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国分寺の世界

<目次>(目次をクリック頂ければジャンプします)
1.国分寺・国分尼寺とは何か
2.国分寺建立の時代背景
3.下総国分寺の建造
4.下総国分寺の伽藍配置
5.下総国分寺の瓦
6.古代下総国分寺の消滅
7.下総国分寺に関する後世の記録

1.国分寺・国分尼寺とは何か

国分寺及び国分尼寺は、聖武天皇の詔によって一国に一寺建設されたものです。
然し、一般に歴史書に書かれているように、突然に国分寺建立の詔が出された訳ではなく、国家仏教の推進施策の一環として行われた種々指示の総仕上げとして、国分寺建立の詔が出されたと理解する方が正しいようです(右写真は再建された上総国分寺)。

仏教振興策に関する大まかな出来事を簡単に纏めますと、以下のようになります。

・天武14年(685年)3月:諸国に仏舎を造り、仏像や経を礼拝せよとの詔が出される
・持統7年(693年)10月:諸国で仁王経を講じさせ、翌年金光明経百部を全国へ配布する
・神亀5年(728年)12月:金光明経を再び全国へ配布する
・天平9年(737年)3月:釈迦仏像と挟持菩薩を造り、大般若経を写経せよとの詔が出される。
天平13年(741年)3月:国分寺(国分僧寺、国分尼寺)造営の詔が出される

上記から当時の流れを想像しますと、改まって寺の造営を命じたというよりも、寧ろ今までに出した仏像造営と写経、そして仏教崇拝の詔を徹底する為の、最後の一押しをしたという理解であるべきだと思います。

尚、実際にはこの一度の詔では、財政的に疲弊した地方国司を動かすことは出来ず、
・天平16年(744年)には諸国国司に対する国分寺・国分尼寺建立の督促
・天平19年(747年)には国司の怠慢を批判する文書
・天平勝宝8年(756年)には聖武天皇崩御に伴う一周忌に間に合うように建立せよとの督促
・天平宝字3年(759年)には国分寺・国分尼寺図面の配布
などが次々と出されていることから、地方での建立は全く順調ではなかったことが判ります。

国分寺造営の詔については、『続日本紀』『類聚三代格』からその詳細を知る事が出来ます。
・詔発布は天平13年(741年)3月24日(『類聚三代格』では2月14日)。
・七重の塔の建立(「国の華」とし、場所をよく選べとまで指示が出ている)。
・僧寺の名称は金光明四天王護国之寺。尼寺の名称は法華滅罪之寺。
・僧寺に施されたのは封戸50戸、水田10町。尼寺は水田10町。
・僧寺の僧侶は20人。尼寺の尼は10人。

『続日本紀』の該当箇所現代語訳全文は以下の通りです。
『続日本紀』巻第十四
(前略)
三月二十四日、天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしひらきとよさくらひこのすめらみこと、聖武天皇のこと)は次のように詔しました。
朕は徳の薄い身であるが、忝けなくも重任を受け継ぎ、まだ民を導く良い政治を広める事が出来ず、寝ても覚めても恥じることが多い。しかし古来よりの名君は皆祖先の仕事をよく受け継ぎ、国家は安泰で人民は楽しみ、災害無く幸いが齎されてきた。どのような政治を行えばこのような統治が出来るのであろうか。このごろは田畑の稔りも豊かでなく、疫病も多い。それをみるにつけ、我が身の不徳を恥じる気持ちと恐れとが湧き上り、心を痛め自分を責めている。そこで広く人民の為に普く大きな福があるようにしたい。先年駅馬の使を遣わして全国の神宮を修造し、去年は全国に一丈六尺の釈迦仏一体を造らせると共に大般若経を写させたところ、秋の収穫まで風雨が順調で五穀もよく稔った。これは真心が伝わった為で、不思議な賜り物があったというであり、恐ろしくもあり驚きでもあり、自分でも心が安まらない。そこで、経文を考えるに、金光明最勝王経には、「国内にこの経を講義したり読経暗誦したり、恭しく供養し、流布させれば、一切の災いは消滅し、憂愁や疾病も除去されるであろう。願いは心のまま、いつも喜びが訪れるであろう。」とある。

