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野球界への提言 番外編
東京読売巨人軍栄光の陰

「球界の紳士」たる巨人軍の「陰」を今一度多くの方(?)に認識を新たにして頂くために、過去のメジャーな事件について今一度整理してみることにしました。
これだけの事件を繰り返し起こすジャイアンツとは一体何なのでしょうか。
巨人ファンやめますか? それとも人間やめますか?

<目次>
1.スタルヒン事件(1934年)
2.別所事件(1949年)
3.長嶋事件(Under Investigation )
4.田淵事件(1968年)
5.江川事件(1978年)
6.桑田事件(1985年)
おわりに

1.スタルヒン事件(1934年)

主役概要
氏名 出身 最終学歴
ビクトル・スタルヒン 帝政ロシア(北海道へ亡命) 旭川(旧制)中学

日本プロ野球創成期に発生した、しかし現在の読売球団体質をも象徴し得るのが、このスタルヒン事件です。
読売新聞社は自らの主催する日米野球の全日本チームメンバーとして、当時旭川中学のエースだったスタルヒン投手を一方的に名簿に掲載しますが、甲子園出場に大きな期待を寄せる旭川中学と旭川市民の猛反発に逢います。ここで読売の講じた策は、ロシアからの亡命者であるというスタルヒン一家の社会的立場の弱さを突く、人道上許し難いものだったのです。
ロシア革命を逃れて北海道へやってきたスタルヒン一家は当然乍ら日本国籍を有していない為、ある日本人に身元引受人となってもらっていましたが、何と読売はこの身元引受人に引受人を辞退するよう圧力を掛け、一方でスタルヒン一家にはビクトルが読売入りする事で身分を保証する、という条件を提示しました。身元引受人なくしてはスタルヒン一家は国外退去となるため、事実上読売入りする以外の選択肢は無い状況へ追い込まれてしまったのです。
時代が違うとはいえ、正直言ってこれほど酷い話は聞いたことがありません。
自分の欲望を満たすためであればどのような卑怯な策でも講じるという体質は、「読売」という新聞社の報道姿勢にも繋がっているのではないか、という疑念すら湧いてきます。
尚、これに加えて、当時服役中だったスタルヒンの父の減刑も交換条件として呈示されていたという説もあります。こうした交渉ごとには、右翼の大物頭山満氏が正力松太郎氏の依頼によって動いたという話も伝わっていますが、この部分について真実のほどは明らかではありません。但し、正力松太郎と当時の裏社会のつながりは有名ですから、全く根も葉もない話という訳ではなさそうです。
いずれにしても、まだ日本にプロ野球が誕生していない時代から、読売新聞社は自らの主催する大会に一流選手を出場させるべく、形振り構わない選手集めをしていた事だけは明確な事実です。この辺りは、今日に至るまで全く体質的な改善はみられていないと言えましょう。


