リアル!戦国時代 Vol.16

中世のハイウェイ・水運シリーズ 第6回 海賊について

瀬戸内海はもともと波の静かな内海であり、それに加えて小島のやたらと多い「多島海」で、場所によってはとにかく潮流が速かったりして、地理的に見ても土豪などが割拠しやすく、地元の潮流などに精通している彼ら在地の有力者が独立を保ちやすいという地理的・地形的な状況がありました。そのため、瀬戸内では早くから「海賊」が現れ、かなり後まで彼らの活躍は続きます。

だいたい上級や中級の武士は、いざ舟に乗り込んでも自分で漕ぐということができませんでしたから、当然、雑兵や水手(かこ)に漕がせることになります。
まして鎌倉時代に、関東から瀬戸内に来た武士たちはなおさらでした。
そうなると地頭など領主の館近くに水手の集落もできはじめ、それが専門集団になっていきました。
彼ら水手は、ふだんは農業や漁業に従事し、合戦の場合には勝敗を左右する重要な軍団となって働いたのです。

ところが村上氏など「海賊」出身の一族は、もともとこういう水手出身者が武装したものですから、陸の武士と違って1人で操船と攻撃という2人分の働きができます。
こうなると陸の武士が取り締まるのは難しく、加えて瀬戸内の潮流にも通じているものですから、うっかり手が出せません。
重い鎧を身につけた武士が海に落ちると、すぐに周りが引き上げてやらないと、あっという間に沈んでいってしまいます。
そういうことを考えると、海賊の追捕とは、陸の悪党退治よりも死ぬ確率が戦ったのではないでしょうか。
陸で落馬しても必ず死ぬなんてことはありませんが、下手に舟から落ちると怪我ではすみませんからね。
水軍が何百年にもわたって瀬戸内はじめ各地の内海に覇を唱えられたのも、地理的な条件の他に、こういうところに強さの秘密があったのだろうと考えています。

彼ら瀬戸内の「海賊」は当時でも有名で、ここを通過する商船は防衛のために必然的に団体行動をとるようになり、それが南北朝の大動乱を期に、幕府の威令の及ばない地方武士たちも徐々に大集団化していきました。

ここまで「海賊」とカギカッコをつけて表記してきましたけれども、この「海賊」の呼称自体ちょっと語弊があり、陸上の「悪党」と同じように中央権威から見た呼称です。
しかしながら彼らはやみくもに商船を襲撃するのではなくて、狙った商船と交渉もするし、場合によっては通行料を徴収するのみで通過を許しています。
それを考えると、彼らは「海上を移動する関所」のようなもので、商船の要請によってそれらの警護もしていることから、一概に「悪」と決めつけることはできません。

ただ、この警護料はかなり莫大だったらしく、戦国時代に堺の商人が村上水軍に支払った礼銭の額は、1年間で2000貫文以上と言われています。
これは陶晴賢が大内氏の代わりに厳島で徴収していた、堺商人への礼銭の金額が2万疋(2000貫文)であり、これ以前の警護料はこの金額以上であったろうと推定されているからです。
いくら堺の富が巨額とはいっても1年間2000貫文の出費というのは、かなり痛かったことでしょうし、また、それだけ支払わなければならない必要があったわけで、彼ら中世商人の大変さがしのばれます。

これほど大規模ではありませんでしたけれども、伊勢湾にも海賊がいたらしいことがわかっていますし、内水面では、琵琶湖堅田衆も湖賊として名を馳せ、堅田衆は琵琶湖のほぼ全域を縄張りとしていました。

彼ら海賊は海上警護のみならず、水先案内人にもなっており、それぞれの縄張りを通過する相互協定もあったと考えられています。
現代的な感覚から言えば、潮流の激しい瀬戸内を航行するための水先案内人なのですけれど、もともとは海賊衆の1人を乗船させておいて、別の縄張りの海賊に遭遇したときの保証人としての役割の方が主だったらしいと考えられています。
これを「上乗(うわのり)」と言い、瀬戸内に限らず伊勢湾や、また琵琶湖でもその存在は確認されています。

彼らはただ乗っているだけではなく、その船に定紋つきの船じるしを掲げ、自らの力を誇示するとともに、その船が自分たちの安全保障の枠内にあることを示していました。
この「上乗」をしている人間自体もかなり稼いでいたようで、琵琶湖堅田の「ウワノリ」は、長浜の八幡神社で船大工たちとともに1貫文の寄進をしています。

彼らは、まず商人であり、いったん事があればいつでも武力を使いましたけれども、こういう性格は中世ヨーロッパのバイキングでも同様で、世界的に見ても「普通の」ことでしたし、海賊と海軍、貿易が三位一体であることが当然のこととして受け入れられ、彼らのこういう性格は近世の初期まで続いていきました。

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