アイコン歴史探検人物辞典巻の2
 

いやぁ〜、先は長いですね。
せっかくここまで作ったんですが、せっせと集めた資料をなくしてしまいました。うっ、いと悲し(T_T)

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芥川龍之介
明智光秀
浅野長政
足利尊氏
足利義政
足利義満
足利義持
阿倍仲麻呂
安倍頼時
天草四郎
新井白石
安藤広重
安徳天皇
井伊直弼
池田勇人
石川啄木
板垣退助
市川房枝
一条天皇
一遍
伊藤博文
井上馨
伊能忠敬
岩倉具視
上杉謙信
内村鑑三
運慶


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井伊 直弼
いい なおすけ
18151860
江戸時代末期の政治家。近江(現・滋賀県)の彦根藩主。
幕府を強化するため、改革派の親藩・外様大名に反発し、保守派の譜代大名の中心となります。13代将軍・徳川家定(いえさだ)の後継ぎ問題では、改革派の推す一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に反対。幕府の最高職・大老の地位に就くと、すぐさま保守派の推す紀伊藩主・徳川慶福(よしとみ・のちの家茂・いえもち)を後継ぎに決定しました。
開国論者で、1858年、アメリカ公使ハリスにせまられ、天皇の許しを待たずに日米修好通商条約に調印。 反対派の吉田松陰ら多くの志士を処刑する安政の大獄を起こしました。このため、江戸城桜田門外で水戸(現・茨城県)の浪士らに暗殺されました。
いいなお茶漬け(?_?)。
池田 勇人
いけだ はやと
18991965

政治家。広島県出身。
京都帝大法科を卒業し大蔵省に入ります。大蔵次官を辞任し、1949年衆議院議員に当選。吉田茂内閣の大蔵大臣、通産大臣を歴任しますが、「貧乏人は麦を食え」と失言して、辞任。その後も吉田の側近として活躍。 石橋湛山(たんざん)内閣、岸信介(きししんすけ)内閣の閣僚を歴任しました。
1960年、岸内閣総辞職後、総理大臣に就任。高度経済成長政策をおしすすめ、所得倍増を唱えました。文教政策では人づくりに力を入れましたが1964年、病気のため辞任しました。

石川 啄木
いしかわ たくぼく
18861912
明治時代末期の詩人・歌人。岩手県出身。
盛岡中学を中退して上京。明星派のロマン主義詩人として出発しました。
病気のため帰郷し、与謝野鉄幹(よさのてっかん)の指導を受けつつ詩作に努めました。貧乏のため代用教員をしたり北海道をさまよった後、再び上京し、朝日新聞社の校正係となります。貧しい生活の中で、人間の悲しみを、ロ語体、三行書きの革新的手法で短歌にしました。
肺結核で死亡。
歌集に『一握の砂』『悲しき玩具』などがあります。
君から爆竹(?_?)。

板垣 退助
いたがき たいすけ

18371919
明治時代の政治家。土佐藩(現・高知県)出身。
幕末、討幕運動に参加。功労があったので明治新政府で要職につきますが、西郷隆盛の征韓論を支持し、敗れて政府を去りました。
翌1874年、「民撰議院設立建白書」を政府に提出し、自由民権運動のきっかけをつくりました。
高知に帰ると立志社(りっししゃ)をつくり、西南の役後は愛国社、国会期成同盟を結成して国会開設運動を指導しました。1881年、自由党をつくって総裁となり、各地で演説して回りましたが、翌年、岐阜で暴漢に刺された時、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだといわれています。その後、運動と弾圧が激化すると党を離れました。
1898年に、大隈重信と結んで、日本最初の政党内閣・隈板(わいはん)内閣を結成して内務大臣となりますが、すぐ分裂し、引退しました。
市川 房枝
いちかわ ふさえ
18931981
婦人運動家・政治家。愛知県出身。愛知女子師範学校卒。
小学校教員、新聞記者を経て、1919年、日本労働総同盟婦人部に入ります。翌年、平塚らいてう(雷鳥)と新婦人協会を設立、1924年には婦人選挙権獲得同盟をつくり、婦人運動のりーダーとして活躍しました。
戦後は婦人有権者同盟を組織、1953年以後は、参議院に無所属で当選を重ね、政治浄化のためにたたかいました。
一条天皇
いちじょうてんのう
9801011
第66代。在位986〜1011年。円融(えんゆう)天皇の第一皇子。母は藤原兼家(かねいえ)の娘、東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんこ)
藤原氏全盛期の天皇で、藤原道長(みちなが)の娘を中宮(ちゅうぐう)にしました。また朝廷には紫式部、清少納言ら、すばらしい人材が集まっていました。
一遍
いっぺん
12391289
鎌倉時代の僧で時宗の開祖。伊予(現・愛媛県)の豪族の子。
7歳で仏門に入り、天台宗を修めたのち、浄土宗の他力念仏の教えを受け、やがて時宗を開きます。熊野や伊勢など、当時信仰を集めていた神社の参詣者に自分の信仰を広めました。全国各地を遊行(ゆぎょう)して回ったので、遊行上人ともいわれています。踊り念仏を流行させました。一遍の生涯を描いた絵巻が多く残っています。
写真は、京都・長楽寺の一遍上人立像(1420年作、木造、彩色、玉眼入り、康秀作)。
伊藤 博文
いとう ひろふみ
18411909

