プロジェクトX

2000年春に始まったNHK制作のドキュメンタリー番組、「プロジェクトX 〜挑戦者たち〜」。 話題が話題を呼んで、いまや大人気番組となっている。 ここでは放送された内容+α情報と関連のWebサイトを掲載していく。 番組を観そこなった人も、観たこと無いという人にも、感動してもらえたら…嬉しい。


巨大台風から日本を守れ 〜富士山頂・男たちは命をかけた〜

ゲスト 見城徹さん(幻冬舎社長)
松坂慶子さん(女優)
制作統括 今井彰 撮影 服部康夫
構成 井手真也 編集 渡辺政男


東海道新幹線が駿河湾沿いに静岡県富士市のあたりを走っているとき、晴れていれば雄大に裾野を広げる富士山を 車窓から眼前に眺めることが出来る。そして、さらに目を凝らせば、山頂の西側一角に白いボールのようなものが 載っていることに気づくかもしれない。
日本最高所に位置するこの白いボールこそ、氷点下20℃、最大風速100mの突風が吹き荒れる富士山頂に設置された 気象庁富士山気象レーダーである。下界からボールのように見えるのは、実際には直径5mのパラボラアンテナを収 めた、直径9mの巨大なレーダードームである。1964年(昭和39年)9月に完成したこのレーダーは、当時、世界でも 最も高所に設置され、最も遠くまでの気象を観測できる最新鋭の施設であり、以降、1999年(平成11年)に気象衛 星にその役目を譲って歴史を終えるまで、35年間にわたって日本の気象観測の文字通り最前線でありつづけたので ある。

富士山頂レーダー建設。それは、発想から5年の歳月と延べ9000人にも及ぶ人間を巻き込んで実行された壮大なプロ ジェクトであった。


■命運をかけた炎
1963年(昭和38年)冬、日本列島は記録破りの大雪に見舞われた。積雪は例年の10倍以上。直前の1月には日本海側 を中心に記録的な豪雪(三八豪雪と呼ばれる)に見舞われ、死者・行方不明者231人を出したばかりであった。戦後、 最も厳しい冬になった。
そのさなか、強風吹き荒れる富士山を登る7人の男たちがいた。彼らは、電機メーカーや建設会社の技術者たちだっ た。調査隊の内訳は、三菱電機の技師1名、大成建設の工事担当者2名、そして測量会社東洋航空の測量技師2名であ る。全員が登山の素人だった。家族宛に遺書を残した者もいた。「私も一生に1度、遺書を書いたのは、その時だ けだったんですが、自分も納得して、こういう目的で行くんで、あんまり心配するな。自分の意志で行くんだから。 と、はっきり書きました。(三菱電機技師 木名瀬武雄)」
この登山には、6ヵ月後に着工が迫った気象レーダーの命運がかかっていた。富士山測候所のある剣が峰は山頂の 西の端にあり、東京は富士山の東方向にある。したがって剣が峰(3776m)から東京を望むのは、噴火口をはさんで 800m東の山頂の伊豆岳(3749m)越しである。東京の明かりがよく見えるといっても、それは東京のどのあたりの 明かりなのか。視界下方のかなりの部分が、伊豆岳の黒々とした壁に遮られている以上、明かりの中に大手町が含 まれている保証はないのである。もし電波が伊豆岳に遮られるようなことになれば、箱根あたりにでも新たに中継 点を設けなければならないが、もちろん、そんな予算はない。計画全体を見直さなければならなくなる。富士山頂 と東京とを本当に電波で結ぶことが出来るのか、工事を目前に発覚したこの問題を調査する為、技術者たちはあえ て冬山に挑んでいた。

