リアル!戦国時代 Vol.63

中世のキーワード 「座」 シリーズ 猿楽の座特集 第15回 『天文日記』にみる勧進猿楽(後)

次に本願寺寺内町での勧進能などについて見ていきます。

天文21年3月5日条に、以下の記事が見えます。
 「(略)勸進能之拵、自六町出人數調之。材木、竹等自此方出之。又棧敷も今日より拵之去月末ニ以中務町衆へ春一衣装不持之間勸進能調遣度間、萬端六町衆取立分ニ可令馳走候、道具ハ自此方何も可出之。其外失墜をハ集錢之内にて可引取、其外大夫ニ可遣之分也。此旨申出之處、意得存通令返事也

大坂寺内町6町で人数を出し、勧進猿楽の準備をした。材木や竹など、部材は本願寺から拠出した。先月末に側近の中務が町衆に、春一(春日)大夫は勸進猿楽の衣装もそれほど持っていないので、6町で準備してほしい、演じる道具なども本願寺から拠出しよう。勧進において赤字が出た場合は本願寺が面倒を見てやろうと言ったところ、わかったと言ってきた。

そして3月9日から勧進猿楽が興行されます。
 「自今日勸進能於(内脱カ)分有之。予者以忍女房衆同時越也。以輿四丁也。△棧敷ハ十間打之。此内六間者簾中、四間ハ次間也。此外一間にハ廣橋被見之。以上十一間也。△肴一獻湯漬汁一菜七折十合調置之。△侍、女房共迄湯漬一汁二菜下者餅也。△自六町十合十荷到來。△自棧敷、二枝出之。能者八番有之。」

今日より寺内町の中で勧進猿楽が行われた。私はお忍びで女房衆とともに行った。輿4丁だった。桟敷席は10間あり、うち6間には御簾がかけられ、4間を次の間にしてあった。この他、1間分に広橋を見たので、11間あったようだ。肴一献や湯漬など、折り詰めも持って行った。お付きの青侍(寺院に奉仕する侍)や女房共には湯漬を出してやったが、それより下の者たちには餅をやった。寺内6町よりは品々が10合10荷が来ていた。桟敷より、枝で花代を2回出した。猿楽能は8番だった。

そして3月13日条。
 「勸進能有之。先へ女房以輿三丁被越之。予者以塗輿行也。松千世、上野令騎馬也。△於棧敷食物如初日。能者九番有之。△太刀出之。又兼智、兼澄、ヘ幸、ヘC太刀被出之。又廣橋太刀被出之。又自此方枝二度出也。」

勧進猿楽があった。まず女房たちを輿3丁で行かせ、自分は塗り輿に乗っていった。側近の松千世と上野は馬に乗っていった。桟敷席での食べ物は初日と変わらない。猿楽能は9番あった。側近たちは太刀を渡し、私は枝で2度、花代を出した。

翌14日は、
 「有勸進也。今日者予忍也。如初日。食物等如昨日。△自棧敷枝三度出之。能者九番也。」

今日の勧進猿楽には、自分はお忍びで行った。初日のごとく、食べ物なども昨日と変わらない。桟敷席より3度、枝で花代を出し、猿楽能は9番あった。

16日には、
 「勸進能へ以忍行也。雜舎等如此間。能者十番。△自棧敷枝三度出之。又兼澄枝被出之。能今日迄也。」

勧進猿楽へまたお忍びで行った。桟敷席など、変わったことはなく、猿楽能は10番あった。私は桟敷席より3度枝で花代を出し、側近の兼澄も出した。勧進猿楽は、今日までだった。

そして3月24日、春一(春日)大夫から連絡が来ます。
 「(略)○春一大夫ニ、今度勸進能雇之輩之祿又町失墜等引之、其外八十五貫三百四十七文遣之。取次中務也○春藤六郎二郎ニ千疋非勸進物遣之。連々能之道具以下事尋之。又今度勸進能之次ニ一日能仕度之由、相望候。旁々如此。(略)」

春一(春日)大夫に、今度の勸進猿楽で雇った連中の金が6町では賄いきれなかったので、中務を取り次ぎとして85貫347文を渡した。春藤六郎二郎に10貫文、これは勧進猿楽とは別に遣わした。猿楽能の諸道具について尋ねたところ、今度勧進猿楽をするときは、終わってから本願寺で1日でも猿楽能を演じたいと望んでいるということだった。だいたいこのような話だった。

以上、大坂寺内町の勧進猿楽について見てきました。
勧進猿楽を興行するには、土地の者たちの協力があったこと、今回の場合は囃子方などを新たに雇ったため、思ったより金がかかり、本願寺に出してもらったことなどがわかります。
猿楽座においても、勧進猿楽をするにあたって、生活はかなり厳しいものがあったと想像されます。

勧進猿楽は大衆向けの興行であり、その意味では、一般民衆に源氏物語や曽我物語、古今集のエピソードなどを知らせるよい機会だったと思いますが、人が集まらなければ興行として成り立たず、京都のような大都市で人口も多い場所での勧進猿楽でないと、なかなか好成績を挙げることも難しかったのだろうと思います。
春一(春日)大夫の一座では、観世や金春、金剛のような大所帯の著名な座ではなく、本願寺の特別な贔屓がなければ、なかなか成り立たなかったのかもしれません。

よいパトロンを見つけることが、猿楽座にとっても、重要なことだったのでしょう。
また、この頃の勧進猿楽は、観衆がおそらく手弁当などを持ち込み、飲食しながら演能を見ていたらしいことも窺え、後年の「武家の式楽」とはまた違った趣きのあったことも想像できます。

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