リアル!戦国時代 Vol.28

中世のキーワード 「座」 シリーズ 第12回 都の米座

このところ食べ物関係が続いているので、ここで米座の登場です。
米しか食べないということもなかったでしょうが、とりあえず「主食」として扱われ、そのために一大消費地である京都と、地方での米座の2つに分けて、見ていこうと思います。
まずは京都の米座についてです。

京都で消費される米のほとんどは近江米で、大津に集荷された米は、坂本の馬借や車借によって京都に運ばれていきました。
また西国米は淀川を遡ってきて、鳥羽で荷揚げし、そこから都に持ち込まれています。
主食として日々の生活に欠かせないものですから、初めはどうしても売り手市場になるのか、中世初めの京都の米売買は、これら坂本や鳥羽の米商人に牛耳られていたようです。
そして彼ら外来商人から主導権を奪おうと、京都にも米座が結成されていきました。

ただやはり当時最大の人口を有し、消費も他とは比べものにならなかったためか、京都の街中に「米場」という卸売り市場が作られて、1度そこに米を集積させ、それから小売に回されていきました。
この京都米座は上下に分かれ、上京は三条室町に、下京は七条の市にありました。
ただ『上杉本 洛中洛外図』には、三条烏丸に米場が描かれているそうで、烏丸通りと室町通りとが隣接していることから、これは同一の場所と考えられます。
また三条や七条には、この他にも鳥獣を扱っていた鳥座もあったことから、米だけの市場でなかったことがわかります。
おそらく洛中の市場町として、このあたりは人や荷物でごった返し、喧騒のさまは凄まじかったことでしょう。

京都の米座は朝廷の大炊寮に属しており、初めはその頭人である押小路家が管轄していました。
それで米場を仕切り、米座として京都に威をふるっていたのが、あの一筋縄でいかない四府駕輿丁座でした。
彼らは都の米を一手に扱い、独占して利益をむさぼっていたのにもかかわらず、押小路家に納める1年間で20貫という課役をたびたびサボり、揉め事を起こしていました。
駕輿丁座として押小路家からの課役以外は免除され、しかも米座として公的に独占権を認められていたのにもかかわらず、わがままし放題といった感じです。

押小路家に属していた初めの頃は駕輿丁座だけでなく、山門の日吉神人なども米座を作っていたのですが、文明年間に押小路家が1度断絶したために、大炊寮の寮頭が清原家(舟橋家)に移り、この頃から京都の米は完全に駕輿丁座の独占となりました。
ちなみに彼ら米販売人は、永享10(1438)年には洛中に120人を数え、規模から言っても屈指の大勢力でした。

これは信長の京都進駐まで続き、その間、彼らの独占が続いたわけです。
彼らはかなり横暴だったようで、豊作の年に米の京都流入を阻止し、米価の下落を防ぐというようなこともしており、このため京都だけが飢饉になるということも何度かありました。
彼らの力はそのまま彼らの発言権の大きさをあらわし、このため米座は「諸座の上座」として扱われたのです。

さて、米場で米屋などに振り分けられた米は、洛内の米屋や米行商の手によって販売されていました。
『職人尽歌合』などによると、米行商は一抱えほどの袋に米を詰め、ござの上に広げて升での量り売りをしていたようです。
米行商に限らないのですけれど、行商にも女性の姿はかなり見られ、市場内にも多数の女性が商人として振る舞い、時に男たちと丁々発止のやりとりをしていた様子は、狂言などでもよくわかります。

現代でも米は流通段階までは精米されずに玄米のままですけれど、当時は小売の販売段階でも籾の状態だったようです。
フロイスの『日本史』によると、永禄3(1560)年に宣教師が初めて京都に定住したとき、買ってきた米の脱穀を周囲に頼んで断られた記事があり、購入された米は各自の家で脱穀精米していたことがわかります。
また、米を炊く釜は貴重品だったようで、庶民はたいがい土鍋で炊いていたようです。
当然、かまども大きなものではなく、小型の陶製かまどを土間に置いて使っていたと思われます。
こういうことを考えると、食事の準備には大変な手間と時間がかかったのだなと思います。

ついでに都での飲料水についてですが、井戸を使い、雨水も溜めていたと思われます。
鴨川の水については、河原に死体を放り出してるくらいですから、室町以前においても、そうそう飲めなかったろうと思います。
それに人口が多いですし、その分、人体から排泄されるものも多量で、井戸水といえども、生水は危なくて飲めなかったはずです。
やはりフロイスの『日本史』によると、水は1度沸かしてから飲むという記述があり、水のきれいな田舎と違って、昔も都会は飲料水で苦労していたようすが窺われます。

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