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第16話 島ゴキブリ
私の故郷である北海道にはゴキブリがいない。
繁華街に在って通年一定の気温が保たれている建物の内部はともかく、一般住宅にその生息を確認することはまず出来ない。
で、あるから東京で暮らし始めた折に生まれて初めてあの黒色偏平体型を持つ節足動物を目の当たりにした時、私の全身はおぞ気に震え、近寄ることも出来ず、ただただ逃げ惑うばかりであった。
それからほどなくして都内に在った職場のソファの裏に連中の巣窟を発見することになるわけだが、その際に恐怖をも超越してしまった私は正常な判断能力を失い、ある暴挙に出た。
昆虫愛護団体なるものが存在すれば間違いなくその時の私の行為は厳しく糾弾されるべきものである。
四人掛けの長いソファの背を壁から引き離すと、そこには何百という数のゴキブリがいる。
いや、もしかすると幼体まで合わせれば何千という数かも知れないが、とにかく私は狂ったように殺虫スプレーを連中の巣窟に向かって浴びせ掛けた。
それもただ殺虫したのではない。
噴霧される可燃性殺虫液に百円ライターで火を付け、スプレーを火炎放射器がわりにして連中を焼き尽くさんとしたのである。
然るにその長い触角と六本の肢体が最初に燃え上がり、連中は逃げることも叶わないまま、怒りの炎に灼き尽くされたのであるが、火がついたのは連中だけではなかった。
床に敷かれていたカーペットまで燃え上がってしまったのだ。
危うく私は放火犯として残りの人生を過ごさねばならぬところだったが、ま、思考中枢に麻痺が生じていたのだからカーペットに火が回るとは思いもつかなかったのであり、言うなればそれは当然の成り行きなのであり、幸いかなボヤで済んだおかげで私は今こうしてのうのうとエッセイなど書いているのである。
東京での暮らしを経たのち、ユーラシア大陸の国々の安宿を渡り歩いたおかげでゴキブリに対する耐性を持つに至った私であるが、此処八重山のゴキブリには一目置かざるを得なく、夏の夜の外出時にはそれ相応の緊張感を持って歩いている。
八重山のゴキブリの何処に一目置いているのかと言えば、その飛翔能力である。
狭い部屋の壁から壁へと飛ぶ程度の軽い飛翔能力なら東京のゴキブリにもあるが、八重山のゴキブリのそれはそのような生やさしいものではない。
私が石垣市内にて目撃したゴキブリの最大飛翔距離は、およそ200メートル、最高到達点なら15メートル、滞空時間にして1分間を越えていた。
それは、夏の強烈な陽射しが市街地のコンクリートをじりじりと灼き続ける昼下がりの出来事だった。
眼前の歩道路面から突然飛び上がったそれを私は最初すずめか何かだと思った。
だが、すずめにしては飛行速度がのろく、軌道もおかしかった。
少々ふらつき気味の飛翔なのだが、そのくせ、ビルの5階あたりの高さまで一気に舞い上がるほどの妙な力強さもあった。
そうして私の頭上を大旋回したあと、向かいの歩道へと再び舞い降りたそいつの正体は、言うまでもなくゴキブリである。
本来彼らは夜行性なのだから日中は代謝レベルが低下し、生理的に不活発な条件にある筈である。
にも関わらず、灼けた路面へと何処からか這い出して来て、力強く飛び続けたその姿に私は恐れを為した。
こやつらが活動的になる夜間ならばどれほど威勢よく飛ぶことであろうかと。
身を守る術がないのだ。奴らは何処からでも飛んできて首筋や背中にしがみつく。払いのけても払いのけても奴らは次から次へと飛んでくる。
自転車で走っても、車で逃げても奴らは追いかけてくる。
逃げ続け、身も心も疲弊し、こちらが諦めてしまうまで奴らは執拗に飛んでくる。
頭上をすり抜け、足元に絡み付くように奴らは飛んでくるのだ。
嗚呼、もう嫌だ!もう駄目だ!俺は北海道に帰る!
と、そんな妄想にすら取り憑かれた私であるが、未だゴキブリから直接的被害を被ったことはない。
だからと言って安心もできない。
ある島の青年が私に語ったゴキブリ被害談があまりに不条理で、今夜にも自分が同じような目に遭ってしまうのではないかと思えて仕方ないからである。
その夜、青年はガムを噛みながら眠ってしまった。
フィンランドの習慣に倣って就寝前のキシリトールガムで虫歯予防をしていたわけではなく、ミント味か何かの唯のチューイングガムを噛んでいるうちに不覚にも眠ってしまったのである。
寝言など発しているうちにガムは犬歯のあたりに引っかかり、唇の端からだらしなくはみ出した。
青年の口臭と混じり合ったガムの匂いが狭い寝室を満たすのにそう多くの時間は必要なかった。
夕食に青年が何を食べたのかまでは知らない。
だが、その口から発せられた匂いがゴキブリを惹き付ける為の条件を満たしていたことを青年は知る由もない。
明け方、半睡の青年は口の中にガムが残っている感触を憶えた。
「ああ。オレはガムを噛んでいるうち、知らぬ間に眠ってしまったのだなぁ」などと思いながら青年は唇の端に引っかかったガムを噛んだ。
宵越しのガムを二度三度と緩やかに咀嚼する青年は、やがて唇と舌に違和感を憶える。
苦い……。
それに、何かじゃりじゃりするな。
何故……。
青年は疑惑のガムを右手で摘むと目の前に掲げた。
ガムに頭を突っ込んだゴキブリがそこにいた。
苦しげに蠢き、茶色いハネをひろげ、今まさに断末魔を迎えようとしていた巨大な一匹だった。
この話を聞かされただけで私などは味と感触を勝手に想像し、意気消沈したのであるが、当の青年はそれをゴミ箱に放り投げると二度寝を貪ったと言うのだから大したものである。
流石である
。無神経である。
せめてうがいぐらいしろよ、と私などは思うのだが……。
ま、島の青年の剛胆さはさておき、ことほど左様に島のゴキブリは神出鬼没であり、無礼千万な奴なのである。
ガムを噛みながら眠ってしまう程度の軽いミステークは、歯がある者ならば誰もが犯す可能性があるのだし、況や私などはしばしばやっていることであるから恐れを為さぬワケにはいかないのである。
蝙蝠は飛び回り、蝉は鳴きわめき、鼠もヤモリも走り回り、蚤もダニも蚊もわきまくり、ゴキブリの舞い踊る八重山の夏。
豊かな自然とは、つまりそういうことである。
エメラルド色の海ばかりが豊かな自然ではないのだ。
都会っ子の私がいくら恐れようとも八重山の夏はそうでなくちゃいけないのである。
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