リアル!戦国時代 Vol.25

中世のキーワード・座シリーズ 第9回 借上・土倉・酒屋 (後)

京都に幕府を開いた足利氏は、都での土倉・酒屋の隆盛と朝廷の関係を見て、彼らに臨時課役をかけるようになりました。
応安4(1371)年11月、後円融天皇即位に際して『吉田家日次記』に、「先借用土蔵酒屋、土蔵一宇別三千疋、壺別二十疋云々」とあり、土倉には蔵の建物ごとに三千疋=30貫、酒屋には加えて酒壺ごとに二十疋=銭200文の臨時税がかけられました。
当時の京都での土倉は約300軒以上と考えられており、土倉だけで約9千貫、これに酒屋役を加えると、おそらく軽く1万貫を突破します。
庶民や下級武士の生活はかなり貧乏だったと思われますから、臨時とはいえ、これだけの税負担に耐えられる土倉・酒屋の突出した財力には驚嘆すべきものがあります。
現代で言えば、一般人の家計と大企業の収益を比べるようなもので、あまりの違いに単純な比較さえする気になれません。
臨時課役は、臨時であるために基本的にはかなりの額になるのですけれど、これが明徳4(1393)年以後、毎年6千貫の定期課税として設定し、幕府政所の基本収入としていきました。

足利政権も安定し始めると、京都五山とのつながりをいっそう深めていき、五山からは莫大な献上物を受取っており、それが足利政権の財政基盤となったと考えられています。
この頃になると京都の土倉・酒屋は叡山の保護を離れ、新しい権威である五山に近づいていきました。
五山の収入の半分以上は彼ら土倉・酒屋から得ていたとされていますから、そうなると土倉・酒屋は五山と幕府の両方に税金を納めていたことになります。

面白いのは土倉たちが課役を納めた幕府政所の配下に有力土倉が補任されていることで、彼らは「納銭方一衆」と呼ばれ、幕府直轄の諸荘園以外の収支経理や金庫番を担当していました。
民間の質屋兼銀行兼酒造会社が政府の役人を兼任しているようなもので、室町幕府がいかに京都の商人に頼っていたかということで、当時の複雑な社会の一端が垣間見えます。
その意味で室町幕府というのは、単に有力守護の連合政権でなく、かなり都会的な性格を持っていたと言えるでしょう。

もともと有力社寺の保護下に置かれていた土倉・酒屋は、当然のことながら五山はじめ有力社寺近辺に店を構えていました。
これが徐々に景観の良い遊楽地に店舗が作られるようになり、京都屈指の行楽地である嵯峨には10軒以上の酒屋が営業を行っていました。
そのうちの一つ、天竜寺境内の酒屋は土倉を兼業するとともに、天竜寺の財政を請け負い角倉(すみのくら)と称し、近世初期の豪商・角倉了以を出しました。

彼ら豪商たちは幕府に課役を納めつつ政所の役人となって、幕府財政を金融と業務の両方から支えていましたけれど、この他に幕府の外国貿易にも資金を提供していました。
室町幕府の外交は、基本的に五山の僧侶があたっていましたけれど、それを支えていたのは豊富な資金を持つ土倉・酒屋だったのです。
ここまでくると総合商社に近く、彼らの歴史に果たした役割の大きさが見えてくるというものです。

彼らは莫大な富を手に大きな屋敷を構え、幕府政所の「納銭方一衆」の頭目だった正実という商人の屋敷は、応仁の乱の際に山名氏の陣所に使われ、また別の土倉の屋敷は大内氏に使われたりしました。
彼らの屋敷が有力守護の屋敷に匹敵する規模を持っていたということで、その権勢が偲ばれます。
彼ら土倉・酒屋はその財力と影響力の大きさから、京都の町衆を形成し、その代表となっていきました。

しかし権勢を誇った彼らも土一揆の襲撃を受けたり、徳政令の対象とされ始めると、その勢力にも翳りが出始めてきました。
幕府の有力者に莫大な銭を送って、土一揆の鎮圧方を依頼しても効果はなく、彼らは2つの道を選びました。
1つは隠れて酒屋や金融を営むもので、彼らは「請酒屋」「日銭屋」と称していました。
もう1つは自らの財力で武士を雇い、また自ら武装して土一揆に対抗しようという者たちです。
ちょうど土民プラス国人の土一揆から、国人連合の国一揆と土民のみの土一揆に分かれてきたこともあり、実際に土倉たちの組織した軍が土一揆を蹴散らすことさえありました。

彼らは戦国城下町においても、その卓越した財力と経済能力から戦国大名に重宝され、「蔵方衆」として戦国大名の財政運営に関わり、また城下町の運営を任されていきました。
彼らは戦国大名の御用商人として座と同じ組織を作り、その商人頭として大名の強力な保護のもとに彼らの支配を手伝っていったのです。
そして座がなくなった後、彼らはその富を元手に両替屋として再生し、商品流通の花形・問屋支配に乗り出していきました。

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