リアル!戦国時代 Vol.8

第8回 荒れ地の話

前に田んぼの話をしたので、今回はその反対の「荒れ地」の話です。
荒れ地といってもいろいろな荒れ地がありますが、とりあえずは普通の田舎の荒れ地と思って下さい。
たとえば河原とか、山沿いの少し斜面になっているところとか、田んぼや畠以外の場所がこれに当たります。

水辺近くであればアシですとかヨシですとかが自生していましたし、山沿いに限らず、人の手の入っていないところすべてに、いろいろな草が生えていました。
ところが絵巻物を見てみますと、ほとんど草らしい草というものは出てきません。
せいぜい紅葉狩りなどの風景で、ちらほらと見える程度で、あとはほとんど緑で塗りつぶしてしまっています。
それでも塗りつぶしてあるのはいいほうで、ひどいのになりますと雲で隠しているか、まったく何も描いていません。
考えてみれば仕方のないことで、雑草など絵師にとっては邪魔なもの以外の何者でもなかったのでしょうか。

泣き泣きいろいろ当たってみて、ようやく草が生えている絵巻を見つけましたが、しかしどうも信用できない部分もあります。
要するに絵巻物でいえば、描かれている草はあくまでも秋の風情とか、人の手が入っていない雰囲気を出すために描いている感じで、どうしてもこれを描かなければなりませんという必然性に乏しいのです。
そこで時代はぐっと下がりますが、近世の正徳〜享保頃の農業図があったので、今回はこれを参考にしてみようと思います。
参考:『農業図絵 日本農書全集26』土屋又三郎 著 清水隆久 校注 農山漁村文化協会 1983年

これは加賀石川郡の十村(他藩の大庄屋にあたる)土屋又三郎が加越能3国を踏査して農業実態を踏まえた上で著したものなので、かなり信用性の高い史料です。
この史料は、年間を通じての、金沢近郊の農家の仕事について細大漏らさず彩色で描いたもので、今回は農業技術を見るのではありませんから、使用に耐えるかなと思っています。
言い訳しまくっていますが、ともかくまあ、お聞き下さい。

この史料は1年間の農事を172ページにわたって描いているのですが、そのうち「草刈」と題された絵が10ページ、出現率5.6%にものぼっています。これを校注された清水先生によりますと、この草刈りというのは「草肥」の確保がメインであったとされています。

人肥つまり人糞尿を肥料として使用し始めたのは鎌倉時代末期あたりからと考えられており、その肥料の特性から、これを使用された農作物は収穫量が格段に大きくなりました。
だからこそあれだけ戦乱が続いても、極端に人口が減ることはなかったと私は考えているのですが、それはまあそれとして、この人肥は都市の近くでないと大量に入手することはできませんでした。
そこで一番手っ取り早い肥料として、荒れ地の草を刈ってきてそれを肥料にしたり、干し草にして牛馬の餌にしたりしました。
ちなみに正月の人肥は、みんなご馳走を食べて酒を飲んでいるので、他の月よりも濃くて効き目があるとされて、年頭の挨拶を兼ねて農家は争って町に行き、入手しようとしたそうです。

それで草の方はこういう場合、荒れ地とか山沿いとか河原とかで入手できるものは、基本的に入会地といって村人共有の財産でした。
つまり荒れ地の雑草も、村共有の財産だったということになりますが、誰々の場所というわけではないので、これは共有とはいえ早い者勝ちです。

ですから文字通り朝飯前の仕事として、時期が来たらそれこそ毎日のように、草刈りに精を出していました。
時期的には旧暦の3月から9月の間は、暇さえあればあちこちに出かけて草刈りをしていたようです。
たいがいは子供の仕事だったようでしたが、時には大人も混じり、毎日山のように草を持って帰ったということです。
なにしろ大切な収穫に影響してきますし、草なんてものは1回刈ってもしばらくしたら、またすぐに生えてきます。

こうなると一種の資源で、しかも無尽蔵に近いものがありますから、すごい話です。
商品経済には組み込まれていた中世の村々ですが、ただで自給できるものがあれば、それに越したことはありません。
河原のアシやヨシなどの場合はまた別の使い道がありますから、わざとそのままにしていたかもしれませんが、他の雑草は目についたところは片っ端から刈っていったことでしょう。

今は化学肥料や農耕機械があるので草をわざわざ刈りに行くこともなく、荒れ地や河原では雑草が伸び放題ですけれども、昔の景観はもっとすっきりしていたことになります。
用水や溝のごみも肥料として使っていたということですから、あんがい現代よりも環境は綺麗だったのかもしれません。

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