アイコン三浦一族
 

三浦半島にもっとも縁のある歴史的人物はというと、三浦一族ではないでしょうか。
現在、三浦一族を主人公にした大河ドラマを実現させようという計画があるようです。
う〜ん、実現させるのは、かなり難しいかも・・・
くらのすけは自称、三浦一族の末裔です(^_^;)。

いつになるかわかりませんが、より詳しい内容でUPする予定です。

アイコン三浦一族家系図

三浦一族家系図

アイコン三浦一族の紹介

大多和三郎義久
おおたわさぶろうよしひさ
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鎌倉時代初期の武士。三浦義明の三男で三郎と称し、三浦郡大田和村に住み、大多和(大田和)を名字としました。
石橋山の合戦で、三浦義澄らと出陣するが、間に合わなかった。帰路、畠山重忠と小坪坂にて合戦、さらに衣笠城で合戦、その後兄弟らと安房へ逃亡。のち、鐙摺の城跡に館を構えました。
佐原十郎義連
さわらじゅうろうよしつら
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鎌倉時代初期の武士。三浦義連。三浦義明の末男で、三浦郡佐原に住み、佐原十郎と称しました。
源頼朝の伊豆挙兵に参加、以後平氏、奥州藤原氏討伐にも従軍。頼朝に信頼されその随兵となりました。頼家、実朝にも仕え、和泉、紀伊国の守護を勤めました。横須賀市岩戸の満願寺にお墓があります。
多々良重春
たたらしげはる
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鎌倉時代初期の武士。三浦義明の孫。
1180(自照4)年石橋山の敗戦後、三浦へ引き返す途中、平家方の畠山重忠軍との戦いで、材木座の来迎寺付近で戦死。
三浦道香
みうらどうこう
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戦国時代の武将。三浦義同の弟。
逗子の住吉城城主として1513(永正10)年、義同らとここで北条早雲と戦い敗れ、逗子に逃れて自害します。家臣の、菊池幸右衛門が道香の冥福を祈るため建立した延命寺に、道香とその家臣たちの墓という宝篋印塔が残っています。
三浦義明
みうらよしあき
10921180
三浦義明座像平安時代後期の武将。三浦義継の子。義澄義連らの父。
三浦大介と称し、1180(治承4)年、源頼朝が挙兵すると一族をあげて頼朝に合流しようとしましたが、間に合わず、衣笠城に引き上げる途中、小坪坂で平家方の畠山重忠らと戦い、さらに衣笠城で籠城して平家方と合戦。1日で敗北。義澄以下一族を諭して、安房へ逃亡し頼朝と再起を図らせ、自身は城に残り討ち死にします。 享年89歳。
のち頼朝は、義明の恩に報いるために、大矢部に満昌寺を建立し、一族をあつく遇しました。
右写真は、満昌寺の三浦義明座像。
三浦道寸義同
みうらどうすんよしあつ
14641516
室町時代後期の武将。上杉高救の子。三浦時高の養子となり三浦氏を継ぎます。
のち、実子の誕生で時高と不仲になり、小田原へ遁世して僧となりました。母の実家の小田原城主大森氏や、三浦の家臣の支援を受け、1494(明応3)年時高を討ち三浦氏を継ぎ、荒井城の城主となります。
のち、同城を子の義意にまかせ、自身は相模の岡崎城(伊勢原市)へ移ります。やがて、相模制圧を目指す北条早雲と対立。1513(永正10)年早雲に攻められ荒井城へ退き、1516(永正13)年7月11日、荒井城で自害。毎年5月の最終日曜日には、「道寸まつり」が油壺で行われます。
三浦義澄
みうらよしずみ
11271200
鎌倉時代初期の武将。三浦義明の次男。義村、胤義らの父、三浦本家を継ぎ三浦介、三浦別当と称します。
源頼朝の伊豆挙兵に間に合いませんでしたが、以後、頼朝に従い活躍。1199(正治元)年、宿老13人の1人に選ばれ幕政に参加します。
横須賀市大矢部の薬王寺跡にお墓があります。
三浦義村
みうらよしむら
????1239
三浦義澄の子。
梶原景時の追放や、畠山重忠討伐にも活躍。北条氏と組んで勢力を拡大しました。
和田の乱(1213)では直前に裏切り北条方に付くきます。
実朝を暗殺した公暁は、義村の邸へ向かったが義村により討たれ、これにより、実朝暗殺の黒幕が義村との説もあります。
承久の乱に際しては、上皇方に付いた弟胤義の幼い遺児たちを、北条氏をはばかって田越川ほとりで処刑。 その供養のため、新逗子駅近くに、大正時代、三浦胤義遺孤碑が建立されました。
三浦荒次郎義意
みうらあらじろうよしもとorよしおき

????1516

義同の嫡男で、才器非凡にして身の丈7尺5寸、85人力といわれ、その勇敢さは後々世の語りぐさとなり、飛首伝説なども残っています。
1510(永正7)年義同とともに北条早雲を、逗子の住吉城を攻めてこれを奪取。1516(永正13)年油壺の荒井城で、早雲により包囲され父とともに戦死。
現在、義意のお墓のあるあたりで荒井城最後の合戦が行われ、ここで戦死したといわれています。享年21才といわれていますが不明。
和田朝盛
わだとももり
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和田義盛の孫。武道をもって、将軍実朝に使え近習になりました。
和田の乱(1213)では、実朝に従って父祖に背き、父祖に従えば実朝に不忠となることに悩み、僧となり京へ逃れようとしましたが義盛に呼び戻されて、父祖とともに戦い敗れます。
その後、家来15人を連れて帰農し、その地を朝盛の法号から『高円坊』と呼ぶようになりました。その家臣たちの子孫は、川名、加藤、鈴木、青木・・・などと名乗ったそうです。高円坊の日枝神社前の畑に、朝盛塚があります。
和田義盛
わだよしもり
11471213
三浦義明の長男の杉本城城主・杉本義宗の長男。武芸に秀でた豪傑であったそうです。
源頼朝の挙兵から従い、鎌倉幕府の成立に貢献。幕府の侍所初代別当(長官)となりますが、やがて北条氏と対立。1213(建保元)年北条氏に挑発され、和田一族は武装蜂起し奮戦しましたが、敗れて滅亡しました。このとき、一族の三浦義村は、蜂起直前に北条方に寝返り、後世同僚から「三浦の犬は友をも食うぞ」と皮肉られたそうです。
菊名重氏
きくなしげうじ
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義同の家臣。南下浦町菊名を領していた武勇の士。
永正年間(1504〜21)に北条早雲との戦いで主君義同の一子荒王丸救出に奮戦し戦死。
三浦市菊名の白山神社近くに碑があります。これは、菊名海岸の浜の宮から移したもの。屋敷があったあたりは、『浜御殿』というと地名で呼ばれています。

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