そこで、全国に七重の塔一基を造営し、会わせて金光明最勝王経と妙法蓮華経を書経させることとする。また、朕は別に金光明最勝王経を写経し、七重の塔毎に一部を置くこととする。仏法が盛んになり、天地に永く伝わり、四天王のご加護を死者にも生者にも届かせて、常に十分であることを願おうと思う。そもそも七重の塔を建造する寺は国の華であり、必ずよい場所を選んで真に永久足らんとしなくてはならない。人家に近くて悪臭が及ぶのは良くないし、遠くては集まる人々が疲れるので良くない。国司は国分寺を厳かに飾るよう努め、清浄を保つように。間近に四天王を感嘆させ、四天王が望んで擁護されるように請い願いなさい。遠近に布告を出して、朕の意向を人民に知らせなさい。また、国毎に建てる僧寺には、封戸五十戸、水田十町を施し、尼寺には水田十町を施せ。僧寺には必ず二十人の僧を住まわせ、寺の名は金光明四天王護国之寺としなさい。尼寺の尼は十人とし、寺の名は法華滅罪之寺としなさい。両寺ともに僧尼は受戒し、欠員があれば速やかに補充しなさい。僧尼は毎月八日には必ず金光明最勝王経を転読し、月の半ばには受戒の羯磨を暗誦し、毎月六斎日には公私共に殺生をしてはいけない。国司は宜しく常に検査をしなさい。
(後略)

以上が所謂「国分寺建立の詔」です。ここから、国分寺・国分尼寺造営の様子を可也詳しく知る事が出来ます。
(右写真は下総国分寺の寺門です。再建されたものですが、寺名として正式な「金光明四天王護国之寺」の額が掛けられています。)

2.国分寺建立の時代背景

国分寺建立の詔を出したのは申し上げるまでも無く聖武天皇ですが、実は光明皇后の影響が可也大きかったと思われます。その理由を理解頂く為、当時の日本史をざっとみてみることにしましょう。

聖武天皇から溯ること7代前が、天智天皇です。
天智天皇と蘇我倉石川麻呂娘(遠智娘)の間に産まれたのが持統天皇、天智天皇の弟が天武天皇です。
天智天皇の息子である大友皇子と天武天皇(大海人皇子)が後継者争い、即ち壬申の乱を起こしますが、これは天武天皇の勝利に終わります。
天武天皇と持統天皇の子供である草壁親王と、天智天皇の娘(元明天皇)が結婚し、その子供が文武天皇です。
この文武天皇と、藤原不比等の娘の間に産まれたのが聖武天皇で、聖武天皇の后である光明皇后は、藤原不比等と県犬養三千代の間に産まれた娘です。
つまり聖武天皇と光明皇后は、藤原不比等からつながる甥叔母の関係。とはいえ、持統天皇も父親天智天皇の弟である天武天皇と結婚していますから、こちらは叔父姪の関係ですので、この時代の天皇家ではそう珍しいことではありません。

<奈良時代初期天皇系図>


上図の通り、当時の天皇家は血族結婚と政略結婚が渦巻く壮絶な様相を呈しています。
加えて『日本書紀』や『続日本紀』からは、我が子を皇位につけようとにする母親の執念のようなものを感じることが出来ます。
そもそもの発端は、天武天皇の死後、持統天皇の実子草壁親王が病弱だった為、即位前に死去した事によります。なんとしても自分の血筋を絶やしたくない持統天皇は、やむを得ず一時自分が天皇となり、自分の孫、草壁親王の子(後の文武天皇)が成長するのを待ちます。
やっと待ちに待った文武天皇が即位するのですが、これまた父親の遺伝か病弱で、直ぐに崩御してしまいます。あとは持統天皇の直系というと草壁親王の娘(後の元正天皇)と、まだ幼児の将来の聖武天皇しかいません。止む無く、草壁親王の妻、元明天皇が皇位につきます。この辺りの経緯は、草壁親王が若死にし、その子が幼いために即位した持統天皇の状況と全く同じです。文武天皇までは、こうして持統天皇の執念とも言うべき自分の血筋への拘りによって皇位が受け継がれていきます。
ところが、聖武天皇から大きくその流れが変わります。当時宮廷では臣下ナンバーワンであった藤原不比等が、後の藤原氏の栄華の礎となる、娘と天皇の婚姻関係を次々と強化し始めるのです。
上記系図の通り、文武天皇の妃、藤原宮子も、聖武天皇の妃、藤原光明子も、いずれも藤原不比等の娘です。以後、皇室と藤原氏は実質一体化していき、天武天皇から始まる天皇中心の律令政治は、次第に宮廷貴族中心の貴族政治へと移行していきます。まさに聖武天皇の存在は古代日本のターニングポイントだったといえるでしょう。
また、各種資料を読むと、どうも時代に即位した男性の天皇は、遺伝子的な問題から相当に**だったようです。草壁親王は虚弱体質、文武天皇も同じく虚弱体質の上に、政治に関心の薄かった様子が数々記録されています。更に聖武天皇になると、政治には全く無気力で、日々狩りなどの遊びに耽っていたと記録されています。一方、女性は強く、虚弱な男性天皇を嘲笑うかのように、持統天皇、元明天皇、元正天皇が皇位をコントロールし、藤原氏に実権がうつった後は、天皇をコントロールするという重要な役割を、藤原不比等の娘達が握って行くことになります。この時代の歴史は女性が作ったと言っても過言ではないと、私は思います。