東京 大手町、気象庁の1室には山頂からの連絡を待ち続ける男たちがいた。富士山レーダー計画を立ち上げようと していた測器課の職員たちである。その中心に気象庁随一の一徹者と呼ばれた藤原寛人補佐官がいた。山頂からの 連絡を待つ藤原の胸には、気象予報に携わる者として消す事の出来ない苦い記憶が刻まれていた。
1959年(昭和34年)9月、突然日本を襲った伊勢湾台風。中心気圧929.2、最大風速70m/秒という猛烈な勢力を保った まま、潮岬(和歌山県)に上陸し、三重県・岐阜県を通過して富山県から日本海に抜けた。最大の被害に見舞われた のは経路右側にあたる愛知県で、最大3.45mという検潮始まって以来の高潮が伊勢湾に押し寄せ、多数の家屋を住人 ともども流し去った。死者・行方不明者5041人、被害家屋数83万戸、未曾有の災害である。東海地域は壊滅的な打撃 を受けた。
当時の気象レーダーは台風を前に、無力同然だった。日本で、レーダーを使っての気象観測の研究が、気象研究所に よって開始されたのは1950年(昭和25年)頃のこと。そして1954年(昭和29年)に大阪管区気象台に気象レーダーが 導入され、その後1959年(昭和34年)までの5年間の間に、福岡、東京、種子島、名瀬(奄美大島)の5箇所に設置さ れた。しかし、当時の気象レーダー網には決定的な弱点があった。5箇所の気象レーダーがすべて平地に設置された ため、地球湾曲の影響をもろに受け、その探知距離は、最大でも300km程度。つまり、探知可能な範囲が300kmを半径 とする短い範囲に限られていたのである。探知距離が300km、仮に台風の速度が時速50kmとすれば、上陸の6時間前の 探知となる。洞爺丸台風(1954年9月)のように、時速100kmもの猛烈なスピードで日本に接近する台風の場合、探知 してから上陸までわずか3時間しかないという有様だった。台風を24時間以上前に南海上で捉えるには、4000mの高さ にレーダーを建設する必要があった。富士山しかなかった。
ところがこの計画には、大きな見落としがあった。見つけたのは、三菱電機と大成建設の技術者たちだった。気象庁 が計画したレーダーの遠隔操作が不可能かもしれないという問題だった。計画の根幹が揺らいだ。技術者たちは、自 分たちが調査に行くと申し出たのである。
厳冬期の富士は、過酷なものだった。標高3400mを越えると、アイスバーンの急斜面が行く手を阻んだ。結婚を真近 に控えたメンバーの1人は、強力にザイルで繋いでくれと懇願したが、断られた。「『伊藤さんね、ザイルで7人全 員を繋いで、誰か1人こけたら、7人全部こける。7人みんなが死ぬんだよ。ここまで来たら、死ぬのは1人にしてく れないか』と言うんです。こりゃあ、ただ事じゃないな、と、心臓にグサリとナイフを刺されたような気持ちにな りました。(大成建設 伊藤庄助)」技術者たちが登山を申し出た時、気象庁の藤原は止める事が出来なかった。計 画実現の為には、彼らの調査に頼る他なかった。

