リアル!戦国時代 Vol.29

中世のキーワード 「座」 シリーズ 第13回 地方の米座と年貢枡

一大消費地である都と違って、地方の場合は当然のことながら田畠が周囲あちこちにあり、領主が一手に掌握していたと考えがちですが、どうもそうではないようです。
戦国以前の、荘園がまだまだ健在の頃は各荘園ごと、地頭領ごとに年貢収納額が決定し、極端な違いはないとは言え、百姓衆と領主側との折衝の中から米が収納されていきました。

領主側の武士たちが村に来て、年貢米を運ばせたところもなくはなかったでしょうけれど、これはかなり例外的といえます。
このあたり、領主たちもかなり商人に依存していました。
特に水陸交通の要に営業していた問丸などは、年貢米の市場での販売も手がけており、船賃・関銭・保管料その他の必要経費と手数料を差し引いた残りの額を領主に納めている事例もあり、こちらの方が一般的だったようです。

これら有力商人を被官として自分の勢力に組み入れ、なおかつ彼らの本業である商売によって他国との交易や情報収集に当たらせていた大名として、駿河の今川氏が挙げられます。
今川義元は府中の大商人・友野次郎兵衛に友野座というものを作らせ、飢饉などの際には他国米の買い付けや武士たちへの販売を行わせていました。
府中には米座もあり、町民一般にはこの米座が販売を担当していたのですけれど、今川義元の贔屓もあって友野座の勢力拡大につれ、米座への介入も行われていたのではないかと考えられています。

この時代は、商人でもかなり自立的な傾向が見られるので、彼らは後世のように武士を支配者として立てるわけでもなく、対等の者として折衝に当っていました。
これは百姓衆などの農民も同様で、戦国大名といえども市場や村々での勝手な振る舞いは許されませんでした。
ただ珍しい事例としては甲斐の武田氏の場合で、ここでは配下の部将への知行の1つとして市場での得分(利益の一部)や座役などを与えています。

全国各地におそらく米座はあったはずですけれど、史料的制約もあって、なかなか現状では確認できません。
ただ、地方の米座は年貢収納の関係から「枡取」つまり米の計量も司っている場合もあり、枡座(升座)を作って領内の枡を統一させていました。
彼らは年貢米の徴収にも関わり、ここでも領主の側が商人に依存していたということがわかります。

ついでながら、枡について付け加えます。
中世の枡は各地ばらばらで、度量衡が統一されておらず、天下統一によって度量衡が定められたと教科書などでは記述されています。
しかし中世の枡は本当を言いますと「各地ばらばら」どころではなく、むしろ「てんでばらばら」に近いものがあります。

まず第1に、領主が年貢米を収納する枡は大きめに作ってあり、その領主が年貢米を分配するときは、小さめの枡を使います。
これはどうも、かなり古くから連綿と続く不文律のようで、この慣習はかなり後世まで続けられていました。
第2に、各荘園ごと、各領地ごとで枡の大きさは変わっていました。
売り捌きのための市場での枡もまた別にあり、本当にこれが何百年も続いていたのかと信じがたいものがあります。

第3に、戦国大名の作った枡も各個ばらばらでした。
甲斐武田氏の場合、府中の小倉惣次郎を枡方に定めて甲州枡として領内に通用させていますけれど、小山田領の都留地方だけは別の枡を使用していました。

基本的に地方商業の中心地で使われていた枡を公式な枡として採用していくようにはなりましたが、それ自体がけっこうばらばらなものであり、前述したように年貢収納専用の枡も残っていたりして、完全な度量衡の統一には程遠いものがありました。
しかし1度枡をともかくも領地内で統一してしまえば、あとは枡座や米座が煩雑な業務を請け負ってくれるわけですから、その労力削減は今のリストラの比ではありません。
ちなみに近江の「武佐枡」は8合枡を10合枡とし、4斗俵を5斗俵として使用しており、これは慶長年間にも使われていました。

彼ら戦国大名は、城下町に家臣団のみならず商人団も移住させて領域支配の一翼を担わせており、その意味では中世の方が近世よりも合理的でした。
商人の側は地元では御用商人として利益を上げられ、なおかつ他国では一介の商人として振舞える自由を保持しており、中世という時代のもつ独特のあいまいさは社会を複雑にしましたけれども、複雑な中にも不思議な自由さが残されていたと言えるでしょう。

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