リアル!戦国時代 Vol.12

中世のハイウェイ・水運シリーズ 第2回 船について

水運の前の基礎知識として、ここでは船自体について、あらかじめ述べておきます。
船の建造は普通の大工仕事とはかなり違うので、専門の舟大工がこれにあたっていました。
はじめは建造費用を自前で調達できる、貴族や大寺社などの荘園領主が所有して運行させていましたが、徐々に幕府大名など、有力武士の間で大船を建造、所有するものが増え始め、戦国時代には地方の国人や大商人も所有するようになっていきました。
資金のそれほどない一般の商人は、彼らから船を借り受け、それで商売をしており、また、彼ら在地商人の一部は「梶取」(船頭)となり、船頭兼商人として振舞っていました。

船の構造は、先端部を舳先(へさき)といい、船尾を艫(とも)、船体部分である船の横腹を舷側(げんそく)といいます。
日本は良質の木材が大量にありましたので、はじめはこれらの木をくりぬいて作った「刳船」(くりぶね)を使っていました。
当然、舳先も尖らせていたはずで、これがいわゆる丸木舟です。これらの舟は安定させるために、船底を平らに削っていました。
こういう舟は河川や遠浅の海には大変都合が良く、かなり大きなものも作られたそうです。

フロイスの報告では、日本の船には甲板がなく、帆柱も倒すことができたとあります。
しかし日本船すべてが船体を覆うことはなかったと考えるのは早計で、航海の際には代わりの板をさし渡していたでしょうし、フロイスの言う甲板とは固定した甲板という意味で、日本船もそれなりの工夫はしていました。
できるだけ荷物を積み込むことができるようにとのことらしく、日本船に固定した甲板がつくのは幕末の軍艦以後のようです。
なんとも妙な伝統ですが、そうなるとまず帆柱の固定ができません。
実際、当時の中国人も、日本船の帆柱は中国船と違って不安定だと書き残しています。
外洋を横断するような遠距離航海をするわけでなく、どちらかといえば内海や沿岸航路が主だった日本水運にとって、外国船のような巨大な帆柱はそれほど必要なかったのかもしれません。

帆はムシロを使用し、布帆の使用は江戸時代になってからと言われています。
永禄年間に木綿帆を使ったらしいという記録もあるそうですが、一般に普及したのは、木綿が安価になった近世ごろというのが妥当なところではないかと思います。

風のないときは、この帆柱を倒し、浅い場合は棹(さお)、また櫂(かい)や櫓(ろ)を使って前進します。
櫂というのは今で言うオールで、当時のものは取っ手の先に小さな横棒を取り付け、T字形になっていました。
これを水中に入れて、水を後ろに押すような形で掻き、前進します。
ただ、日本など東アジアまた東南アジアにかけては、櫂を漕ぐときは今のように後ろ向きではなく、前を向いて、時には立ったままで漕いでいました。
船底が平らだからこそできる漕ぎ方で、ヨーロッパから後ろ向きの漕ぎ方が伝わるまでは、この漕ぎ方が続きました。
ちなみに現在のように舟と櫂は固定されておらず、櫂漕ぎはかなり力のいる仕事でした。

櫓は外面的には櫂と似ていますが、使い方は全く違います。
櫂は漕いだ後、戻すときに水中から引き上げて前方の水中に差し入れるのに対して、櫓はほとんど水中に入りっぱなしです。
また縄などで船体と固定されてもいます。水に差し入れられた櫓は、水中で半円形を描くように、言わば「水を練る」ようにして推進していました。
言葉で説明してもわかりにくく、少々技術も必要な推進法でしたけれども、櫂に比べて少ない力で前進することができました。

この操船法は今でもテレビなどでたまに見かけることもありますし、無責任なようですけれども、見るのが一番手っ取り早いです。
小さな舟では、櫓は船尾にあり、大型船は舷側に何本も備え付けてありました。
櫓は梶の代わりにもなり、手軽だったことから小舟では多くこちらを用いられたようです。

船の大きさは、沿岸航路の海洋船については、前回でもみたように千石船が一般的だったようです。
川舟については、代表的な川舟の、淀川を航行した「淀舟」が20石舟でほぼ統一されており、天正年間になって初めて30石舟が出現したそうです。
時代によって差がありますが、米でいうと1石150kgとして、20石舟で3千kg、人間も入れて約3トン積みの舟となります。
体重60kgの人間だったら50人も乗ることができますから、想像するよりもかなり大きなものです。
ただ河川交通には、この程度が限度だったのではないかと思われます。また「淀舟」は中世の全期間を通じてかなり大量に航行しており、船の建造にあたっては規格化されていたと考えていいと思います。

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