山頂に到着したのは出発から2日後。直ちに調査が開始された。山頂の標高を調べ、三角点の正確な位置を確認し、 方位を測定し、剣が峰から伊豆岳との距離を測った。レーダーの建設地は、富士山で1番高い頂、剣が峰に決定して いた。しかし、そこから東京方向を見ると、別の頂、伊豆岳が立ちはだかっていた。この頂、伊豆岳が遠隔操作の電 波をさえぎる恐れがあったのである。日没後、計画の命運をかけた実験が始まった。技術者たちは強力な発光体、大 量のマグネシウムを東京方向にかざすことにした。マグネシウムを直径約3cm、長さ50cmほどの円筒に詰め、それを 何本かまとめて点火しようというのである。テストは、比較的大気の状態がいい薄暮と夜9:00頃に行なわれた。筒 を測候所西側のフレームにセットし点火すると、あたりは昼のように明るくなり、誰も見ていられなくなるほどだっ た。麓の住民から富士山測候所の御殿場基地事務所に「富士山が爆発した」という通報が何本も入ったという。テス トの主任者である木名瀬武男をはじめ、一同は大いに期待を持った。
東京側では、光を確認する為、望遠レンズが据えられた。しかし何度やっても、東京からの無線は、何も見えない と伝えてくるばかりである。何度やっても視通テストはうまくいかなかった。これほど明るいのに見えないのはお かしい、おそらく東京上空のスモッグが光を阻んでいるのだろう、と木名瀬たちは考えたが、しかし、伊豆岳に遮 られている可能性も捨てきれない。何しろ、計算では光線が通過するのはわずかに1mほど上だったのである。
2月27日、既に登頂から1週間がたった。実験は、繰り返されたが、結果は同じだった。ついに技術者たちは下山を 決定。この日の夕方、木名瀬武男は諦めきれない気持ちでなんとなく東京のほうを眺めていた。すると、そのとき 雲がすっと晴れ、東京の明かりが見え始めた。「夕焼けの中で富士山がシルエットになっているぞ」と、東京から 連絡が入ってきた。この機会を逃す手はない、と木名瀬は思った。直ちにアイゼンをつけピッケルを持って測候所 から出た。「ところがマグネシウムがセットしてあるところまで、わずか30mほどしかないのに、風が強くて進め ないんです。後で聞いたところでは秒速45mもあったそうです。立っていたら、あっという間に火口に飛ばされて しまう。だから這うようにして数歩進んでは、風の息がやむのをしばらく待ち、また進むといった感じでした。 (木名瀬)」。ようやくマグネシウムにたどり着いた木名瀬は、懸命に体で風を遮りながら、持ってきた1本の筒 に火をつけセットしておいた束に点火した。一瞬にしてマグネシウムは燃え上がり、木名瀬は目を閉じてその場 に這いつくばった。東京の望遠鏡の視野、十字線のやや右に、光点がはっきりと浮かび上がった。富士山頂と東 京が結ばれた一瞬である。時に1963年(昭和38年)2月27日午後6:15。そのあと午後10:30から発光の場所を測 候所東側に移して行なったテストでも、再び光点が観測された。「ばっちり見えるぞ!と言う無線が入ってきた んですね。いやあ、嬉しかったですね。これは大成功だぞと。(伊藤庄助)」
調査隊一同と測候所員はビールで乾杯した。ビールは凍っていた。だから、燗をして飲んだのである。富士山頂 と東京都を結んだ一筋の光。藤原たちが企画した富士山頂レーダー計画は、1963年(昭和38年)2月、その第1歩 を踏み出した。


