かつ、露天のものでした。
薪能をご覧になればわかるように、もともと外で行われた猿楽能は、ひとつの場所に臨時にしつらえたものであり、それは土を固めた土製舞台であったり、粗末な板敷き舞台だったりしたのです。
その舞台の広さですが、当時は2間四方が標準だったようです。
1間を約1.8mと単純に計算しても、2間四方は3.6mなのが、3間四方では5.4m四方となり、広さの違いは歴然です。
舞台の上で舞うということを考えると、演出上かなり違ったものにならざるを得ないと思われます。
ただ、豊臣秀吉による文禄(1593)年の禁中能では、舞台が8尺による2間四方となっており、こちらの寸法では、近世以降の能舞台とあまり変わりはありません。
秀吉の場合、大阪城本丸の能舞台について幅2丈5尺(約7.5m)という記録があり、規模の大きさを好んだようなところがありますので、このあたり断定が難しいところです。

そして現代の能舞台に必須の橋掛りが、当時は必須ではありませんでした。
現在、能の解説書には橋掛りについて、能特有のものであるという記述が多く見られます。
図1でわかるように、正面に座った場合、観客はいくつかの柱越しではあるものの、舞台、後座、地謡座、橋掛りの全てが一望のもとに見渡せるわけで、例えば鏡ノ間から橋掛りを通って舞台に現れる演者の動き全てを、それこそ、ちょっと顔をそちらに向けるだけで見ることができます。
ですから舞台の斜め後方に連なる橋掛りというものは、かなり合理的なものですし、解説書の多くがちょっと誇らしげに書いているのもうなずけます。
しかしその橋掛りは、世阿弥の頃でさえ存在していなかったのです。
前回少し触れていますように、この頃は有力者の邸宅に伺候して、その庭先に臨時舞台を設けて猿楽能を演じていました。
現代に伝わる能楽の一部には、橋掛りを使った演出のものもありますけれど、当時はそういうこともあまりなかったことでしょう。

では野外での勧進猿楽能の場合はどうだったか。
いくつかの記録は残っているものの、それぞれがかなり断片的であることと、おそらく現地でのTPOに応じた形で微妙に違っているため、一概には言えないのですけれど、それらを総合したものが図2です。
世阿弥の『申楽談儀』、それに時代は少し新しいのですが、『寛正5(1464)年京都糺河原勧進猿楽舞台図』などを参考に作ってみました。

まず中央に舞台があり、当然のことながら5、60cmほどの高さはあったと思われます。
一段高い舞台を囲むように、地面に直接座っていたと思われる一般民衆向けの空間がありました。これを「芝居」といいます。
この芝居席の一角、舞台を四方から囲むような形で一箇所に一人ずつ、囃子方の笛方、小鼓(こつづみ)方、大鼓(おおつづみ)方、太鼓(たいこ)方が座っていたようです。
地謡方は、『申楽談儀』に「舞台よりはいささか切り下げて畳を敷き」とあり、舞台の脇、一段低いところに畳を敷いて座していたことがわかります。

そしてその芝居席をまた外側から囲むように一段高くした座敷を設け、これを桟敷(さじき)と呼び、貴人向けの特等席としています。
桟敷席の一部、多くの場合、舞台後方になりますが、ここに楽屋を設け、楽屋と舞台をつなぐ通路として橋を架けました。
これが橋掛りの原型となります。
桟敷が円形になっているのは、前述の『申楽談儀』に「桟敷をもかたがたに打ち回して、つまやかなれば、声もこもり、能もしむなり」とあり、桟敷を円くして舞台を隙間なく囲むようにすると、謡の発声も響き、猿楽能の演技も沁みこんでいくという話です。
また、同じく前述の『糺河原勧進猿楽舞台図』も、このような形に記録されており、そのように建築できるかはともかく、とりあえずこれに従っています。

このように、能が大成されたと言われている世阿弥時代やそのやや後の時代においても、舞台はまだまだ過渡期にあり、現代に見るような能舞台とはかなり違ったものでした。
特に臨時の仮設舞台が常態だったため、「能以前、舞台、橋をよくよく見したため、釘など、そのほか危うからん所を直すべし」(『申楽談儀』)というように、猿楽能を演じる前は舞台や橋をよく見て確認し、釘や板など危ない箇所を直しておくように、とも言っています。
史料によってはこの橋が舞台の後ろではなく横についているのもあり、おそらく場所によって臨機応変に変えていったのではないかと思われます。

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