リアル!戦国時代 Vol.20

中世のキーワード・座シリーズ 第4回 供御人

今回は、前項で少し取り上げた「供御人(くごにん)」について見てみようと思います。
例によって古い話で恐縮ですが、もともと大寺社には部民としての奉仕者集団が定められていて、彼らの子孫が神人(じにん)と呼ばれる奉仕者集団になったのではないかと考えられています。
部民となりますと公領・国衙領の民ではないので、当然、租庸調の対象外となります。
全体から考えるとごくごく一部の集団となるわけですが、時代が下がるにつれて大寺社領の荘園も増加してきて、彼らの数も急激に増加してきます。

ここで注目したいのは、彼ら神人はあくまで俗人であって、神事や法会などの奉仕はするけれども、それ以外では当時の一般人とまったく変わらない生活をしていたということです。
神事や法会に際しては斎戒するなどしていたでしょうが、それ以外の日々においては当然妻帯していましたし、普通の生活を続けていました。
となると、神人には誰でもなることができる、ということになります。
当然その寺社の許可は必要ですけれど、一度なってしまえば以前と同様の生活をしながら、その寺社の保護民となれるというわけです。
したがって今まで納めていた税は納めなくてもよくなりますし、それどころか寺社の権威を後ろ盾にすることができます。
考えてみると、これほどうまい話はなく、平安時代以降、彼ら神人の数は政府の禁令にもかかわらず、急激に増加したそうです。

中でも特に河川の魚貝類を取って納めていた連中は、その河川の漁獲権を独占し、神社に決められた数を献進つまり上納しつつ、余った魚貝類を市に出して売りさばくようになりました。
神社とすれば、日々のお供えさえきちんきちんと納めてくれれば文句はないわけで、それ以外のものについては、すべて供御人たちの取り分となり、それをどうしようが関係はないわけです。
しかも彼ら供御人は寺社という後ろ盾がありますから、市においてもかなり大きな顔ができます。
これは河川に限らず、海産物についても同じことが言えましたし、他の産物を扱う供御人たちも同様でした。
特に室町時代以降、供御人の種類は急激に増加し、数多くの農民がこの身分を取得していきました。

また、似ていますけれども少し違う「寄人(よりうど)」というのもおりました。
神人の場合は寺社領の領民ですけれど、寄人の場合は寺社領外に住んでいる人々が個人的に寺社領民となったもので、初めのうちは農民が主体でしたが、徐々に商工業者などがこの身分を取得していったものです。
都においても、かつては官庁たる寮に属して雑色(ぞうしき)と呼ばれた職人たちや供御人が、官職が世襲化したために、それらの長官である貴族の家に属するという形になり、それが貴族の供御人となっていきました。
彼らはそれぞれの領分で、それこそ排他的に独占権を主張し、権利が他の地域などに拡大するにつれてその構成員も増えていったのです。

彼らの組織は座とほとんど変わらず、兄部(このこうべ)と呼ばれる統率者の下で、兄部にいくらかの金を納めて身分を保証する札や道具、衣装を与えられました。
これらの諸道具は身分を表わすとともに、諸関の通行権さえも表わしており、「諸国市津関渡浦泊」を自由に通行し、交易する権利が与えられたのです。
当然彼らのもつ田畠は「給免田」として扱われ、他の課役も免除されていました。
こう見てみると、彼らの権利はかなり大きく、目端の利く農民が次々とこの身分になっていったのもわかります。

彼らの中には供御人という1つの身分をもつ者から、また別の本所を仰ぐものまで現われはじめ、1人の人間が複数の集団に属することも出てきました。
例えば河川での漁業に従事する供御人たちは、初めのうちは地元領主と対立し、彼らを本所の力で圧倒していたのですけれど、だんだん領主の力がついてくると領主の力を借りるようになったり、また領主の側でも彼ら供御人集団を取り込もうと図ったりして、両者の関係は複雑になっていきました。
特に南北朝から室町にかけて、朝廷や寺社、貴族の権威が低下しだすと、供御人たちは本所との関係を温存しつつも、それ以外の新興勢力との関係を深めていったのです。

そして戦国時代に突入すると、それまでの旧勢力の権威が急降下したのを目の当たりにした供御人たちは、次々とその身分を棄て、新しい身分を取得していきました。
あるものは武家の家人に、またあるものは別の座の構成員になるといった具合に、供御人は急速にその数を減らしていったのです。
これに楽市楽座が追い打ちをかけ、供御人は中世末期においてその終焉を迎えます。

前項へ     トップページへ     次項へ