■過酷を極めた現場
1963年(昭和38年)8月1日、富士山頂で地鎮祭が執り行われた。工期は2年、しかし、作業が出来るのは雪が 消える夏の2ヶ月。時間との闘いである。鍬入れのスコップを受け取る伊藤庄助。若さと体力を買われ現場監 督に抜擢された。いきなりハプニングが起きた。資材運搬のテストをしていたヘリコプターが、地鎮祭の真 上から誤って生コンクリートをぶちまけてしまったのである。「神主さんが『こんな状態では神様を呼べな い地鎮祭は出来ない。』と。これ当たり前の話ですよね。土下座して謝って、何とか無事に式は済んだんで すよ。(伊藤庄助)」多難なスタートだった。
山頂での工事は、誰も経験した事のない壮絶なものとなった。セメントを練る水もなく、雪解け水を探して 急斜面を何度も往復した。土を掘ると、夏も溶けない永久凍土に突き当たった。ノミとハンマーで、コツコ ツ掘り進むしかなかった。そして間もなく、現場監督の伊藤をどん底に突き落とす事態が起きた。高山病で ある。山頂の平均気圧は638hPa、つまり平地の2/3程度しかない。これによる酸素不足が原因で、作業員たち の多くが頭痛、吐き気、息切れを訴え始めたのである。妙にイライラする。思考力が鈍り、足し算・割り算 といった簡単な計算を間違える。体の生理に変調をきたして、本来なら1升酒も辞さない男が1合でぶった おれる。自分の部屋には幽霊が出る、と言ってきかない。すぐに下山していく者が出始めた。荒天がそれに 加わった。この年の富士山はどうにも荒れていた。秒速40mの強風が吹き、雨が降った。いや、富士山の雨は 降るのではなく、伊藤に言わせれば「下から湧いてくる」のである。こんな天気では仕事などできず、宿舎 に閉じこもっているほかはない。そこで、なすこともなくじっとしていると、高山病がますますひどくなる。 たまらず、何人もが下山していくのである。
天気といえば、こんなこともあった。山頂のあたりにはアリやクモのような虫がいた。あるとき、仕事中に 伊藤は、そこらにいた虫たちがきれいにいなくなっていることに気がついた。おかしいな、と思っているう ちに、髪の毛が痒くなってくる。周りのものを見ると、髪の毛が逆立ち、毛先がなんとなく青白くなってい る。放電しているのである。これは雷だ、虫たちはそれを察知して逃げたんだと気が着いた瞬間、台の上に 置いてあったペンチだったかハンマーだったかが帯電し、地表の間でバリバリと猛烈な音をたてて放電した。 側でこれを見ていた大工の一人は、「こんなおっかないところで、仕事なんてやってられるか」と叫ぶなり、 その足で下山していった。新たに補充しても、1週間と持たなかった。当時、日本は東京オリンピックを翌年 に控え、空前の建築ラッシュに沸いていた。作業員は引く手あまただった。よりにもよって、富士山頂のよ うなところで働く必要も義理も無かった。そんな作業員たちを何とか説得し、引き止めるのが伊藤の最大の 仕事になった。
数週間後、プロジェクトの総責任者 気象庁の藤原寛人測器課課長が山頂にやって来た。藤原は、伊藤の姿を 見て言葉を失った。顔は青黒く腫上がり、快活さが消えていた。伊藤もまた、慢性の高山病だった。しかし、 ここで藤原は、この仕事に賭ける伊藤の熱い思いを見ることになる。現場から逃げだそうとする作業員に伊藤 は弱った身体で1人1人必死に説得していたのだ。「彼は心で彼らを引きとめた。男は一生に1度でいいから子 孫に自慢できるような仕事をするべきである。富士山こそ、その仕事だ。富士山こそその仕事だ。富士山頂に 気象レーダーの塔が出来れば、東海道沿線からでも見える。それを見るたびに、おい、あれは俺が造ったのだ と言える。子供や孫に、そう伝えることが出来るのだ。彼は作業員たちに繰り返してそれを言った。また、彼 は日本の象徴である富士山の最高峰に、台風の砦を我々は造っているのだとも言った。10日以上富士山頂で働 いた者の名は、銅版に刻み込んで建物の1部に取り付けて、後世のために残すことも約束した。(随筆『白い 花が好きだ』より)」

その頃、レーダー本体の開発にあたっていた大阪の三菱電機伊丹製作所の技術者たちは、難問にぶつかっていた。 最大探知距離800km(従来の約3倍)、出力1500kw(従来の約5倍)と空前の能力を持つレーダーをつくり、その上、 富士山測候所のスコープの映像をマイクロ波にのせて電送して東京の気象庁でも見てしまおう(これをマイクロ波 リレーと呼ぶ)というのである。送信機・受信機・空中線(アンテナ)・指示装置・遠方監視制御装置など、どの 装置の内容も初物づくめであり、したがって技術的課題はいくらでもあった。そして最大の難問の一つが、レーダ ーアンテナを覆うレドームの開発であった。富士山頂に吹く突風は、風速100mを越える。レーダーアンテナが山頂 の強風に耐えられるのか。技術者たちは、アンテナを頑丈なドームで覆う計画を立てた。半球型に組み上げた骨組 みに、パネルを貼り付けたドームである。気象庁からのレーダー仕様書には『耐風性100m/秒』と書かれていた。 秒速100mの風に耐えろということである。「例えば10tトラックに11t積んだら『壊れて当たり前です』と言えま すよね。ところが、この100mの風に耐えるというのは、101mで壊れても駄目、110mで壊れても駄目なんです。要す るに、風では壊れないものをつくれということだ、と私たちは受け取りました。(三菱電機電波技術2課係長 植村 英雄)」。このレドームに要求されていた仕様は、それだけではなかった。氷点下50℃〜摂氏50℃の温度に耐え、 氷が付着しにくく、平均90%の電波が自由に透過しなければならないのである。「秒速100mの風だと、1㎡に 対して体重60kgの人が10人乗るくらいの力がかかります。一方、透過率90%という制限からは、レドームの骨(フ レーム)の幅は非常に細くしなければならない。2.5㎝幅です。つまり、風圧に耐えるためには骨はできるだ け太くしたい、しかし、よく電波を通すためには骨を細くしなければならない、と言う矛盾した要求になる。これ を解決していくには、厳密な計算や実験を積み重ねていくほか無いんです。(木名瀬)」。技術者としての誇りを 賭けた徹夜の研究が続けられた。

