これは日清紡浜松の地鎮祭の式典の一こま

下は作者が赤佐村の村長の付き添いとして出席したときの上記写真の裏書。

小夜子物語(17)

日清紡浜松工場北浜村貴布祢に進出す

この年の春、貴布祢、現在の敷地で地鎮祭が行われた。
松林の中は狸や狐の巣があった。
一部の松の木を伐採して舞台小屋を造り、紅白の幕を張って俄作りの会場であった。
野外宴遊会と言った姿である。
花火も打ち上げられた。
農村の工業化と言うことで付近住民の期待は大きかった。
本社宮島清治郎社長以下重役陣全部が顔を揃えた。
田舎の祭り芝居の小屋より少し大きかった。
入り口には杉の葉で造った大きなアーチがあり、万国旗は日の丸の旗を中心に四方八方に張り尽くした。
立ち食いの屋台店が無数に設置され、来賓にはサービス券を渡し飲み食い自由自在であった。
県知事松本学以下国会議員、県会議員、近隣市町村長、議員、各種団体長、旧地主、地元町内会、それ以外に遠州一円の大小の織屋さん全部を招待したので、実に世紀の祭典と言う賑やかさであった。
接待客の芸妓さんは浜松中央検番から地元笠井、小松、西ケ崎の置屋まで総動員であった。
小夜子は地元の代表接待役となった。
式は舞台で行われた。
宮島社長はこの時四十六才の働き盛りである。
大きなドジョウ髭を置き一流会社の貫禄充分であるので、松本知事の影が薄くなってしまった。
知事は三十有余才で非常に若く秀才の誉れ高く、翌年内務省警保局長に栄転したエリートであった。
式終了後酒樽を数本割り、来賓に祝酒を振る舞った。
アトラクションとして舞台では芸妓連の手踊りがあった。
三味線、笛太鼓、鐘鼓、それに唄手と一流どころがきら星の如く、将に一幅の絵巻そのものであった。
舞台は福原鶴治郎社中一家が主に勤めた。
他の芸妓さんは殆ど来賓の中に混じっての接待専門であった。
小夜子は顔なじみの地元町村長、議員、織屋さんを相手に要領よく立ち振る舞った。
門名笠井町長は語った。
あの松本知事は若いが実に偉いものだと褒め称えた。
俺の処の幸チャンも一昨年高文に合格して現在農商務省に勤めているが、今に知事くらいにはなるかも知れないと披露したのが小夜子には何時までも頭に残っていた。
同時に私の子供も一高、東大にでも入れるようになればよいがと柄にもない夢を抱く小夜子であった。
(幸チャンとは後年の中村幸八氏の事である。同氏はこの時一属官であったが、その後係長、課長、部長と栄進し、最後は最高の鉱山局長特許長官と官僚の最高の王座に栄進し、終戦後は衆議院議員となり外務政務次官、商工委員長等を歴任した浜中出身のエリートである)
又、この年の春4月NHK放送局が東京に完成され、ラジオ放送が始まった。
新聞で大きく宣伝されたが、小夜子には高嶺の花であり、どうにも手の届くものでなかった。
又、朝日新聞社が国産の飛行機を飛ばしてローマを訪問したのもこの年である。
日本も随分進歩したものである。
国産の飛行機で西欧に行くのだから、正に世紀の壮挙と言うべきである。
これまで往復三ヶ月を要したのだから今昔の感一入なるものがある。
大正十四年七月護憲三派連合、加藤高明内閣は予算編成の基本方針で浜口雄幸(蔵相)と小川平吉(鉄相)の対立から内閣は崩壊した。
しかし、再び加藤高明に大命が降下第二次単独加藤内閣を組織したが主要大臣の変更は無かった。
浩太郎は小夜子に会いたい。
浩と親子の名乗り対面をしたい。
この事が毎日頭を離れる事はなかった。
支配人は時折秘かにおとめおばさんに会っていた。
そして、若干の包み金を必ず渡していたが小夜子には黙っていた。
おばさんは寄る年波である。
給食組合には殆どご無沙汰限りであったが、年々欠かすことなく高野山詣りは続けていた。
この年は三泊四日の長期講習会に出席し、漸く待望の金剛流の御詠歌教師の免許状を獲得したのであった。
よってそれからは、鴨江寺を始めとして遠州各地の信者同行者の依頼を受けて講師となり各地を巡回するのがおとめおばさんの仕事の様になってしまった。
こうした生活の中にも浩の事が何時も頭を離れなかった。
大正十五年を迎えた。
浩は浜中の五年生となった。
来春三月はいよいよ卒業である。
小夜子は師範の二部に進学させたいと考えていた。
担当教官の安倍先生は保護者である小夜子を学校に呼びだし、是非一高を受験してほしい、そして東大法科を目差せと勧めた。
小夜子は即座に断った。
そんなこと出来ません。
金もないが学力もない。
師範が精一杯であると回答したが、安倍先生は承知しなかった。
母校の名誉に掛けても受験して欲しいと要請した。
小夜子は頑強にお断りした。
先生は尚も話を続けた。
実はお宅の浩君は学年全体の一番になると思うと付け加えた。
小夜子は一瞬仰天した。
本当ですかと申し上げ、それでは考えてみますと云うことで夢中で帰宅した。
それから数日後、浩太郎は後援会長として校長室に現れ、諸般の打ち合わせを校長と行った。
その時校長は会長である浩太郎に語りかけた。
学年一番の浩君に担任教師が一生懸命一高受験を勧めるのだが、母親が全く問題にしてくれない。
本校の名誉の為にも何とかして受験させたい。
合格が間違いないと担任も他の先生方も口を揃えているのだが、困ったものだと語り続けた。
浩太郎は困ったねと校長に同調したのみで直ちに校長室を出た。
帰途、山屋に立ち寄り支配人に一切の内容を報告して頭を下げ拝むのみであった。
支配人は浩太郎に同情した。
こうなったら最早方法はない。
御大に一切打ち明けてお願いするより仕方が無いと云った。
それもあまりにも恐れ多いことである。
何か良い方法はないものかと、俯いてしまった。
支配人は二人で小夜子さんに会おう。
そして、土下座してでもお詫びしよう。
僕にも一半の責任がある。
今日までの養育費の全額を償わせて頂く。
おとめおばさんに仲に入って頂き、徹頭徹尾お願いしてみよう。
それでも駄目ならこれまでと思い、諦めようと云うことになった。

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