小夜子物語(19)

岩水寺の本殿お地蔵様に何かお礼をしようという意見が出て、金箔の大天蓋を寄進することが決まった。
小夜子も発起人となってその名を連ねた。
高橋住職さんは浩の事を耳にしたのか将来が楽しみだねと祝ってくれた。
のし袋の中に五円の札があった。
小夜子は人の情に感激した。
この年、アムステルダムにおける世界オリンピック大会で日本の織田幹雄選手が三段跳びで優勝し、金メダルを獲得した。
又この年、吉田茂(終戦後の総理)が外務事務次官に登用された。
六月下旬、満州において張作霖が爆死して、満州某大事件として国会で問題になった。
責任者は河本大作という陸軍大佐であった。
又古賀政男
作曲の影を慕いてを佐藤千夜子が唄って大ヒットし飛ぶように売れた。
有名な野口英世がアフリカで死亡したニュースが七月に入電した。
小夜子は同郷の偉人であったので、特別切り抜いてノートに貼った。
十一月には京都で天皇陛下の御践作の儀式が行われ、陛下は高皇倉の玉座につかれた。
国民等しく奉祝の意を表し、各戸軒端に奉祝提灯を吊して祝った。
何処の市町村でも街角にはアーチを造り、万国旗を飾り、又屋台、山車等も終日引き回し、いわゆる御大典祭りが全国津々浦々までくまなく行われ、国を挙げて奉祝のルツボと化した。


昭和四年となった

浩は一高三年となり、来春三月で卒業である。
好むと好まざるとを問わず、どこかの大学に行かねばならない。
合格不合格は時の運だ。
運は天に委せねばならない。
一生懸命勉強したが、優秀な者の多い中でなかなか頭角を現す事は出来なかった。
一高三年となっては、きかん気の強い小夜子でもどうなるものでもなかった。
唯一筋に金を造って送金するのが市場命令であり、楽しみでもあった。
おとめおばさんのお金は全部浩太郎からのものであった。
が小夜子には内密にして毎月必ず浩の所に送金した。
一高であるからには、どうしても東京の帝大でなければと浩も頑張った。
秋風の立つ頃、浩は勉強が過ぎたのであろうか。
遂に病の床についてしまった。
小夜子は直ちに上京して、三日ほど看病したが狭い部屋で空気は悪い。
その上、自炊では無理と考えた。
医師に尋ねたところ、少し長引くとのことであったので、田舎に連れて帰った。
大学は一年位遅れてもよい、健康が第一であると考えた。
昭和四年の春は御大典の影響もあったのか、置屋商店も多忙を極めた。
岩水寺の花見は、世界恐慌で不景気というのに逆に賑わうのみであった。
三月より五月一杯は、昨年同様岩水寺に移籍して、小夜子は稼いだ。
満州県重大事件が尾を引いて、田中内閣は引責辞職。
代わって、浜口雄幸内閣となった。
政友会の中の本党系床次一派は脱党して、憲政会と合流し、新党民政党となり、浜口雄幸が初代総裁となった。
大蔵大臣井上準之助、内務大臣安達謙蔵が主軸であった。
特に蔵相井上が注目の的であった。
静岡県知事も白根竹介という貴公子然とした人に代わり、一度は総理にと期待されていた後藤新平は病気の為、この年夏に亡くなった。
同郷の関係もあってか、小夜子はがっかりしたとその日の日記に書いてあった。

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