富士山レーダープロジェクトのために、思い切った決断をした男たちもいた。山頂への資材運搬で苦戦を強いられ ていた馬方衆だ。彼らが500年の伝統を誇る馬を捨てると言い出したのだ。およそ500年にもわたって山頂への荷揚 げを担ってきたのは、地元の馬方衆と強力衆であり、近年になってこれに自動車が加わった。すなわち御殿場口で いえば、太郎坊(標高1300m)までは自動車、そこから7合8勺(3290m)までは馬、そして頂上までは人、というの が従来のほとんど唯一の輸送手段だったのである。しかし、1回に運べる重量の限度は、馬が約150kg、人(強力) が75kgである。作業日数が少なく、しかもその中で500tにもなろうかという大量の物資を運び上げなくてはならな いレーダー計画の実行には、この手段だけでは到底不可能である。運搬の遅れに責任を感じていた伊倉範夫が、ブ ルドーザーを導入すべきであると、他の馬方衆を説得したのである。「結構急なところを登ったり降りたりするの で、じゃあ、これで何処まで登るかテストしてみよう。(馬方衆 伊倉範夫)」
6月26日、太郎坊を出発したブルドーザーは、3時間30分で7合8勺(3290m)に到達した。5合5勺(2700m)以上にブ ルドーザーが登ったのは、これが史上初である。また所要時間は、荷を積んだ馬の場合の半分だった。翌日には、 今度は250kgの機材と16人の人間を乗せて、これまた7合8勺(3290m)まで登ることに成功した。このとき、なぜブ ルドーザーは7合8勺を到達目標にしたか、理由は2つある。第1には、そこから上は強力衆の持ち場であり、彼らの 一部に伝統ある仕事の場に機械が入り込んでくることに対する抵抗感のようなものがあったからである。第2には、 同じくそこから上はどうしてもブルドーザー登攀用に幅2m程度のジグザグ路を作る必要があったからである。馬方 衆と強力衆との間で調整が続けられた。新しい時代の予感と長い間に培われた心とが、せめぎあった。結果、強力 衆も、ブルドーザーの富士山登頂に協力することになった。道路づくりは、9月初旬から行なわれた。まず、いく つか発破をかけて岩を取り除いた上で、強力衆7人が鋤簾で石や砂を掻いて道の原形をつくり、そこをブルドーザ ーが通れるようにするという方法だった。このようにして1日に100mほどずつ進み、機材を積んだブルドーザーが 山頂 馬の背に達したのは9月28日である。ブルドーザーがついに日本最高所に達したのである。到達の瞬間、勝又 は一言「やればできるものだな」と言った。ブルドーザーの導入で資材運搬は飛躍的に進んだ。投入された5台 (BD7・3台、BD2・2台)のブルドーザーは、この年だけで241tの物資を山頂に運んだ。これは、前年にヘリコ プターが運んだ量に匹敵した。しかし、そのこととは別に人としての感慨というものはある。「馬が好きで、それ で富士山をやる気になったんだから、確かにさびしい点もあったねえ。名残惜しいけど、時代の波でしょうがねえ なあとも最後には感じていたよ。だからブルに変えた後も馬を持っていた。何年も馬を飼ってたよ。」最初にブル ドーザー時代を予感し、最初にブルドーザーを購入した伊倉範夫の言葉である。富士山レーダーを何としても完成 させたい、男たちの熱気は着実に広がり始めていた。
1年目の工事が終わったのは9月23日。雪の訪れと共に、男たちは山を降りた。

