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堀之内貝塚

堀之内貝塚は、市川市立市川歴史博物館と考古博物館の敷地内に残っています。複数回にわたる大規模な発掘調査の結果か、表層にも多数の貝殻をみてとることが出来ますので、訪れたら是非実際に手にとって見てみては如何でしょうか?数千年の時を超えた感動があるかもしれません。でも遺物の持ち帰りは厳禁ですよ。遺跡見学はマナーを守りましょう。

下の写真は堀之内貝塚の碑の周辺の地面を、何もしないで(勿論穿り返したりしてません)撮影したものです。このような感じで表層を観察できます。

<堀之内貝塚の歩き方>
JR市川駅から京成バス国分経由松戸行きに乗って国分操車場又は博物館入り口で下車すると、国分操車場のすぐ横の信号脇に「市川歴史・考古博物館」の看板が立っていますので、看板に従って松戸方向に向いて左折、徒歩5分ほどで道が300度くらい左に曲がるところがありますので、そこを右折(来た道からみると殆ど直進)しますと、左手前方高台に白い建物が見えます。これが市川考古博物館なので、これを目指して進みましょう。殆ど碁盤の目のような道路配置なので、どの道を通っても大体辿りつきます。尚、入り口は歴史博物館と同じで、右側から回り込む感じになりますので、ご注意下さい。
歴史博物館の奥、考古博物館の手前右手一帯が堀之内貝塚です。
車の方は東京方向から国道14号を千葉方面へ、市川駅前を通過して左手に三菱石油、右手にセブンイレブンの角を左折(市川歴史博物館、考古博物館の看板あり)、京成の踏み切りを渡った信号5叉路を右斜前の道へ。あとは上記バスに同じです。

<堀之内貝塚の発掘について>
堀之内貝塚は明治以降複数回の発掘がされており、遺物の整理と研究も相当に進んでおります。最近の発掘は、北総開発鉄道の駅建設に伴う土地区画整理の必要性から行われています。堀之内貝塚周辺は、殆ど「遺跡銀座」とでも言ったら良いのでしょうか、縄文時代には入江となっていて狩猟に最適の場所だったようで、それ以前も以降も数千年の間、人間の生活空間であり続けたようで、堀之内貝塚公園1キロ四方だけでも、作兵衛台遺跡(縄文後期)、稲荷作遺跡(縄文全般)、鉄砲塚遺跡(縄文後期)、小塚山遺跡(弥生後期)、中国分遺跡(縄文前期)、北代遺跡(縄文前期)、八反割遺跡(縄文全般)、東山作遺跡(縄文全般)、大橋向山井関(縄文中期後期)、権現原遺跡(先土器)、イザナギ神社境内遺跡(縄文後期)、彦八山遺跡(縄文後期、弥生)が確認されています。
中でも堀之内は、先土器、縄文中期、縄文後期、中世の遺跡が混在しています。
これら全ての遺跡を完全の保存することは不可能ですから、遺跡破壊の前の精緻な調査と記録作業が必要となりますので、最近の発掘調査は市川市教育委員会と土地区画整理組合が共同で行っています。

<堀之内からの出土物>
堀之内からは、貝塚が築かれる前の先土器時代の遺物も多数出しています。剥片や破片以外で最も出土数が多かったのはナイフ形石器です。使用された石材の大半は良質の黒曜石ですが、昭和62年の調査報告書には産地は今後の研究によるとなっていて記載されていませんでした・・・・。恐らくもうある程度確定している筈なのですが、図書館にはこれ以上資料がありませんでした。申し訳ありません。いずれ再度調べます。
堀之内貝塚から出土している土器は、昭和15年に山内清男氏によって、新旧2型式に分類されており、旧式を堀之内T式、新式を堀之内U式と呼んでいます。
T式の特徴は、
・胴部の多少の脹らみ
・口縁部の大小の波状の突起
・器面の平行沈線を主とした渦巻文や雲形文
U式の特徴は、
・胴部の内側へのくびれ
・口縁の外反
・底部のすぼまりと外反
・上半部のみの帯状平行沈線及び磨消縄文と、幾何学文様
です。

また貝塚よりずっと時代が下った中世の遺物も多数出土しています。どうもこの周辺には城があったようです。
これについては「石井家落城伝説」というのがあります。戦国時代に堀之内貝塚に館を構えていた石井家は周辺一帯を支配していた武家でしたが、戦いに敗れ落城し、奥方は弁天池で入水自殺、娘は手足を切断されて惨殺されたという伝説です。今に残る姫宮(手児奈伝説の頁参照)は、このときの話に基づいているといわれています。

一番肝心の貝塚関連については、ちょっとここには書ききれないので、近々「マニアのための縄文文化(仮称)」という独立頁でご紹介したいと思います。

2000年5月14日