2.別所事件(1949年

主役概要
氏名 出身 最終学歴
別所毅彦

敵性スポーツであるプロ野球は大東亜戦争中に一度解散を余儀なくされますが、戦後間もなく復活します。
しかし名門巨人軍は読売本社内での様々なトラブルから、その復活で他球団の後塵を拝することとなってしまい、何としてもチーム力強化をしなくてはならない状況に追い込まれました。
そのような時代背景の中、なりふり構わない読売の露骨な選手獲得の陰謀が展開されることになります。その代表的な事件が、別所事件です。
当時南海の押しも押されぬ大エースだった別所は、しかしその処遇が他チームのエースと比べて低い事に不満を持っており、それを嗅ぎ付けた読売が極秘裏に別所と接触、何と読売と別所は移籍禁止期間間に現保有球団である南海の了承無しに仮契約を締結してしまいます(但し、南海側は読売と別所の動向をキャッチしており対抗策を練っていた、という説もあります)。
一方南海は、金星と別所のトレード話を進めており、別所本人にトレード打診をした時点で、別所の口から上記読売との仮契約がある事が明らかになります。当然乍ら当時でも移籍禁止期間に他球団の選手に直接接触し、しかも契約までしてしまう事は、明確な移籍規約違反で、しかも事の真相が当事者である別所本人から語られた事、しかもこの移籍騒動には読売本社の上層部が関わっている事まで明らかになったことから、問題は大きくなります。
結局南海側は別所の移籍希望が強い事から移籍自体は認め、一方で規約違反の読売には渡したくないため、それ以外の球団への移籍を野球連盟会長に一任しますが、別所、読売側も態度を硬化させ、状況は泥沼化します。しかも調停に乗り出した連盟内の統制機関である社団法人日本野球連盟会長、鈴木惣太郎がもともと読売新聞社社員だったことから、南海側は極めて連盟に不審を抱いたようで、問題を更に悪化させます。
結局、連盟の出した結論は、
(1)別所選手は南海球団と改めて契約更改交渉をすること。期限は10日間。
(2)別所選手は優先権をもつ南海と契約交渉をすべきで、その時点で巨人と契約を結んだのはスポーツマンシップに反するため、2ヶ月の出場停止処分とする。
(3)巨人には制裁金10万円を科す。
(4)別所選手と契約した球団は、南海球団へ移籍料21万円を支払う。
という実質別所と読売の契約を認める緩いものであり、当然のように10日間の南海球団との交渉を不調に終わらせた後、あっさりと別所と読売は契約を交わす事になりました。
さすがにこれだけ派茶目茶な事をしたのでは、当時のマスコミや世論も黙ってはいませんでした。
当時この別所事件で問題になっていたのは、
・移籍禁止期間内に選手と直接接触したどころか、仮契約までしてしまった読売の横暴。
・連盟の裁定に関わった人間が読売出身者で占められており、裁定内容は不公平。
・起こした事件の重さの割に読売への制裁金10万円、別所への出場停止2ヶ月は軽すぎる。
というもので、これらは現在でも首肯できるのではないでしょうか?
尚、読売側はこの調停結果にさえ不満を持っており、例によって例の如く「連盟の脱退」を脅し文句にしていた、と記録にはあります。何十年も全く変わらない体質です。
また、この事件は日本球界の中枢部に読売サイドの人間が多数おりトラブル解決能力に欠けていることを明らかにしましたが、この状況は現在に至るまで大きな改善はされておりません。


3.長嶋事件(年)

主役概要
氏名 出身 最終学歴
長嶋茂雄 千葉県 立教大学

南海への入団が殆ど確定していながら、最後の最後に札束攻勢と裏工作で立教のスターを入団させた事件。
現在詳細を調査中。近日アップします。


4.田淵事件(1968年)

主役概要
氏名 出身 最終学歴
田淵幸一 法政大学

プロ野球界は、やっと戦力の均衡化という極めてあたりまえのことに気付き、米国で行われている「ドラフト」という制度を導入します。
しかし読売は「ドラフトの精神」を全く理解せず、寧ろ「神聖なる巨人軍を冒涜する制度であり、重んじる必要なし」と思っている節がありました。この「元祖ドラフト破り」とも言えるのが田淵事件です。
法政大学の大砲だった田淵選手は熱烈に巨人入りを要望、しかしドラフトでは阪神が指名権を得ました。それでも読売は田淵獲得を諦らめずに様々な策を講じます。
まず1968年11月26日にトレード打診を行います。売は、田淵に一旦阪神入団をしてもらった上で、読売の主力クラスとトレードをして欲しいと阪神に申し入れますが、阪神はこれを断ります。因みにこの構図は、10年後の江川事件にそっくりです。しかし、この範囲であれば、まだ十分に規則の中でなんとか出来ないかと模索しているとも言えました(とはいえ、入団直後に選手をトレードするのは当時も禁止されていましたので、「規則を変更させる」という意味では「規則の中で」とはいえないかもしれませんが)。
問題は、この翌日に起こりました。なんと、ドラフトで阪神が交渉権を得ている田淵選手が、読売のスカウトとホテルニューオータニで密会しているところが、スクープされてしまうのです。
どうしても田淵獲得を諦らめきれない巨人軍は、恐らく田淵も所謂野球馬鹿ですから規則やルールについては疎く、問題だとは思わなかったのでしょう、田淵を「何とか巨人に入団できる方法を探そう」と誘い出したようです。
この行為は誰がどう考えても明白な協約違反であり許されることではありませんでしたが、何故か明確な「お咎め」はありませんでした。 この辺りにも日本のコミッショナー、連盟会長の存在意義を問われて然るべきだと思います。
結果的に田淵が阪神に入団したことからそれほど大きな「事件」扱いもされず、今となってはこうした事実も大分忘れ去られて、入団会見での田淵の様子だけがクローズアップされているこの事件ですが、実はドラフト制度に対する読売の考え、そして後の「江川事件」への布石、逆指名制度の導入へもつながる、プロ野球史上でも非常に重要なターニングポイントだったと思います。
いずれにせよ、読売には「みんなで決めたルールなのだから守ろう」という意識は全く無いようです。
社会の公器と良識を自称する新聞社のチームにしては、何ともおそまつ。