大分話題が横道にそれてしまいましたがこうした時代背景から国分寺・国分尼寺の建立の背景を想像してみますと、
「表向き」の理由としては;
壬申の乱から年月を重ねとりあえず天皇中心の国家体制も整ったものの、飢饉、病、外交不安(新羅との関係悪化)に内乱(藤原広嗣の乱)など、不安の種のつきない時代で、救いを仏教に求めようと、寺院の建立を思い立ったもの。奈良の東大寺と大仏などもその一環。また、諸国に仏寺をつくり、経文を下賜して、全国的な支配力の誇示しようとしたもの。
ということが出来ますが、「裏向き」の理由としては:
光明皇后とその背後にある藤原氏がその権勢を誇示し、天皇家にも影響力を及ぼす力を得た事を明確化した行為。
ということも出来ます。実は、詔にもはっきりと「藤原氏の繁栄を祈念」する文言が出てきます。完全な公私混同といえますし、当時の政府を実態的には藤原氏が握っていたことの証明でもあろうかと思います。

結局、国分寺建立とは、国家安泰を祈る事業というよりは、藤原氏の時代の到来を告げるものであったのかもしれない、というのが私の感想です。


3.下総国分寺の建造

以上みてきたような経緯で、国分寺の建立が全国に指示されます。
詔の発布された奈良の京から遥か500km離れた千葉県にも、下総・上総・安房の3カ国の国司に建立が指示が伝わったことでしょう。こうして下総の国の国分寺建立作業が、国司主導のもとに開始されることになります。

詔には、国分寺建立に際しては「人家に遠すぎては多くの人を集めるのに労がかかり、近すぎては穢れが及ぶので、適当な良い場所を選定せよ」と指示が出ていますが、下総国分寺の位置は、どうでしょうか。

下総国分寺は現在の地名では「国府台」に存在しています。
この「国府台」には、その名の通り当時下総国府があったことが発掘調査から確認されています。千葉商科大学の裏に、市川市総合運動場がありますが、ここの野球場が奈良時代当時下総国府の設置場所だったと推定されています(野球場と陸上競技場の間のロータリーには、「下総総社跡」の碑が設置されています)。
この下総国府から下総国分寺までは徒歩で約20分程度です。私も歩いてみましたが、アップダウンがきついものの距離的には可也近く、「国の華」として場所を選べとの詔の趣旨を踏まえれば、当時の政府の近くというは選択として妥当な場所ではないかと思われます。

更に、この国府台は下総台地の西端であり、西に江戸川、南に真間川、東に国分谷(国府台と隣りの須和田台を分断する低地)に囲まれています。この国分谷と真間川周辺が、現在でいうとJR線と京成線、国道14号の走る主要ルートですが、この辺りは古代から栄えた居住地であり、周囲には須和田遺跡、姥山貝塚、堀之内貝塚など、多くの遺跡が残されています。恐らく当時も多くの一般人の居住地があったものと推定されます。

