
中山法華経寺と日蓮【中山法華経寺】
中山法華経寺は全国的にも有名な日蓮宗の寺院です。
JR下総中山駅、若しくは京成中山駅から緩やかな上り坂の参道をまっすぐ進むと目の前に見えて来ますので、まず迷う事は無いと思います。
日蓮宗を開いた日蓮は「法華経」を唱えることで成仏出来ると唱えて他宗派を激しく攻撃しました。1260年(文応元年)には「立正安国論」を著して時の執権である北条時頼に日蓮宗に帰依しなければ国が滅ぶと予言して鎌倉の松葉ヶ谷で襲撃を受け(松葉ヶ谷の法難)、現在の下総中山の豪族であった富木常忍のもとに逃れました。常忍はその後に出家して日蓮の弟子日常となり、自宅を法華寺としました。
また、近くの太田乗明も日蓮の弟子日高となり、自宅を本妙寺としました。
その後、室町時代に法華寺と本妙寺が合併して、現在の法華経寺となったそうです。
現在の中山法華経寺は本妙寺のあった場所で、もとの法華寺は奥の院となっています。
奥の院は、中山法華経寺から更に北へ徒歩10分程度です。
ページトップの写真は祖師堂です。
境内にある法華堂、四足門、五重塔は国指定重要文化財となっています(左写真は五重塔です)。
また、聖教殿には日蓮自筆で国宝の「立正安国論」が所蔵されていますが、残念乍ら通常は非公開です。
余談ですが、この聖教殿はなかなか斬新な建造物でちょっと浮き立っています。明治時代に国宝「立正安国論」を保存すべく、当時の技術の粋を集めて築造されたものだそうで、こちらも一応歴史上重要な建造物ではありますが、ちょっと違和感を覚えなくもありません。
【日蓮について】
ここで日蓮について簡単に触れておきたいと思います。
日蓮宗の開祖である立正大師日蓮は、1222年(貞応元年)に、安房国東条郷片海、現在の千葉県安房郡天津小湊町御小湊に生まれました。家は漁師だったというのが定説ですが、武士それも鎌倉幕府御家人だったものの、父の代に領地争いの訴訟に敗れて小湊へ流された、との説もあり、定かではありません。全く個人的には漁師よりも武家出身の方が、その後の日蓮の行動には合致するようにも思います。
日蓮は1233年(天福元年)、12歳のときに天台宗清澄寺道善の指導を受け、16歳で出家すると、その後は各地を巡って修行を積み、「法華経」こそが最高のものである日蓮宗を開きました。
日蓮の思想は、「法華経」以前に説かれた経典は本来の釈迦の悟りを説き切っておらず、末法の世では「法華経」のエッセンスである「南無法蓮華教」を唱えるだけで成仏出来る、という極めて特殊なものでした。また、他宗派を激しく攻撃したことも日蓮の特徴です。
1260年(文応元年)、立正安国論を著して時の執権である北条時頼に日蓮宗に帰依しなければ国が滅ぶと予言して迫害(松葉ヶ谷の法難)されて下総中山の富木常忍にもとに逃れました。その後、1264年(文永元年)には小松原の法難、佐渡への流罪など様々な苦難を乗り越えて布教に努めます。
1282年(弘安5年)、療養の為に常陸へ向かう途中、武蔵国池上宗仲の屋敷で生涯を終えました。
ここで千葉県内にある日蓮に縁の深いお寺についても簡単にご紹介したいと思います。
【誕生寺】
日蓮は『本尊問答抄』にて自らの出生につき「安房国長狭郡東條郷片海」と述べており、また後日伝である『本門宗要抄』にても「出生の処は安房国長狭郡東條小湊の浦の釣人権頭の子」とありますので、日蓮がこの地に生まれたのは間違いありません。
誕生寺は、隣村である上総興津の佐久間兵庫助重吉の子、竹寿麿・長寿麿が日蓮の弟子、日家・日保となり、日蓮の誕生を記念して建治2年(1276年)に建立したお寺です。このため、日蓮上人を開山、日家上人を二祖、日保上人を三祖としています。
当初は現在の祓崎南端にありましたが、明応7年(1498年)と元禄16年(1703年)の地震と津波の為に損壊流出したため、宝永年間(1704-1711年)に現在の場所に再建されました。慶安元年(1648年)には三代将軍家光が御朱印により寺領を認めていますが、非常に広大な領地を保有した、関東屈指の大寺院でした。
宝暦8年(1758年)の大火で仁王門(上記写真)を除き全て焼失してしまいました。
仁王門は宝永3年(1706年)に26世大中院日孝上人の頃、水戸徳川家の助力を得て建立されたと伝えられています。
明治には大正天皇(当事東宮)平癒祈願所となり、また現在は断絶してしまいました(ニセモノが登場して話題になりましたが)有栖川宮熾仁により明治23年に有栖川宮家の御霊堂が建立されるなど、皇室との関わりも深い寺院です。
【清澄寺】
千葉県第二の高さである清澄山にある日蓮宗のお寺です。
本来は、宝亀2年(711年)に不思議法事が開祖し、慈覚大師が中興の天台宗の名刹でしたが、日蓮が若い頃修行したこともあり、昭和24年(1494年)に日蓮宗に帰属を変更しています。
(筆者も何度か訪れたことがありますが、HPの材料不足につき、今後追加取材して再アップ致します。)
【鏡忍寺】
JR鴨川駅を下車、鴨川シーワールド方向へ進むと途中から看板が出ていますので、あとは看板に従って進んでください。表通りからは大分中に入った場所にありますので、ちょっと判り難いかもしれません。
1264年(文永元年)11月11日、日蓮が十数名の弟子とともに天津城主工藤吉隆のもとへ招かれて向かおうとしていたところ、現在の鏡忍寺の辺りである小松原にて、浄土宗への信仰厚く日頃から日蓮の他宗派攻撃に恨みを持っていた当地の地頭、東条影信が襲い掛かりました(小松原の法難)。
弟子の1人で剛勇無双の鏡忍坊日暁がこれに立ち向かい、また、知らせを受けて工藤吉隆も馳せ参じましたが、両名ともに日蓮を守ってこの地で討ち死にしてしまいました。
日蓮は、鏡忍坊と工藤吉隆の亡骸をこの小松原の地に埋葬し、その後、工藤吉隆の遺子で日蓮の弟子となった日隆が、弘安4年、日蓮の命によりこの地に寺を建立し、殉教した二人の名から妙隆山鏡忍寺と命名しました。これが鏡忍寺の始まりです。
尚、鏡忍寺には、日蓮が文永11年(1274年)の身延山入山時の様子を伝えた、下総中山の富木入道にあてた「富木殿御書」という手紙が残されています。この手紙は記録上、元来は中山法華経寺に所蔵されておりましたが、何故、現在は鏡忍寺にあるのかは全く不明とのことです。
2003年12月
【参考文献】
『千葉県の歴史散歩』、千葉県高等学校教育研究会歴史部会編、山川出版社、1989年。
『「お坊さん」の日本史』、松尾剛次、NHK出版、2002年。