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曽谷貝塚



【曽谷の歩き方】

曽谷貝塚は、市川市曽谷の住宅街の真ん中に存在します。現在は遺跡保護のため、一帯を公園化しています。
JR本八幡を下車、北口を直進2kmほど行き、曽谷交差点(曽谷郵便局が近くにあり)を左折、300mほどの右手にある春日神社先を右折して100mほどです。本八幡からバスの場合は曽谷下車で徒歩5分程度です。

この一帯は駐車場はおろか、車も1台幅しかない農道に近い状態ですので、車での訪問は絶対にお勧め致しません。


【曽谷貝塚】

曽谷貝塚は3000〜4000年前、縄文時代晩期の遺跡です。
曽谷貝塚最大の特徴はその規模にあります。外径東西210m・南北240m、内径東西60m・南北210mという規模は、日本有数といわれています(単独の馬蹄形貝塚では日本一の規模)。

曽谷貝塚は、その規模と大量に表層でも確認可能な貝殻から相当以前から認識されていましたが、その名前が学問的に認知されるのは明治19年(1886年)刊行の『東京人類学会報告』にて「下総曽谷貝塚」として紹介されたのが最初と言われています。
然し、この「曽谷貝塚」とは、現在の曽谷貝塚ではないという説もあります。
曽谷貝塚の最初の学術調査は明治26年(1893年)であり、その当時の貝層は1.2〜1.8m、「畑地の一目皎然容易に其貝塚たるを知るを得可し」と記録されています。

些か大袈裟かと記録を読む限りでは感じますが、現在でも左写真ののように表層一面が貝殻に覆われている事から、100年以上前の調査時点での上記記録は決して誇張されたものではないようです(貝塚を沢山みてきましたが、これほど表層から真っ白なほどに観察出来るのは珍しいと思います)。

その後、昭和10年(1935年)には国学院大学による発掘調査で伸展葬の人骨2体が発見され、昭和12年(1937年)の発掘調査結果を山内清男なる学者が2年後に纏めた記録に「曽谷式土器」という名称を使用したことから一躍有名になります。その後の発掘は、基本的にこの殆ど発見されていない「曽谷式」土器を発見する目的で行われたのも、些か皮肉と言えます。

昭和25年(1950年)には東大人類学教室が、翌年には早大考古学研究室が、更に昭和34年(1959年)には明治大学考古学研究室が発掘調査を行っています。その後、農作業や水道工事中に、続々と竪穴式住居址や人骨が発見され、曽谷貝塚の歴史学的重要性が注目されるようになります。

然し、曽谷は東京から通勤圏内である八幡駅からも近く、急速に宅地開発が行われようとしており戦後高度成長期に消滅の危機を迎え、その保存が重要な問題となります。
昭和53年(1978年)には史跡指定の同意を得るための活動が始まり、多くの地権者の協力を得て昭和54年(1979年)12月には史跡に指定され、保存が決定されます。この保存活動は『史跡曽谷貝塚保存管理計画書』(1986年、市川市教育委員会)に詳しく述べられています。


<参考文献>
『史跡曽谷貝塚保存管理計画書』(1986年、市川市教育委員会)
『市川の貝塚』(1960年、市川市教育委員会)

2003年3月