このように、下総国分寺・国分尼寺は、当時の下総の国の中心である国府からも、人家からも、何れも歩いても15〜30分であり、且つ高台にあって川に囲まれた絶好の立地条件を満たしていたと思われます。


4.下総国分寺の伽藍配置

メインページにも書いたように、下総国分僧寺の伽藍配置は法隆寺様式です。
但し、発掘調査からは回廊と中門の位置が未確認な為、本当の意味での法隆寺様式かどうかは不明です。ここではあくまで金堂、講堂、仏塔の配置のみから法隆寺様式という用語を使用しています。

下総国分僧寺の金堂・講堂・塔は基壇をともなった建物です。基壇とは瓦葺きの建築物の場合、その重量に耐え得るように土台を版築で固めたもので、版築とは、古代中国から行われていた原始的な土木方法で、板で仕切ったスペースに土を詰め、上から突き固めることを繰り返して、土台や壁を作る工法です。
国分寺の基壇は、調査の結果、塔についてはかなりしっかりとした造りとなっていますが、金堂・講堂は版築も薄く、また塔は南北に2.3度の傾きなのに対して、講堂は3.16、金堂は4.25度の傾きをもって作られています。何故きれいに方向をそろえなかったのはは不明です。これについては発掘調査報告では、
1.まず最初に塔が建設された
2.次に僧寺の金堂・講堂と尼寺が建設された
3.その際、塔を造った後に基準線を変更した
4.その為に塔は略南北の軸線に対して、講堂・金堂、尼寺は東に5度弱ずれた基準線をもった
という見解を述べています。
塔、金堂、講堂の基壇の発掘調査からも、塔が最初に作られたのは間違いないようですので、恐らく軸線のブレにはそれほど大きな理由がある訳では無く、調査報告にある通り、建設途中で軸線を変更したものということなのでしょう。但し、この時代は地形や風水的な発想を気にかけていたようですので、僅か数度のブレとはいえ、国家の一大事業工事にこのようなファジーな部分が許容されたのかどうかは、やはり疑問にも思います。

国分寺では、柱の下には礎石が配置され、現在の境内に多数現存しています。大半は砂岩で、これは鋸山が産地ではないかと推測されます。他にも若干のへんま岩・はんれい岩も使用されていますが、これは筑波山が産地と推測されます。前者は東京湾→江戸川、後者は霞ケ浦→利根川→手賀沼→江戸川というルートで運搬されたのだと推定されています。この辺りには、国分寺創建事業のスケールの大きさが感じられるところです。


5.下総国分寺の瓦

国分寺の堂塔は発掘調査の結果、創建当時から瓦葺きであったことが確認されています。

瓦は、屋根に葺かれている部分のうち凸部を男瓦(おがわら)凹部を女瓦(めがわら)といい、軒先部分のうち丸い部分を鐙瓦(あぶみがわら)、丸い部分をつなぐところを宇瓦(のきがわら)といいます。鐙瓦と宇瓦には通常文様が施されますが、この文様によって様々なことがわかります。また、文様は「笵(はん)」と呼ばれる型を用いて作られますので、この笵の文様や擦り減り度合いが寺院建立の歴史的な変遷を調べる重要な手がかりとなるのです。国分寺の瓦は、いずれも国分寺周辺で焼かれたもので、国分台の斜面に瓦窯が残っています。

下総国分僧寺の鐙瓦は、創建期は宝相華文(ほうそうげもん)が多く用いられています。宝相華文とは、隋代に考案され、唐代に流行した文様で、通常の鐙瓦文様のように植物を図案化したものではありません。当時の日本では、鐙瓦に蓮華文(蓮華の華の模様)、宇瓦には唐草文(葡萄の蔓の模様)を用いるのが通常でした。一方当時の新羅では瓦に宝相華文を使うことが流行しており、類似した瓦は韓国慶州(当時の新羅)にその跡が残る臨海寺や四天王寺にみることが出来ますので、下総国分寺の建造には新羅からの渡来人が深く関わっていたと想像されています(左写真は現在の下総国分寺の軒瓦です。クリックすると拡大します)

また、瓦作成は当時の技術の先端でしたので、瓦の流れを追うと、技術者の流れもみえてきます。
下総国分寺の瓦のルーツを手繰ると、千葉寺や結城寺などの工人グループが国分寺に集まって作業をしていたことがわかります。