5.江川事件(1978年)

主役概要
氏名 出身 最終学歴
江川卓 栃木県(出生は福島県) 法政大学−米国野球留学

プロ野球ファンで知らない人はいないであろう、読売の横暴を象徴する事件が、この江川事件です。
何故このようなことが許されたのか、いまだに私自身は納得が出来ていません。
尚、この事件の真相については当時から多くの推測を含めた記事や書籍が世に出ましたが、1998年に出版された、江川氏自らが作成に加わった『実録たかされ』が恐らく最も正確に真実を伝えているものと思いますので、ここでは同書に則った事件概要を記載する事にします。
江川事件概要は以下の通りです。
「怪物」江川卓投手は、作新学院(栃木県)で甲子園に出場し数々の記録を打ち立て阪急にドラフト指名されるも入団を拒否し法政大学へ入学(全くの余談乍ら第一志望の慶應大学は不合格。慶應もこのころは「スポーツ馬鹿はいらない」というきっちりとしたポリシーがあったのですが・・・・)します。ここでも数々の記録を塗り替えて迎えた昭和52年11月22日のドラフト会議にてクラウンライターの指名を受けますが、これまた拒否して野球留学で渡米。そして迎えた翌昭和53年11月21日午前9時30分、巨人軍は「空白の1日」を根拠に江川卓との入団契約を電撃発表し、翌22日のドラフト会議をボイコット、阪神が江川を指名することになります。結局、江川は一旦阪神に入団した上で、読売のエース小林繁とのトレードが成立。江川には2ヶ月の出場停止というペナルティーが科されて事件は幕を閉じました。
まず、「空白の1日」について、有名な割には意外に正確なところが知られていませんので、簡単に解説をしておきます。
昭和52年、即ち江川が野球留学を決めた年まで、野球協約上のドラフト対象学生は「日本の中学・高校・大学に在学している者」でしたが、昭和53年7月31日に「日本の中学・高校・大学に在学した経験のある者」へ改正されます。これは、江川が前代未聞の「ドラフト浪人」という立場となった為、これもドラフト対象に含めるための改正だと言われています。しかしこの改正には「次回ドラフト会議当日から発効する」という但し書きが入っていました。また、「野球協約第133条 交渉権の消失と選択」には「球団が選択した選手と翌年の選択会議開催日の前々日までに選手契約を締結し支配下選手の公示をすることができなかった場合、球団はその選手に対する選手契約交渉権を消失するとともに、以後の選択会議で再びその選手を選択することは出来ない(後略)」という規定がありましたので、旧協約と新協約を併せ読むと、昭和52年11月22日に発生したクラウンライターの指名権は、昭和53年11月20日(翌年ドラフト会議の前々日)に消失し、且つ新協約の発効する日が昭和53年11月22日(ドラフト会議の当日)であるため、事実上江川に対する交渉権は11月21日はどの球団も保有していなことになる、これが「空白の1日」と呼ばれたものでした。
まず、普通の常識で考えて、この「空白の1日」が異常であることに異論を唱える方は殆どいないと思います。野球界の取り決め事にすぎない「野球協約」を、法律のように事細かに解釈してその穴をみつけ制度破りをする、こうした行為が真っ当であれば、そもそもスポーツの全てのルールを法律のように細かな条文で縛らなくてはならないでしょう。法律ではないのですから、ごく常識で判断されるところは記載しないのが普通の感覚であり、仮に書面上「空白の1日」が解釈可能だったとしても、これを突いて「契約可能」と主張する(しかも日本を代表する新聞社の人間が)ということに、私は驚きを禁じ得ません。
しかも、読売はこの問題に対処するため、膨大な数の弁護士からなる「大弁護団」まで結成したようです。ただしこれは他の球団からは冷笑の対象にしかならなかったようですが。
読売はこの事件でもその横暴振りを随所で露にしています。
まず(今でも時々出てきますが)気に入らないことがあるとすぐに読売が口にする「日本プロ野球機構からの脱退」です。この事件でも、読売側は何度もこの台詞を口にします。しかし実行する様子は全くありませんでした(実際に実行したらどうなるのか、ちょっと興味はあります)。いずれにしても、欲しいおもちゃを買ってもらえない子供の駄駄のようです。
次に政治家の介入です。先のスタルヒン事件では、右翼の大物が「暗躍」したようですが、江川事件では船田中、蓮見進(当時は船田秘書)といった政治家が暗躍(表舞台に出ていますので暗躍とはいえないかもしれませんが)しています。野球界の話になぜ政治家が口を出してくるのか、というよりも野球界のことを解決するのに何故読売が政治家にバックアップを頼むのか、その神経がなんとも信じられません。これまた「報道」という業務に携わるものとして、常識を疑わざるを得ないでしょう。読売新聞は、自社新聞拡販のためには政治家を使い、右翼を使う、という新聞社なのだろうか?という疑問が起こります。
最期に連盟会長及びコミッショナーの態度です。ある意味で現実的な処分だったとも言えますが、一方でこれだけの事件でありながら、結局は「小林−江川トレード」という折衷案での解決、且つ事件の当事者読売にはお咎め無しという、何とも玉虫色というか弱腰の姿勢にはいい加減うんざりします。結局は、これだけのことをしても何も言われない読売だからこそ、これ以降も数々の問題を起こし続けている、即ちコミッショナー、プロ野球機構、セ連盟は、読売球団に完全に舐められているといえるでしょう。
結局、球界は前代未聞の「江川事件」に、何も学ばなかったようです。
尚、参考乍ら本事件は読売にとっても思い出したくない歴史のようで、「読売新聞百年史」には全く触れられていません


