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下総総社

総社とは、その名の通り「社」を「総べる」という意味で、国内(市川の場合は下総の国内」)にある格式の高い神々を国府の近くに合祀したものです。
古代国司の重要な役割の一つとして「寺社仏閣の管理と参拝」がありますが、実際に領土内の神社を全て回って歩くことは極めて困難でしたので、巡拝の手間を省くために国府の近くに総社を作り、これを参拝することで全ての神社を回ったことにする、というのが「総社」が創建された趣旨です。従いまして、どの国でも総社は国府の近くに存在します。

下総の国の総社も、国府の近く、現在の市川市国府台にありました。


<下総総社の歩き方>

JR市川駅を下車し、北口を出て最初の信号(国道14号)で左折。市川橋手前を右折して道なりに直進して徒歩10分程度、右側にみえる市川市総合運動場が当時の下総総社及び国府跡です。
上記の行きかたが一番シンプルなのですが、これでは余り面白くありませんので、歴史散歩を楽しむのであれば以下の方法がお勧めです。然し、少しややこしいので、地図を持参の上で行ってみて下さい。

国道14号へ出てすぐ右手にある「日蓮宗真間弘法寺参道」の碑を右折、車一台がやっと通れる「大門通」を直進約10分、手児奈霊堂を横目にみて正面の山を登ると弘法寺ですので、そこを抜けて更に奥の千葉商科大学へ突き当たったら右折、千葉商科大学の塀に沿って左折し、直進すると、市川総合運動場への中の野球場付近がかつての下総総社跡です。


<下総総社の発掘調査>

昭和55年、市川市営総合運動場の改修工事に伴い、初めて本格的な発掘調査が実施されました。発掘は、残念ながら運動場建設及び明治時代以降の軍隊駐屯によって相当の遺跡破壊が進んでおり極めて劣悪な保存状だったため、かなりの困難を極めたようです。発掘結果、多数の竪穴式住居跡、土器(含む墨書土器)、鉄器、瓦類などが出土しました。これらの遺物の大半は古墳時代後期から奈良時代のもので、特に住居跡と瓦類は国分寺創建の頃のものと推定されています。


<下総総社跡地の今昔>

上述発掘調査の通り、下総総社の位置は現在の市川運動場内、野球場付近であることが確認されています。

現在では野球場とテニスコート、陸上競技場の間に上写真のような記念碑が建てられており、この場所が下総総社であり、周辺が律令国家当時の中心地であったことについて簡単な解説が書いてあります。下総総社周辺は、明治まで「六所の森」と呼ばれており、「六所神社」があったとされています。この六所神社が古来からの総社のことのようです。然し、現在の六所神社は全く別のところ、須和田町の郭抹若旧宅そばにあります(郭抹若旧宅も市川の誇る素晴らしい歴史文化遺産だと思うのですが、あまり取り上げられておりませんので、いずれ中国文学、歴史界に残した功績も含めて紹介したいと思います)。

総社は国府による支配が消滅した後も、里見氏・千葉氏など、この地を支配する一族に護持され続け、江戸時代にも幕府から御朱印を賜わるなど崇敬されていましたが、明治19年に陸軍によって一帯が練兵場として買い上げられ、総社は現在の場所に移転させられたとのこと。上写真は現在の六所神社ですが、非常に小さく、気をつけなければ地元の氏神社と見間違う程度のものになっています。
但し、今でも残る石碑を見ると、安永8年(1779年)のものもあり、古来から親しまれてきたことは確かなようです。

千葉商科大学横には「持国坂」と呼ばれる坂があり、その途中には文化5年(1808年)の銘のある道標が残されています(右写真参照)。この道標には、正面に「国分寺へ5町」、右側面には「総寧寺 六所神社」、左側面には「真間山」と表示されており、これから江戸時代後期の地理関係が推測できます。こうした道標は今日でもときどき見かけますが、じっくり見てみると結構面白く、かつ意外な事実が書いてあったりするものですので、見かけたらちょっと足を止めて何が書いてあるのか読んでみるのは面白いですね。