さて、下総国分寺については、この特徴ある「宝相華文」瓦と法隆寺式伽藍配置から、一つの仮説を導くことが出来ます。即ち、下総国分寺は、国分寺建立の詔が発せられる前から、存在していたのではないか、ということです。
聖武天皇の国分寺建立の詔以前に建築された寺院が、同詔によって国分寺へ模様替えした、と解釈することで、伽藍配置が東大寺式ではなく、その前の時代に流行した法隆寺式であること、瓦も新羅から伝わったと思われる様式をそのまま使用していること、などの説明がつくことになります。本来であれば同時に建設された筈の隣接する下総国分尼寺が、下総国分僧寺と異なり、国分寺建立の詔の時代に建てられた他の国分寺・国分尼寺の様式と略同じであることからも、それを裏付けているように思われます(下写真は下総国分尼寺の跡地)

全く想像の域を出ませんが、下総国分寺の建立は、実際には相当に古く、当時周囲を支配していた国司若しくは豪族により先進的な仏教文化を真っ先に下総の国に導入した寺院であったのかもしれません。
この周囲は「国府台古墳群」と呼ばれる古墳の密集地(但しその多くは宅地造成により消滅)でもあることから、可能性としては十分に考えられると思います。


6.古代下総国分寺の消滅

古代下総国分寺が消滅したのはいつごろなのでしょうか。

複数回にわたる発掘調査の結果、
国分寺跡は、
1層 10世紀中葉
2層 9世紀後半から10世紀前葉
3層 9世紀後半
4層 9世紀前半
5層 8世紀後葉
以上の通り1層から5層に分類され、このうち1、2層は自然堆積であり、1から2層で国分寺院区にある溝を破壊していることから、9世紀後半には国分寺の機能が相当に低下していたことは確認されるようです。

このことは、千葉県の歴史からも立証可能です。

平安末期になると東北の蝦夷が相次いで反乱をおこし、中央政府はその平定の為に多くの軍隊並びに資財を関東から徴発し、下総の人々は疲弊していきます。更に、鎮圧され服従した蝦夷は「俘囚」と呼ばれて全国へ移住させられますが、彼らの不満は徐々に高まり、嘉祥元年(848年)には上総で、貞観17年(875年)には下総で俘囚が反乱を起こします。記録では、この俘囚の反乱により、多くの良民が殺害され、官寺が焼かれたとあります。恐らく、国分寺・国分尼寺もまた、この時期に破壊されたものと推定されます。

国分寺はこうして一旦歴史の表舞台から消えて行くことになります。


7.下総国分寺に関する後世の記録

下総国分寺の跡地がどこであるのかについては、近世後半の書物に様々な記述がみられます。
『江戸名所図会』『下総国旧事考』『成田参拝記』が下総国分寺に関する記述のみえる主な書物といえます。これによると、当時既に下総国分寺の位置は全くわからなくなっており、昔堂(現国分尼寺跡)説、中山法華経寺説、小松川善照寺説、国府台弘法寺説、そして現在の国分寺所在地説など、様々な説が出ていたことがわかります。結局、結論は1932年から開始された発掘調査による出土物に基づき、昔堂が国分尼寺跡、現国分寺が国分僧寺跡と認定されました。


ここまでお付き合い頂いた珍しい方、本当に有り難うございました。
まだまだ不十分なところが沢山あります。今後都度更新していきますので、たまに再訪して頂ければ幸甚です。


<参考文献>
『下総国分寺跡発掘調査報告書』(1994年、市立市川考古博物館)
『下総国分寺』(1995年、市立市川考古博物館
『市川の歴史を尋ねて』(1988年、市川市教育委員会)
『市川歴史散歩』千野原靖方(1995年、市立市川考古博物館
『市川の歴史と文化財』(1989年、市川市教育委員会)
『日本文化の歴史 第3巻 飛鳥と斑鳩』和歌森太郎、町田甲一(昭和44年、学習研究社
『続日本紀(上)』宇治谷孟(1992年、講談社)
『日本書紀』井上光貞(1983年、中央公論社)
『悲劇の宰相長屋王』辰巳正明(1994年、講談社)
『千葉県風土記 歴史と人物』(1980年、大杉書店)

2003年3月