リアル!戦国時代 Vol.13

中世のハイウェイ・水運シリーズ 第3回 港について

前回が船についてでしたので、今回は港についてお話しします。
地方の港には大別して、有力な後背地のあるものとそうでないものがあり、大荘園や河川交通の要衝を近くに持っていたところは商人も集まり、かなり賑わっていました。
特に有力な港は湊町として、周囲の後背地のない小さな諸港に影響力を及ぼそうとしていた形跡もあるくらいで、かなり力を持っていたようです。

湊町には「問」または「問丸」と呼ばれた取引業者がおり、彼らは大きな倉庫を持ち、物資の保管にも携わっていました。
この彼らの商品仲継ぎの仕事が、後世の問屋になっていきました。
彼らの有力な仲間は「刀禰」と呼ばれた村役人や町役人をも兼ね、彼らの経営する「問」は商人宿も兼ねていました。
そのほか、湊町には船関連や商業関連の手工業者として、鋳物師、鍛冶、塗師なども来住していたと考えられています。
職人の集住には近江堅田で確認されており、大きな湊町では修理のための船大工もいたはずです。

瀬戸内や外海に面した港は、鎌倉時代にはすでに石積みの港湾施設が整備されはじめていますから、流通がより活発になっていた室町時代以降では、大きな湊町にはかなりしっかりした港湾設備が整っていたことでしょう。
伊勢桑名は「みなとのひろさ五、六町」というから、5、6百メートルの広さがあったことになり、さすがに東海道の要津といった感じです。
ただ、伊勢安濃津の場合は、大永2(1522)年頃の関氏と宮原氏の抗争によって、4、5千軒あった家々もなくなってしまい、10年以上も荒れ果てていたといい、湊町といえども完全な平和を保つというわけではなかったようです。
堺が傭兵を持ち、堀を周囲にめぐらして自衛していたのもうなずけるところです。

古代から近代まで栄えた最大の海上ルートである瀬戸内海には、史上また史料上でも著名な湊が目白押しです。
『兵庫北関入船納帳』で有名な兵庫、その周囲には尼崎、また新興の湊町・堺、年貢の積み出し港としての備後鞆ノ津、同じく尾道、因島、伊予堀江などが挙げられます。
また九州では薩摩坊津、筑前博多、豊前門司などが有名な湊です。

東海道は第1回にも述べました、伊勢桑名、同じく阿濃津、大湊、鳥羽泊浦、三河大浜、駿河沼津、同じく江浦、伊豆三島、相模鎌倉、武蔵品川、同じく六浦などが挙げられます。
この関東では、坂東太郎・利根川の水運もあり、いちがいに「西船東馬」と言い切れないものがあります。
品川湊では、長享2(1488)年の台風で伊豆の商船数隻が破損し、数千石の米が海中に沈んでしまったそうで、関東の水上交通の隆盛がしのばれます。

日本海側では、越前敦賀、若狭小浜が中心で、これらの湊につながる越前三国湊、加賀安宅湊、同じく本吉(もとよし)湊、大野湊、宮の腰、能登小屋湊(おやみなと・輪島)、同じく七尾の所口湊、越中東放生津、同じく岩瀬湊、越後直江津、同じく柏崎、同じく蒲原津、出羽酒田、同じく秋田、津軽十三湊などが有力な湊町でした。
このほか佐渡にも商船が数多く来航していたらしく、日本海ルートは瀬戸内と並ぶメインルートと言っていいかも知れません。
また日本海の西側では、出雲美保関、石見温泉津(ゆのつ)、などが挙げられます。

これら日本海ルートと都を結ぶ琵琶湖では、塩津、堅田、坂本、大津が隆盛を誇っていました。
このうち大津は物資の積み上げ港、堅田と坂本は大津までの中継港だけでなく材木の集散地としての機能も持っていたそうです。
堅田と言えば琵琶湖を縦横無尽に走り回った堅田衆の根拠地で、琵琶湖水運を牛耳っていたことで知られています。
しかし彼らもただ水賊行為にのみ精を出していたわけではなく、堅田には石を組んだ防波堤や、大船が入れるような湖底の掘り込み、また石組みの船着場も整備していました。
また湊の近くには船大工の集落や鍛冶屋を抱え、彼ら堅田衆のための造船を支えていました。

堅田の例がすべてとは言いませんけれども、有力な湊にはやはり周囲に技術集団を持ち、湊の経営を支えていたと考えるのが妥当だと思います。特に地方市場や陸上交通路の要衝に近い湊は、定期市の進展に伴い、年貢の地方売却などもあって、かなり活況を呈していました。
ここまでくると、湊町とは商社の集合体に近いものがあり、物資のみならず富の集積地とも言えるでしょう。
彼らは「廻船式目」という独自の法体系を作り上げ、ひとつの世界を作り上げていました。
しかし彼らの富に目をつけた地方領主もこの新しい利権に群がり、市の管理や流通の統制に乗り出そうとします。
戦国時代は、商人集団と領主武士の力関係がこれまでになく拮抗し、揺らぎ始めた時代といえるかも知れません。

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