明治時代の政治家。長州藩(現・山ロ県)の貧農の子。
吉田松陰の松下村塾に学び、尊皇攘夷運動に参加します。藩の命令で、井上馨らとイギリスに留学。四カ国国国連合艦隊下関砲撃事件のため帰国し、講和にあたります。
高杉晋作らと維新に奔走し、明治新政府では岩倉具視について欧米を視察、やがて政府の中心となります。
自由民権運動をおさえようとしましたが、国会開設と憲法発布を行わざるを得なくなり、1882年、ドイツでプロシア憲法を調査。1885年に初代総理大臣となり、1889年、天皇主権の大日本帝国憲法を発布しました。1892年、第二次内閣で日清戦争を遂行し下関条約を結びます。1900年、立憲政友会(りっけんせいゆうかい)を結成し、第四次内閣を組織。
日露戦争後は初代韓国統監(とうかん)となり、支配を強化して韓国併合の基礎をつくりましたが、満州視察の途中、ハルビンで韓国の民族主義者安重根(あんじゅんぐん)に暗殺されました。

井上 馨
いのうえ かおる
18351915
明治時代の政治家。長州藩(現・山ロ県)出身。
松下村塾に学び、幕末の尊皇攘夷運動に参加。1863年、伊藤博文らとともにイギリスに留学し、帰国後は開国論に転じて討幕運動に参加しました。
明治維新後は要職について廃藩置県、地租改正をすすめ、第一次伊藤内閣で外相となって条約改正に努めました。極端な欧化主義政策をとっていわゆる鹿鳴館時代を生み出しましたが、非難を浴びて辞職しました。
三井財閥と密接につながり、財界の大御所として、また政界の元老として最後まで大きな力をもっていました。
伊能 忠敬
いのう ただたか
17451818
江戸時代中期の地理学者。上総(現・千葉県)出身。
酒造家の養子となります。
45歳ごろから独学で勉強を始め、49歳で隠居すると、江戸に出て、幕府の天文方(てんもんがた)に仕えていた高橋至時(よしとき)に西洋暦法、測量術を学びます。
1800年、幕府の求めにより、蝦夷地(現・北海道)沿岸を測量し地図を作りました。至時の死後は、幕府の役人として17年かけて全国を測量し、『大日本沿海実測全図(だいにほんえんかいじっそくぜんず)』を作ります。これが日本最初の実測地図。
この地図は、のちにシーボルトが入手し、シーボルト事件を引き起こします。シーボルトは国外追放となりますが、隠して持ち帰りアジア政策に役立てました。
岩倉 具視
いわくら ともみ
18251883

明治初期の政治家。京都の公家出身。
孝明天皇の侍従(じじゅう)となりましたが、幕府に呼応して公武合体を説いたためー時的に失脚します。
徹底した尊王嬢夷論者で、討幕運動に加わり、1867年、大政奉還後、大久保利通らと王政復古のクーデターを行いました。
明治新政府では、1871年、右大臣となり、全権大使として欧米を回りました。帰国後、征韓論を唱える西郷隆盛らを追放し、大久保らと内政充実に努めました。また自由民権運動の拡大を前に、大日本帝国憲法の土台をつくり、皇室制度の整備にはとくに力を入れました。

 
上杉 謙信
うえすぎ けんしん
15301578
戦国時代の武将。越後(現・新潟県)の守護代・長尾為景(ながおためかげ)の子。景虎(かげとら)、政虎(まさとら)、輝虎(てるとら)と改名した後、仏道に入って謙信と名乗ります。
兄の晴景(はるかげ)と争って家を継ぎ、春日(かすが)城主となりました。北条氏康(ほうじょううじやす)に追われた関東管領(かんとうかんれい)・上杉憲政(うえすぎのりまさ)を迎え、その求めに応じて北条氏と戦い、1561年、憲政から上杉姓と関東管領職を与えられました。
勇敢かつ戦のすすめ方がうまく、たびたび戦って勢力を広げました。とくに甲斐(現・山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)との川中島の戦いは有名。また、塩不足に苦しむ敵国・甲斐に塩を送ったという伝説もよく知られています。天下を取ろうと京をめざす途中で病死しました。
信仰にあつく生涯、独身でした。
内村 鑑三
うちむら かんぞう
18611930
明治・大正時代のキリスト教指導者。高崎(現・群馬県)藩士の子として東京に生まれました。
札幌農学校を卒業後、アメリカに留学し、キリスト教を学んで帰国。
第一高等中学校(現・東京大学)の教師となりましたが、教育勅語の礼拝をこばんだため不敬罪(ふけいざい)で職を失いました。
のち足尾銅山の鉱毒事件では財閥批判、日露戦争では非戦論を主張。雑誌『聖書之研究』を出版し、無教会主義のキリスト教を広めた。
口から胆のう(?_?)。
運慶
うんけい
?〜1223
鎌倉時代初期の仏像彫刻家。康慶(こうけい)の子。
従来の定型化した彫刻に写実的な新風を吹きこみ、いきいきとした様式をつくり出しました。その技法は以後長らく日本彫刻の手本となりました。代表作は東大寺南大門の『金剛力士像』、円成寺(えんじょうじ)の『大日如来像』など。
男性的な力強さが特徴。

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