リアル!戦国時代 Vol.59

中世のキーワード 「座」 シリーズ 猿楽の座特集 第11回 『天文日記』による本願寺での猿楽能その1

大坂本願寺は、一般的に「石山本願寺」と表記されることが多いですが、この「石山本願寺」なる呼び方が当時の史料には見当たらず、当時「石山本願寺」と呼ばれていなかったことを踏まえ、現在、学会ではそれに代るものとして「大坂本願寺」という呼び方がされていますので、本稿でもこの呼称を使っていきます。

大坂本願寺の規模、平面ともにほとんどわかってはいませんが、山科本願寺の調査を例にすると、阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂と、祖師の親鸞像を本尊とする御影堂とが南北一直線上に立てられ、その間に橋が架かっていたと考えられます。

ともに東に面しており、阿弥陀堂・御影堂と正門との間には広い空間があったと思われます。
現存する東西本願寺を例にすると、これらの2堂の西か西南部分近くに宗主や宗主一家の普段起居する亭や寢殿などがあったと思われ、またそのすぐ近くには宗務事務所と思われる僧綱所(『天文日記』では「綱所」と書かれている)もあったはずです。

さて、『天文日記』による猿楽能関連記事は、大きく分けて3種類あります。
猿楽大夫の挨拶記事、本願寺内での演能記録、大坂寺内町での勧進猿楽、の3種類です。
また、本願寺内での演能記録は、座敷能によるものと、猿楽舞台による2種類に分けられます。
勧進猿楽は、主に寺内町の中で行われ、当然ながら舞台によるものです。

猿楽大夫の挨拶記事は、折に触れての本願寺へ挨拶に来た時の記録で、彼らはたまに本願寺証如に乞われて一部だけを演能する場合もありました。以下、例を挙げてみましょう。(本文、その下に意訳)

(略)○日吉大夫禮ニ來。毎年貮貫文取候。又座者嵐といふものいつもきたり候へども、不來也。就其又子來候間壹貫文遣候。於綱所肴一獻にて候。(略)」天文5年正月20日条

日吉大夫が礼のために来た。毎年2貫文渡している。また、座の者で嵐という者がいつも来るのだが、今日は来ていない。そのことについて、大夫の子も来たので、1貫文遣わした。(僧)綱所において、肴をつけた一獻を飲ませた。

勸世大夫爲禮來間、盃のませ貮百疋遣候。座の者兩人つれて來候條、百疋ツゝ兩人に遣候。大夫のゝち盃のミ候。」天文6年2月20日条

観世大夫が礼として来たので、酒を盃で飲ませ、2百疋(2貫文)を遣わした。座の者を2人連れて来たので、百疋(1貫文)ずつ2人に使わした。彼らは大夫の酒の後に盃で酒を飲んだ。

(略)○猿樂長命大夫禮にきたり候條、於綱所酒のませ候。大夫ニ貮百疋、脇ニ百疋、狂言大夫ニ百疋遣候。相伴上野也。」天文6年7月18日条

猿楽の長命大夫が礼として来たことについては、(僧)綱所において酒を飲ませた。大夫には2百疋(2貫文)、脇の者に百疋(1貫文)、狂言の大夫に百疋(1貫文)遣わした。酒の相伴には側近の上野がなった。

觀世大夫自奈良直ニ一座來。能事令所望候間、以二獻會。經厚相伴ニ喚候。大夫迄五人來候間、何も相伴ニ召出候。酒中ニ一番仕度之由申趣、上野ニ申させ候て、能をさせ候。仍能之時座者悉來、十七八人有之。△能之已然ニ縫物壹重、大夫ニ遣之。△能ハ五番にて立せ(マゝ)て、一番乞候。」天文9年2月20日条

観世大夫が奈良から直に一座を連れてきた。猿楽能を頼んだので、2献しつつ会った。側近の経厚を相伴に呼んだ。大夫以下5人来たので、全員を相伴させた。酒の席で猿楽能を1番させたいということを側近の上野に言わせて猿楽能をさせた。このため、猿楽能のときは17、8人来た。猿楽能を行う前に縫い反物を1重、大夫に遣わした。猿楽能は5番あり、そのうち1番はこちらから再度頼んで(アンコール)してもらった。

猿樂大藏新九郎少弼懸目、於江州大夫をする者也近所罷通之間、爲禮來候間、於綱所以勸盃貮百疋遣之。又座者一人來候。百疋遣之。上野取次也。」天文9年10月24日条

猿楽の大蔵新九郎(少弼が目をかけていて近江で大夫をする者だ)近所を通ったので、礼として来た。(僧)綱所において盃を勧め、2百疋(2貫文)遣わした。また、座の者が1名来たので、これにも百疋(1貫文)遣わした。取次は側近の上野だった。

○宮王大夫北國へ下候次、爲禮來之間、召出也。呑愚盃、貮百疋、四郎ニ百疋、三郎百疋遣之。於綱所以丹後相伴勸盃。(略)」天文11年4月15日条

宮王大夫が北国へ下るとい言い、礼として来たので、召し出して会った。自分も盃で酒を飲み、大夫に2百疋(2貫文)、四郎に百疋(1貫文)、三郎に百疋(1貫文)遣わした。(僧)綱所において側近の丹後を相伴として酒を勧めた。

以上、まだまだあるのですが、これぐらいにしておきます。
これらをみると、本願寺に来ることは日ごろの贔屓の礼のために来るという名目で、たいがいは酒を飲み、大夫は2貫文、それ以外は1貫文を証如よりもらっています。
この当時の1貫文は、上下することもありますが米で言うと1石4斗ほどが買え、餞別としてもけっこうな額になります。
本願寺の場合、加賀を始め全国から志納銭が大量に集まっており、その経済力は大大名に匹敵か、それ以上のものだったと想像されます。
したがって本願寺の金銭を伴う例がそのまま他の戦国大名の例に当てはまるかは議論の余地がありますが、演能の流れなどは似た様なものだったと考えて良いと思われます。

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