リアル!戦国時代 Vol.11

中世のハイウェイ・水運シリーズ 第1回 概説として

今回から、海運を含めた水運の話をしていこうと思います。書くことがいろいろありますので、シリーズとしていきます。

例によって、またまた平安時代から話は始まります。
広い意味での水運(海運、河川、湖沼運送)として話を進めていきますが、国司の赴任とかで使った船などは運送とは少し違うので、これについては除外します。
また、船と舟との使い分けですが、ここでは単純に大きなものを船、小型のものを舟としています。
ただし、史料上に現れる歴史的用語として使われている場合はそのまま使用します。

さて、平安時代、米や農作物を主体とした荘園年貢などの都への回送は、収穫後の10月以降、だいたい正月あたりまでの4ヶ月間に行われ、この時期に大量に集中する水運・海運が、日本全体としての水運・海運の発達を促したとされています。
天気が荒れなければ、これほど便利な移動手段もなく、年貢船の航行が盛んになるにつれて年貢だけでなく、新しく任命された荘園の管理者や商人などの旅客を乗せる「便船(びんせん)」が現れます。
字からいえば「定期便」の「便」で、始まった当初は定期船としてではなかったはずです。
ただ、それほど稀に航行するわけでもなかったらしく、ある程度の日数さえ待っていれば必ず港に現れたらしいので、これはけっこう利用されたようです。

これらとは別に、漁師など舟を操る人々が近場を行商する姿も現れ始め、本来はこれを「廻船」といっていました。
この言葉は鎌倉時代末期頃から使われ始めたようで、こういう商売の形は、この頃から一般的になっていったことがわかります。
こういう行商舟は、その性格から定期的に浦々を廻ったことでしょうし、このことから「廻船」の語ができたのでしょう。

そして外洋を乗り切るというほどではありませんでしたけれども、一応、海洋船と呼べる船も建造されるようになりました。
これらの海洋船は、平安時代末期にはすでに瀬戸内海で260石船が出てきており、室町時代には千石船も現れました。
この千石船は、積載量100〜150トン程度のもので、沿岸航路の大船として室町時代以降、大活躍しました。

中国その他との貿易が盛んになるにつれ、優秀な中国船を真似て、現在のように竜骨を用いて船底を尖らせ、舳先も尖らせて波切りできるようになったのも室町時代のことで、この時代は造船も操船技術も飛躍的に向上しました。
なかには遣明船としてこれ以上のものも作られたそうですが、操船が難しかったらしく、こちらは一般的となることはありませんでした。

その後、近世初期の御朱印船などにはついに二千石船なども出現し、東南アジアに雄飛した日本船はなかなかのものだったようです。
ただ、その後鎖国によって造船も制限され、同時に航海技術も衰退していってしまったのはなんとも残念な話です。

海運というと、どうしても畿内、西国の話になってしまいますけれど、東国に海運はなかったのかといえばそんなことはなく、伊勢以東でも海運は盛んでした。
まず伊勢湾を中心とした海運はかなり盛んで、近江国と東国との物資の中継地としての伊勢桑名・伊勢阿濃津をはじめとして、神宮への外港としての伊勢大湊や、鳥羽泊浦などが中心となっていました。
特に桑名と阿濃津を経由した物資の流通はかなりの量にのぼっていたはずで、また伊勢大湊は東海道一帯に広がる神宮領の年貢米の陸揚げ地として著名で、物資同様に人や金も多く集まり、関銭収入もかなりの額になっていたはずです。

関東を見てみると、鎌倉時代にはすでに伊豆相湯山を本所とする50隻以上の船舶が東京湾一帯を走り回り、鎌倉中期には利根川水運も登場したと考えられています。
幕府のあった鎌倉の発掘資料などを見ても、かなりの数の舶載品と思われる品々が出土しており、さすがは日本第2の都市としての面目躍如といった感じです。
この傾向は室町時代に入っても衰えをみせず、武蔵品川湊も東海道諸国からと思われる大小の船が寄港して賑わっていたとされています。
また、この時期は日本海側も見逃せず、ある時期は瀬戸内ルート以上の賑わいを見せていたのではないかと思われます。

次回からは、あまり史料上にのぼらないこれら水運の姿を、より具体的に見ていこうと思います。

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