その年の暮れ、東海道線に現場監督 伊藤の姿があった。伊藤は高山病の後遺症と、現場指揮の過労から心臓を患 っていた。「富士山が見えてくると、とても見ていられないんですね。嫌で、嫌で。来年もまたあそこで、あの 苦労をしなけりゃいけないのかと思うとね。それで、富士山の見えない海側のほうに席を移って、富士山が見え なくなるまで海を見ていた。それくらい、苦しい体験だったんです。(伊藤庄助)」冬の間、伊藤は東京のホテ ル建設現場にいた。来年、富士山にはもう登りたくない。しかし、作業員にレーダー建設の意義を訴えた自分が 参加しなくても許されるのか、伊藤は思い悩んでいた。その時、ホテルがこれ以上高くなると、富士山からの電 波が遮られると、怒鳴り込んできた男がいた。気象庁の藤原だった。2人は、互いの顔を見て驚いた。「いやあ、 ここまで藤原さんと富士山がくっついて来るかと思いましたね。自然の神様には逆らえないな、と思わざるを得 なかった。(伊藤庄助)」この再開は、消えかけていた伊藤の情熱に再び火をつけた。


■決死の空輸作戦
1964年(昭和39年)7月、レーダードームの土台が完成した。現場監督に復帰した伊藤庄助は、工事スタッフを率 いて作業の遅れを取り戻した。

三菱電機の技術者たちは、レーダードームの開発に成功していた。風速100mに耐えるようアルミ合金で骨組みを造 り、直径9m、高さ7m。アルミ金属製の幅2.5cm、長さ1.6mのフレームを結合した三角形が何十個も組み合わされて、 全体は半球型になっていた。何十階下の試験と無数の計算を繰り返してようやく完成したそれは、寸分の隙もなく 設計され、全ての部分に神経が行き届き、数㎜の狂いもなく仕上がっていた。ドームは骨組みだけで重さ620kg、山 頂まではヘリコプターで一気に運ぶ計画を立てた。木名瀬武男らレドーム開発チームの技術者は、開発に際して600kg という重量制限を与えられていた。それがヘリコプターの搭載能力の上限であると聞いていた。出来上がったレドー ムは620kg、目標を少しオーバーしたが、まず許容範囲であるはずだった。しかし、ヘリコプター会社との打ち合わせ で大問題が発覚する。ヘリコプターの塔裁量の上限は600kgではなく、450kgであるというのである。空輸に試用され る予定のシコルシキーS62型ヘリコプターは、通常であれば750kgは積める。通常とは平地という意味である。しか し、高度が上がれば上がるほど、つまり空気が薄くなればなるほど、浮力の逓減によって搭載能力は低下し、富士山 頂の高度(3776m)なら450kgが限界だというのである。620kgと450kg、これは許容範囲ではない。「ヘリコプター会 社の人は、とんでもないと一笑に付して、そんな事はできないと言うんです。今でも覚えているのですが、ヘリコプ ターの操縦者には、冒険的なことに挑むチャレンジ精神の旺盛な人が、いっぱいいるけれども、これだけは出来ない、 勘弁してくれと、取り付く島がなかったですね。(木名瀬武雄)」では分解して運び、山頂で組み立てることは出来 ないだろうか。しかし、それは出来ないと木名瀬は言う。「このドームの構造は非常に厳密で、だんだんに組み上げ ていって、最後にほんの数㎜でも合わないと、ドームを閉じることは出来ないくらい微妙で難しい作業なんです。そ の作業を空気が薄くて頭がほけるような場所で、しかも短期間でやることはちょっと無理ですね。それに、ドームは 全部を組み上げて閉じ終わったときに初めて、ある強さを持つもので、途中で風が強くなってきたからと言って止め るわけにはいかない。やめれば、風で潰れてしまうんです。」苦労してつくったドームが運べない。かといって、山 頂で組み立てることも出来ない。まさに、出口無の状況である。この頃、報道機関のヘリコプターが乱気流に巻き込ま れ、富士山麓に墜落する事故が起きた。プロジェクトに不安が広がった。
600kgを超えるドームを富士山頂に運べるとしたら、あの男しかいない。1人の人物に白羽の矢が立てられた。旧日本 海軍航空隊出身の神田真三である。神田は、建設資材の輸送、山火事の消化などで活躍する第一人者だった。しかし、 その神田も、富士山の火口付近を飛んだ事はなかった。「火口の上は、相当静かな時でも危険だと思いますよ。どう いう風が吹いているか分からないんですね。内部の独特の風があるかもしれませんしね。(神田真三)」。神田は富 士山頂の複雑な気流を克明に調べた。そして、火口の稜線上で下降する風と上昇する風が分岐して乱気流になってい ること、剣が峰の北側の岩陰が危ないことなどをノートに記した。その結果、西のほうから山頂に近づき、山肌に沿 って上昇気流に乗り、そこから南に回りこんでアプローチするという飛行ルートを決めた。その際、間違っても火口 稜線にかからないことが肝心である。そこから10cmでも内に入ったら、ヘリコプターは火口に吸い込まれるか、上空 に飛ばされるかするだろう。8月6日、手始めに神田は軽い機材を運び始めた。乱気流が渦巻く山頂付近は、わずか数 秒間しかホバーリングが出来ない。すぐに事件が起きた。「すーっと降ろしたんですよね。荷物が着いたので、バッ クミラーで確認したら荷物に人が乗っていたんですよ。(神田真三)」。幸い、大事には至らず、作業員は山頂に戻 った。しかし、現場の緊張は一気に高まった。レーダードームの空輸をいつ決行するか、気象庁では指揮を取る藤原 が天気図をにらみ続けていた。いくつもの低気圧が不穏な動きを見せていた。藤原は空輸決行日は、8月15日しかな いと判断した。

