リアル!戦国時代 Vol.26

中世のキーワード・座シリーズ 第10回 酒屋

今回は酒屋について、ちょっとリアル的に見てみようと思います。
と言っても私は酒造りのプロでもなんでもないので、あくまで「ちょっと」という感じです。

日本の酒は米が原料であることは言うまでもありません。
都での酒造りについては、主に隣国である近江の米が使われました。
もともと近江は都の穀倉として扱われ、琵琶湖水運もあることからこれを利用した北国米なども近江経由で都に入ってきました。
近江坂本に集荷された米は、坂本の馬借によって都に運ばれ、米座を経て酒屋に持ち込まれます。

次に酒麹です。麹は北野天満宮に属している、西京の酒麹座が酒屋に供給しました。
この麹は米や麦などを蒸して、麹室という温度の安定している部屋で作られます。
温度安定ということを考えると、地下ないし半地下の施設ではなかったかと思います。
テレビなどでも最近はよく見かけられるように、精米して蒸した米を麹室に敷いたムシロに広げ、その上に酒麹を振りかけてよく混ぜ合わせます。
これで酒麹が米に付着し、麹が活動を始めるわけです。

麹は麹菌というカビの一種で再生産できるものなので、酒屋の中には酒麹座から手に入れた麹を取っておいて、自分のところで酒麹を作るものが出てきました。
そうなると酒麹座と酒屋の間には反目が生じ、じっさい室町時代も中期には酒屋が山門の権威を持ち出してきて、北野社の酒麹座と争いになり、酒屋の密造麹室が破却され、幕府が鎮圧の兵を出したところ、酒麹座の神人たち数十人が北野社に立て篭もって放火自殺するという大騒動になったこともありました。

さて充分に麹菌のついた米は大きな甕に移され、水を足してよく掻き回し、発酵させます。
これでとりあえず濁り酒の完成ですけれど、これを酒母としてさらに米と麹、水を足して仕込む添仕込みという方法もありました。
現在のように寒仕込みでの酒造りができたのは近世18世紀以降で、それ以前は年間を通じて造られていました。
このように造られた酒は小売の請酒屋に卸されたり、また振り売りの売り子によって市中に出回っていました。
また、守護の屋形など大口の顧客には、酒屋が直接販売していたことでしょう。

振り売りの売り子は木桶2つを縄でくくり、天秤棒にさし渡して担いでいたことが『職人尽歌合』などに描かれています。
焼きものの壺とか甕は重いですから、木桶にしたのでしょう。

ここでちょっと「壺」と「甕」についてお話しましょう。
文献資料には「酒壺役」とか記述されていて、あまり「甕」とかは書かれていません。
現代と同じように当時の人々も両者を同一視していたようで、そのあたり、当時の人々も案外無頓着だったようです。

考古学的には、いちおう壺と甕は別物として扱われています。
胴体部分の上半分の、胴体が一番膨れているところから上に向かってくびれていく部分を「肩口」と言い、その上の一番細くなったところが「首」、そこから上は「口縁部」となります。

この「肩口」と「口縁部」の大きさの違いによって、「壺」と「甕」と分けています。

「肩口」が大きくて「口縁部」の小さいものは「「壺」、「肩口」と「口縁部」の大きさの差のあまりないものを「甕」といいます。

よく大きいものを「甕」、小さいものを「壺」と勘違いされている方も多いのですけれど、大きさはあまり関係ありません。
底の大きいものは安定しやすいですが、「肩口」が大きすぎると不安定になります。

博物館などで、備前焼の大甕など、やたらに底の小さいものが地震などで倒れないように、固定してあるのをよく見かけます。

大きなものでは「肩口」の口径が1メートル以上のものもあり、高さもそれに見合って1メートル超ですから、展示ケースに入っていると、かなりの迫力があります。
こういう不安定な甕は大きなものであれば、地面に下半分を埋めて使っていたようです。


それで、四角い瓶のようなものを作れば安定するし、運送にも便利なように思うのですけれど、それらの出土例はほとんど見かけません。
四角にすると作るときに接着部分が多くなり、水漏れの原因になることと、作るときに轆轤(ろくろ)や回転台などを多用していたことから、球形にしたのだろうと思います。




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