リアル!戦国時代 Vol.14

中世のハイウェイ・水運シリーズ 第4回 航路について

前回は交通・流通の「点」としての湊を見てきました。今回は「線」としての航路について見てみます。
大変盛んだった中世の海上交通もだいたいは沿岸航路で、はるか沖合いを航行するということはあまりなかったようです。
瀬戸内水運しか目撃していないフロイスですけれども、その報告に「日本の船は、夜は港に止まり、昼間の間航行する」とか、「日本の船は、ほとんど二日おきに水を積み込む」とあり、沿岸航路の常用を裏付けています。
この頃は羅針盤なども入ってきていたはずですが、当時の船の大きさを考えると飲料水など余分な荷物を積み込むよりは、沿岸を点々とした方が楽だったのかも知れません。

そして沿岸を点々としながらも、当時の人びとは遠隔地に乗り出していきました。
国内最多の海運ルートである瀬戸内水運、東国との間を結んだ伊勢湾水運、国内最大の距離を輸送した日本海水運など、当時の人々のバイタリティには驚かされるばかりです。

西国から京都に物資を運ぶ場合、瀬戸内の海を海洋船で縦断し、いったん摂津兵庫の港に入ります。
その後、ここで川舟に物資を移し変えてから、淀川を遡っていきました。
京都に商品や年貢などを回送するにあたって、もっとも使用されたのがこの淀川水運や木津川水運で、河川水運として国内最大の規模を誇っていました。

第2回で書いたように淀川には「淀舟」というのがあり、これは大山崎にある岩清水八幡宮の神人の独占事業でした。
神人(じにん)とは神社に奉仕する下層隷属民とされていますけれども、隷属というよりも、神社に所属してその神社の権威などを背景に集団化した人々と考えた方が、当時の人々の意識にマッチしていたような気がします。
実際、淀川を舟で遡るにあたっては、同じく岩清水八幡宮の「御綱引神人」が独占していたようで、彼らの排他的事業にはバックの岩清水八幡宮も大きな影響力を行使していたようです。
排他的ではありましたが、視点を変えてみるとそれだけ業務の分担が明確になされていたわけで、その意味では合理的な運営がなされていたことになります。

さて、国内最大の運送距離を誇っていた日本海水運は、越前敦賀と若狭小浜を中心に、その交易距離を伸ばしていきました。
この2港は、はじめのうち北国と距離的にも近い敦賀の方が栄えていましたが、江北の浅井氏が北近江を制圧して南近江の六角氏と敵対すると、これを嫌って小浜からの九里半街道を通って西近江の今津や高島に抜けるルートが使われるようになり、陸揚げの中心は敦賀から小浜へと移っていきました。

すでにそれ以前の室町時代には、1年に1往復する、出羽酒田と近江大津までの定期航路も成立していたようで、この航路には越前敦賀が中継地となっていました。
これは出羽酒田を出帆して、越前敦賀に入り、そこから七里街道を越えて近江海津に出て琵琶湖を縦断し、大津にいたるというものだったそうです。
またこの時代には、北陸産の鮭や、北陸が主産地の衣料原料である苧(からむし・そ)が敦賀や小浜に大量に輸送されていて、専用の廻船もありました。

津軽十三湊は安東氏の拠点として名高いところで、北方貿易の根拠地として勢力を誇っていました。
それより北では、蛎崎氏が蝦夷大館に湊を構える永正11(1514)年まで、北海道の「宇須岸湊」(函館)に1年に3回、若狭から商船が来航しており、これは定期航路ではなかったかと考えられています。
越中の東放生津(新湊市)では津軽船が来航しており、これも敦賀や小浜向けの船の中継地として役割を担っていたと考えるべきでしょう。

鎌倉後期以降、九州筑紫の船も日本海側に多く来航し、これらの船は「筑紫船」と呼ばれていました。
瀬戸内海に海賊が多発し始めてからは、この日本海航路が重要視されて、中国船も敦賀や小浜に来航するようになりました。
応仁の乱のとき、西軍の大内氏が西国米を都に回送するため、東軍や海賊に奪われないように、わざわざ日本海ルートを使って敦賀経由で米を都に送ってもいました。

若狭小浜以西では、出雲美保関が最大の要港で、日本海西部の諸国からかなりの数の船が来航し、隠岐、因幡、但馬の船だけでなく、中国地方の鉄を求めた「北国舟」も来航していました。
ここは戦国前期には中国船(明船)もかなり来航したらしく、当時このあたりを支配していた尼子氏は来航した中国船に「唐物役」という関税をかけ、応仁頃の1年間の関税総額は、驚くことに5000貫文という巨額に達していました。
普通の荘園からあがる1年間の利益が年間100〜200貫文ですから、これは大変な額です。
尼子氏の急激な成長には、案外こんなところにその秘密があったのかも知れません。
まさに港は、富の集積地だったのです。

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