1964年(昭和39年)8月15日、富士山上空は抜けるように晴れ渡った。富士山麓、富士宮市井出のヘリコプター基地の 中央には、組み上げられたレドームが置かれていた。神田真三が搭乗するシコルスキーS62は、機体を軽くするため 座席が外され、扉が外され、副操縦士席も外されていた。しかも、燃料は30分ぶんしか積んでいない。山頂にいられ る時間は、わずか数分である。それでも搭載可能重量の450kgを100kg近くオーバーしていた。
空輸決行日が8月15日になったことを神田は特別な思いで受け止めていた。太平洋戦争のさなか、海軍航空隊に所属し た。終戦間際、ゼロ戦パイロットを養成する教官として、特攻作戦で現地に向かう多くの教え子たちを見送った。「み んな若い命をお国の為ということで散らしていった。こっちは生き残っちゃったのだから、目一杯の事やらにゃいかん わけですよ。(神田真三)」
午前7:55シコルスキーは始動し、レドームの上でホバーリング(空中停止)した。メカニックの一人が素早く、ロー プのフックをレドームに掛けた。空輸が始まった。シコルスキーはあっさりと飛び立ち、眼前の富士山に向かって、 あっという間に高度を上げていった。山頂まで、およそ13分ほどである。神田は、重量オーバーを補う為には、山頂に 吹く向かい風の浮力を利用するしかないと考えていた。少なくとも風速10mの向かい風がほしかった。目標上に正確に アプローチするにはホバーリング(空中停止)が欠かせないが、思いものを吊り下げて、無風の状態でホバーリングす れば、浮力が落ちて、たちまち墜落してしまう。しかし、風があれば、その浮力によって、ホバーリングの状態が飛ん でいるのと同じ状態になるのである。
富士山頂では、現場監督の伊藤やレーダーを開発した技術者たちが、ヘリコプターの到着を待った。8:10、ヘリコプタ ーが剣が峰の南前方に姿を現した。全ての者の目が、吊り下げられたドームを見つめている。「いやあ、でかいなあ。」 と伊藤庄助が呟いた。空輸の成否を決める最後のホバーリングに入った。ところが予想外の事態が起きていた。「山頂 に近づいたらレーダー塔に取り付けられている吹流し式の風速計が止まっているんですよ。その前に、無線で風速何mと 確認はしていたのですが、これは風が無いなと。(神田真三)」。便りの向かい風は、ピタリと止んでいた。条件は最悪 だった。神田は、置き逃げ(エスケープ)を決意した。山頂にスピードに乗って(遅いと浮力がつかない)アプローチ し、目標位置にきたらホバーリングする。無風だから、当然ホバーリングできずに機体は沈む。沈んだと同時に、レド ームを台枠にポンと置き、直ちにロープをカットして、パワーを上げてそこから逃げ出すという方法である。神田は、 高度と軸線を目測すると、アプローチを開始した。枠台に近づくと機体から半身を乗り出した副操縦士 近藤利孝(朝 日ヘリコプター)が「前、前、静かに」と誘導を始める。風力計の横に立っているシグナルマンの合図を見ながら、 機を動かしていく。「1/4、70cm、30cm」目標位置に肉薄する。近藤が70㎝と言ったとき、枠台の中で横になっていた 男たちが立ち上がり、フレームの間に綱を通して引っ張り始める。鉄塔建設のプロ8人である。既に彼らは、吊り下げ られたレドームの中にいる。ここで機体が少し揺さぶられかかる。レドームの枠を掴んでいた男たちも、それにつられ て振られる。しかし、まだ機体は浮いている。神田は微調整する。目標位置にきた。「全部降ろせ。」近藤が叫ぶ。レ ドームが枠台に置かれる。中に立って男たちを指揮している小野寺幸雄(弘電社)が、「フックを外せ、フックを外せ !」と、凄い形相でシグナルマンに叫ぶ。近藤もまた「カット」と叫ぶ。富士山頂の全ての目が一点に注がれている。 8:12、神田は操縦桿にあるカットスイッチを入れた。フックがカットされ、シコルスキーとレドームは切り離された。 シコルスキーはパワーを上げて、その場から離脱する。台枠内では小野寺が「ボルトを締めろ」と言うより早く、男た ちはレドームの穴と台枠の穴を合わせ、シノ(先の尖ったアンカーボルト)を打った。レドームは台枠に固定された。 全員が神田に手を振った。「ご加護を頂いた全てに感謝して、ありがとうと3回くらい叫びました。大声で。(神田真三)」 ヘリコプターは無事帰還した。神田は着陸後2分間、姿を現さなかった。

