
小夜子物語(18)
小夜子の悩み
本当に一番であろうか。
小夜子は自分の耳を疑った。
その様なこと今まで一度も聞いたことがなかった。
安倍先生はお金は育英会から借りる方法もあると言った。
しかし、それはほんの一部分であろう。
東京進学となると大変なお金が要るに決まっている。
この道(花柳界)の結婚等今更考えたくない。
浩の為にも一人の母として頑張らねばならない。
他人様に頼ってはいけないと自分に強く言い聞かせる小夜子であった。
そして、ふと小夜子は思いついた。
何はともあれ、浩にこの事を話してみようと。
翌日浩の帰宅を待って仔細に経過を話したる処、浩は実に淡々たるものであった。
浩は自分の成績が首位であるらしいと言うことすら知らずにいる様子であった。
しかし、お金の問題があるので、浩は極めて控えめであった。
それよりお母さん!僕は私生児となっているが亡くなったお父さんの名前を教えて欲しいと言い出した。
小夜子は脳天をしたたか打ちのめされた想いで、一瞬目の前が真っ暗になってしまった。
何れ真実を打ち明け謝らなければならないと覚悟はしていたものの、この様に先に浩に口に出されて戸惑うばかりの小夜子であった。
浩は更に付け加えた。
私生児ではお母さん、よい所には就職できないと言う人もいるよ。
お母さんの言う小学校の教師にもなれないと言う様な人もあるそうだと付け加えた。
小夜子は益々憂鬱であったが、どうすることも出来ず唯一人悶々としていた。
おとめおばさんは隣室の床の中にいたが目をつむっても眠ることは出来なかった。
ひたすら、お地蔵様にお縋りして道の開ける事を唯祈るのみであった。
そして、心の奥底では浩太郎の詫びを素直に小夜子が受け入れてほしい、親子の名乗りをさせて欲しい、それのみを念じるおとめおばさんであった。
この年台湾銀行は取り付けを喰らい、神戸の鈴木商店は破産するなど、日本国中の大問題となった。
又、加藤総理は病気で亡くなり、内務大臣若槻礼次郎に大命降下して第一次若槻内閣が成立した。
大臣はあまり替わらず大蔵大臣浜口が内務大臣に、大蔵大臣に憲政会総務の早速整爾が就任した程度であった。
又、この年の夏、静岡中学が甲子園に県代表として出場し初優勝した。
各家庭にあまりラジオはなかったので新聞店とかラジオの販売店の前は人の山であった。
この時の投手は上野と言う五年生で後々までも話題に上り、静岡県の野球の歴史に確実に遺されるであろうと小夜子は浩の私生児の悩みと共にその日の日記に書き留めた。
また、人美絹枝嬢が世界オリンピックで優勝して世界中にその名声を博したのもこの年である。
大正十五年十二月二十五日。
今上陛下は永い間ご病気であったが、薬石効無く崩御あそばされた。
大正から年号は昭和と改められたが、わずか六日間で昭和元年は終わりを告げた。
昭和二年となった。
この年三月、浩はいよいよ浜松中学校五年を卒業するのである。
そして、更に一生を支配する進路を決めなければならない運命の決断の時を迎えねばならない。
二月には金融恐慌が起きて若槻内閣は崩御した。
主要大臣は浜口雄幸、安達謙蔵、幣原喜重郎、宇垣一成、岡田良平等であった。
又、この年東京に初めて地下鉄道が完成し開通したので一度は見たい、乗ってみたいとみんな思っていた。
七月には芥川龍之介が自殺してしまった。
何故であろうかと新聞には賑やかに書いてあった。
年令は三十六才である。
この年日本内地の人口は六千七十四万一千人と内閣統計局より国勢調査の結果として公表された。
お米は一升五十六銭となり随分値上がりしたものだと新聞に書いてあった。
又、後藤新平がソ連に出かけて初めてヨッフ工(漁業相)と会談、今日の漁業交渉の基礎固めを条約の中に盛り込んだのである。
