リアル!戦国時代 Vol.57

中世のキーワード 「座」 シリーズ 猿楽の座特集 第9回 足利〜戦国期の猿楽能あれこれ

さて、猿楽能が足利幕府の式楽となるものの、それは徳川幕府における「式楽」と異なり、足利将軍個人の贔屓の結果であって、制度としてはまだまだ未成熟でした。
だから将軍が変わると猿楽役者への贔屓も変わり、彼らの生活に直接の影響を与えました。
しかし幕府が猿楽座を認めていたことは事実で、彼らの訴えを聞いたり、便宜を図ったりもしていました。
また、大和、近江の猿楽座のような大きな座以外にも、あちこちに座があり、宇治離宮明神に参勤した宇治猿楽座は興福寺大乗院支配の鎮守天満宮に無償奉仕し、大和国内での興行権を得ています。

この時代、女猿楽の座も現れ始め、『看聞御記』永享4(1432)年10月10日条に西国から上洛した女猿楽の鳥羽での勧進能が行われています。
囃子方狂言は男が勤め、舞台には女たちが猿楽能を演じ、足利義教の前でも猿楽能3番を舞い、褒美をもらったそうです。
また、文正元(1466)年2月、越前から上洛した女猿楽が八条堀川で勧進能を行い、こちらも将軍義政が呼び寄せて見物しています。
畿外において、特に丹波と並んで越前は猿楽の盛んな土地柄だったようで、『朝倉孝景条々』にも出てくるほど盛んだったらしいことがわかります。
女猿楽は元和3(1617)年に行われたという記録が残っており、この時代だと、出雲阿国に代表される阿国歌舞伎と妍を競っていたとも考えられ、想像すると楽しいものがあります。

また能面については世阿弥時代においてすでに使われていましたが、現代のように能面それ自体を美的鑑賞の対象として重視されたのはかなり遅れ、美に耽溺した足利義政の前後と考えられています。
現代の華麗極まりない能装束にいたっては、当時の衣服事情からみて、現代とは比べ物にならないほど貧弱なものだったと思われます。
それは確かに一般人が着ているような粗末な衣服ではなかったでしょうが、人目を引く華美な装束とは言っても、中国から輸入した唐物をパトロンが与えたものを装束に転用していたことが多かったようです。

舞台においても、当時の舞台が現代ほど広くなかったためか、貴人の邸宅に呼ばれた場合など、邸宅内の座敷で演じたり、庭先に仮設舞台を架けて演じたりしています。
この仮設舞台も高さがせいぜい5、60センチ程度のもので、現代の能舞台よりは、かなり低いものでした。
これは邸宅の座敷から見渡せる程度のもので、当時としては、それが当たり前だったと考えると納得がいきます。

応仁の乱後、大和猿楽最大のパトロンである興福寺も社会的・経済的な影響を受けて猿楽座の後援にまで手が回らず、猿楽座の方も興福寺に見切りをつけて地方の守護大名のところに行くなど、猿楽能をめぐる社会情勢も変化していきました。
そもそも芸事はパトロンがあって成り立つものであり、彼らは足利将軍家の弱くなった庇護を含めても、あちこちを流浪しながらの生活を余儀なくされました。

この頃、戦国期になると、手猿楽というものも現れ始めます。
この「手」は「手料理」などのように、素人が行うという意味で、猿楽座に属していない素人の手猿楽が戦国期に流行し始めたものです。
前述の女猿楽も手猿楽に近いものだったのかもしれなませんが、軽々と断定はできません。

さて、この時期になってくると、猿能楽の新パトロンとして、大坂(石山)本願寺がクローズアップされてきます。
もともと山科本願寺の時代から芸能に縁があったようで、当時敵対していた近江の六角勢と洛中の法華宗徒らに天文元(1532)年、山科本願寺は徹底的に焼き討ちされ、以後、大坂石山の本願寺が本寺としての機能を始めます。
本願寺宗主の証如もこちらに移り、以後、本願寺の外交から猿楽能の記述まで、詳細な日記を残しています。
次回からは、先学による研究とこれらの日記とを組み合わせて、当時の猿楽能がどのようなものであったのか、演能時間を中心に再現してみたいと思います。

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