6.桑田事件(1985年)

主役概要
氏名 出身 最終学歴
桑田真澄 大阪府 PL学園高校

江川事件の印象も、江川投手自身の活躍によってやっと世間から忘れ去られていたとき、発生したのが桑田事件です。
桑田事件は、所謂「ドラフト破り」という訳ではありませんが、これまた「常識」に照らし合わせて余りの横暴に呆れてしまうばかりの事件でした。
甲子園の常連、野球の名門PL学園のエースだった桑田投手は、3年の夏の大会後、早々にプロ入り拒否と早稲田大学進学を表明します。一方桑田と共にPLを支えた清原は読売に熱烈なラブコールを送っていたため、読売の指名が確実視されていました。清原によれば読売から「打者では君がナンバーワンだ」といわれていたようです(従って本人は間違いなく自分が指名されると思っていたので、あの涙の入団会見となるわけです。その割に念願かなって移籍した後は活躍しませんが。東大に入学できて燃え尽きてしまった受験生状態なのでしょうか?)。が、ドラフト当日に読売が指名したのは、桑田投手でした。勿論、ドラフト戦略として、他の球団が指名しないよう様々な策略を練ること自体は否定しませんが、この事件では高校野球のPL学園以上に名門である早稲田大学を「だし」に使ったことにあります。
当然早稲田側は態度を硬化、以降、従来極めて太いパイプで結ばれていたPL−早稲田ラインは消滅し、ひいてはPL学園野球部の弱体化にも繋がっていくことになったのです。
尚、桑田投手は記者会見で「巨人ならプロ入り、それ以外なら早稲田と決めていました」と堂々と発言。「プロ入り拒否ではなかったのか」「嘘をついていたのか」という記者の質問に対して「巨人に入らないとは言っていない」と人を馬鹿にしたような回答をしたのは、有名です。
この事件は他の今まで述べてきたような「ルール違反」とは異なりますが、自分の希望をかなえる為であれば、他者がどんな迷惑を被ろうとも構わない、という読売の体質をよく表した事件だと思いますので、敢えて桑田事件として掲載させて頂きました。
それと、江川事件、桑田事件を通じて、周囲の迷惑を顧みずルールを破る事も厭わずに、自分の信念(?)を通す生き方が「江川る」「桑田る」という流行語になったことも付け加えさせて頂きたいと思います。


<おわりに>
ここまでお読み頂いて如何だったでしょう(というかここまで読んでくれた人はいないような気も・・・)。
読売という球団が、どれだけ自分勝手で横暴であるかがお分かりいただけたかと思います。
それでもきっと巨人ファンの方々はこう反論するでしょう。「巨人あってのプロ野球なのだから、そのくらいやっても当然だ」と。
本当にそうでしょうか。こうした事件がプロ野球に与えた負の遺産、野球の発展に対する障害を加味して、それでもこうした「横暴ジャイアンツ」はプロ野球界に貢献してきたのでしょうか。
すぐにご納得頂かなくても構いません。
是非いま一度じっくりと考えてみて下さい。
プロ野球に巨人軍は必要なのか。プロ野球に巨人軍は貢献しているのか。

<参考文献>
『週間ベースボール新年号 プロ野球トレード史』ベースボールマガジン社、平成3年
『巨人軍非栄光の歴史』石川隆太郎、新評論、平成8年
『アンチ巨人!快楽読本』双葉社、平成12年
『実録たかされ』本宮ひろし・江川卓、文芸春秋、平成8年