淡路人形浄瑠璃の歴史

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淡路人形浄瑠璃の起源

 起源についてはいろいろの説があるが、『淡路草』(原著文政八年・千八百二十五−藤井容信・彰民 名著出版復刻昭和五十年)所載の淡路人形始祖「上村源之丞所蔵之書」によれば、西宮戎社に仕えていた夷かき(愧師)百太夫が木偶を携えて全国の神々を鎮めて巡る途中、三条村(三原町市三条)に留まり、引田(後に上村)家に入婿し、木偶操りの技を伝えたのに始まるという。三条の八幡神社には脇宮として百太夫を祀った社があり、同神社前には淡路人形発祥地の碑も建てられている。

 このように西宮から夷神信仰とともに木偶操りが三条村を中心に入ってきたことについては、そこにそれを受け入れる素地があったのであろうと考えられている(『三原郡史』編集委員会代表菊川兼男 郡町村会事務所昭和五十四年)。三条のあたりは古代・中世にかけて淡路国の政治文化の中心地で国衙が置かれ、近隣に総社があり、多くの伶人(楽人)を抱えていた。南北朝時代に入り国衙の廃退とともに総社も衰退し、その後淡路に入国した守護細川氏が崇敬した賀集八幡宮(南淡町)が栄えた。
「護国寺文書」によると、賀集八幡宮は、多数の伶人を抱えて淡路の諸寺諸山のの供養に奉仕した。
そのために一時は楽料田が三十町歩もあった。今総社のあたり三原町市三条に「ガク」、市新に「ガクデン」という小字名があるが(護国寺文書に国司が留守所に楽料田の開発を命じた鎌倉初期の元久二年・千二百五の庁宣がある)、それは賀集八幡宮の楽人たちが神社の周辺でなく総社のあたりに住んでいたのだろう。この賀集八幡宮に隷属した楽人たちは、南北朝以前は国衙と総社に隷属していたと思われる。それが室町末の細川氏の衰退とともに舞楽奉仕も行われなくなったので、楽人たちが西宮から夷廻しや上方から三番叟を受け入れた。すなわち淡路人形操りが浄瑠璃芝居となる以前、中世前期には国衙と総社に隷属し、後期には賀集八幡宮に隷属した神事舞いを職業とした人たちがいて、上方から三番叟、西宮から戎舞をうけいれたその伶人たちが、細川氏没落後は生活の手段を人形操りに求めたのでなかろうか。

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淡路人形浄瑠璃の歴史と現状

 文禄慶長年中(千五百九十二〜千六百十四)、京で浄瑠璃に合わせて人形を操る人形浄瑠璃が始まった。この新しい浄瑠璃は間もなく淡路三原郡三条村を中心に導入されたのであろう。
 淡路人形芝居は元禄(千六百八十八〜千七百四)のころから阿波領内をはじめ西日本各地に興行していた。淡路人形操りは村芝居として発達したのでなく、すでに元禄のころから座元が専門的商業的に興行した。九州府内藩(大分市)記録(『日本庶民文化資料集成』第七巻人形浄瑠璃)によれば、宝永年間(千七百四〜千七百十一)三条村の源之丞座・市村の六之丞座が九州府内に巡業している。
府内の浜の市は、安芸(広島県)の宮島、讃岐(香川県)の金毘羅とともに西日本に名高い定芝居の地であった。

 淡路人形の繁栄のもとになったものは阿波藩主蜂須賀氏が、人形操りを愛好し保護したことによるところが大きい。弘化二年(千八百四十五)二月に筒井村(南淡町)組頭庄屋が郡代奉行へ届け出ている「三条村道薫坊廻日向素性並代々成行相調帳」によると、藩主の御前で人形操りを演じていることや、三代目源之丞(慶安承応−千六百四十八〜五十五−頃死亡)は蜂須賀至鎮(第二代藩主)のときに夫役免除などの数々の厚遇をうけていたこと。また、藩主は御祝儀のあるときは必ず源之丞座・六之丞座の両座に命じて操芝居興行をさせるのが例となったとあり、さらに「蜂須賀文書」(国立史料館所蔵)の中の「万日帳」には、藩主が上村源之丞の操りを御覧になり、人形の装束料や一座の主だった者(追抱)に帷子を下賜したことなどのことが記されている。
 亨保(千七百十六〜三十六)のころ三人遣いが完成し、淡路でも上方でも人形浄瑠璃の全盛を迎えた。淡路の座数は四十余を数え(『淡路草』)、亨保六年(千七百二十一)
には道薫坊廻・道薫坊廻百姓(人形遣いのことで文化の棟附改めの時、引き継がれた肩書きである)の人数は九百三十人といわれた(『淡路古今紀聞』安倍喜平明治十六年)。淡路人形浄瑠璃は定劇場を持たず巡業が主であり、西日本を中心に活躍したが遠く関東以北へも及んでいる(「鈴江家資料」)信州伊那谷の黒田人形(長野県飯田市上郷下黒田)には、淡路の人形廻しがそこに留まって指導しており、淡路と同じ「道薫坊伝記」が残されていると伝えている。また、「淡路系」と伝えられている人形芝居が愛媛県大谷ほか各地に多くみうけられる(『全国人形芝居サミット』第一〜十回淡路人形協会平成三〜十二年)。
 このように繁栄した人形浄瑠璃も明治の中ごろから、新興の芸能に人気を奪われ衰退の道をたどり、明治二十年(千八百八十七)には二十座、昭和十一年(千九百三十六)には七座となり、その後解散したり、あるいは頭・衣装などが博物館におさめられるなどして、現在淡路に残るのは二座となっている。吉田傳次郎座と市村六之丞座である。吉田傳次郎座は、淡路人形協会(淡路一市十町で構成)に引き継がれ、淡路人形座と改称され、大鳴門橋記念館(南淡町)内の淡路人形浄瑠璃館で公演活動か゜続けられている。市村六之丞座は、三原町の所蔵となって三原町淡路人形浄瑠璃資料館で保存伝承されている。
 最近、伝統芸能わ見なおす気運が高まり、ソ連公演をはじめ、アメリカ・ヨーロッパ・オセアニア等の各国に海外公演を行い、また、子供会・小・中・高校のクラブ活動や青年研究会等の後継者育成活動が活発に行われ、将来に明るい展望を与えている。その他、淡路人形協会の提唱で、全国の人形芝居の復興をめざして、全国百二十四の人形保存団体と関係者に呼びかけ、全国人形芝居サミットとフェスティバルが十回にわたって淡路で開催された。この十回にわたる参加数は延三百三十五人形保存団体という盛況を示した。




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