内閣は政友会の田中大将に大命降下第二十六代目として発足した。
主要大臣は高橋是清の蔵相であり、直ちにモラトリアム(銀行から預金引きだし禁止)を実行して恐慌の急場を切り抜けた。
信念の人としてダルマ蔵相の異名と共に後生にその名を遺した。
将に、偉人と言うべき人物であった。
この時の大番頭内閣書記官長は若干三十余才の鳩山一郎であった。
正月早々浩太郎は山屋支配人と共に小夜子を訪ねた。
そして、おとめおばさんを仲にして四人で話し合った。
市会議員、商工会議所議員、浜中後援会長と隆々たる肩書きを持つ浩太郎の大きな体も小さくなってしまっていた。
支配人も責任の一半は私に在ると弁明に一生懸命であった。
小夜子は言いたいことは山ほど在ったが、色々頭の中が錯綜して何も発言が出来なかった。
恐らく浩の私生児云々がそうさせたことと思われる。
少々沈黙が続いたが、仰せの通りに致しましょう。
しかし、条件がある。
養育費は頂きません。
今後の経費も一銭も頂きません。
私が自力で致します。
浩との親子の名乗りと認知は認めましょう、と漸く決まったのであった。
浩太郎と支配人は涙を流して喜んだ。
合格不合格は時の運と諦め、師範学校を中止して先生の仰せの通り東京第一高等学校を受験する事とした。
静岡県知事も変わって長谷川久一という太い背の高い人が赴任した。
又、秋には県会議員の選挙も行われ笠井では金原暁一、鈴木六郎(政友)、坂下仙一郎、石垣清一郎(憲政)の四人が縞を削った結果当選した。
又、この年神戸の港は横浜港を抜いて日本一の王座についたことも新聞に発表された。(昭和二年)
浩は三月上京して一高を受験した。
おとめおばさんと小夜子は岩水寺に参詣、入試合格のご祈祷をお願いした。
力の弱い親子である、運が開けますようにとひたすら祈った。
そして大きな木のお札とお供物菓子を頂いて家の床の間に献上して朝晩伏し拝んだ。
今日は浩も初めて祈った。
小夜子は一緒に上京すると言ったが浩に断られた。
浩太郎は偶然かどうか分からないが、当日商用で上京したので汽車の中では一緒であった事が後で判明した。
結果は合格であった。
みんな心から喜んだ。
お隣の幸八さんはこの時既に高文にパスしていた。
さあこの次は我が家の番だと心は躍った。
しかし、肝心のお金が少々足りない。
小夜子は張り切った。
岩水寺の花見時は忘れずに籍を門前に移して活躍した。
昭和三年となった
浩は4月高校二年に進学した。
小夜子は例によって、岩水寺に籍を移し、昼夜通して働いた。
遊園地の色電気は例年の事ながら実に見事であった。
日清紡浜松工場も全て完成し、その記念行事として社員従業員三千人の仮装行列を断行しした。
工場長は桜田武という三十有余才の重役であった。(後年社長に栄進し、経団連の会長となる)
仮装行列を見物せんとその人出の多いことに驚いた。
遠鉄小林駅、芝本駅、岩水寺駅と三カ所よりの大行進であった。
四十七士、寺子屋の松王丸、武蔵、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、淀君、大久保彦左衛門等々その姿は種種雑多であった。
小夜子等芸妓一行も二十人程いたが、野外宴会場を渡り歩く事が困難な状況であった。
岩水寺の赤池の中に飛び込んだお客様が何人もあった。
音楽隊を先頭に練り歩いたのだから、全く豪勢であった。
薬師堂広場では東京音頭等盛んに繰り広げられ、三味線や太鼓の音ばかりであった。
公園広場も黒山の様に人が集まった。
露天は軒を連ねて営業した。
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