伊勢湾台風の無念から5年、気象庁藤原たちの執念は、9000人を巻き込む大プロジェクトとなり、空前の難工事を成功 させた。1964年(昭和39年)9月、富士山レーダーは動き始めた。気象庁職員と開発に当たった技術者たちが見守る中、 画面には太平洋にまで至る半径800㎞ものレーダーの映像が映し出された。9月24日、伊勢湾台風級の台風20号が富士 山頂を直撃した。瞬間風速80m、測候所開設以来の強風によって3棟のカマボコ型宿舎は吹き飛ばされたが、レドーム は耐えた。翌1965年(昭和40年)8月の台風17号の際には、南海上の台風の目をはっきりと捕え、それから遠州灘に上 陸するまでの3日間、台風の正確な位置を刻々と通報し続け、並ぶもののない能力を見せつけた。その連続画像は、人 類が始めてみるものだった。日本を守る台風の砦が出来た。

1999年(平成11年)11月1日、富士山レーダーは、気象衛星にその役割を譲り、35年の歴史に幕を下ろした。一つの時 代は終わった。しかし、その時代を作るために働いた男たちが、確かにいた。

藤原寛人(測器課課長)は、昭和41年に退官し、作家生活に入った。筆名 新田次郎。すなわち小説『富士山頂』の著 者、その人である。気象庁在職中の昭和30年、『強力伝』で第34回直木賞受賞。その後も、主として『蒼氷』『芙蓉の 人』などの山岳小説を通じて日本人の夢と挑戦の物語を書きつづけた。1980年没。享年68歳。

神田真三(朝日ヘリコプター)は、その後も32年間、71歳になるまでヘリコプターを操縦しつづけた。その飛行時間 は、今も日本最高記録である。75歳。

伊藤庄助(大成建設)は、その後、昭和45年〜48年の富士山測候所庁舎改築工事の際も現場の責任者を務めた。富士 山頂なら、この男しかいないと誰もが思っていたからである。その後は、大成サービス常務、顧問を経、現在67歳。 ひょんな事から富士山と出会い、誰よりも長く富士山と付き合った、この山に弱い男は、しかし今も毎夏の富士山登 山を欠かさない。

富士山頂のレーダードームの一角には、その計画に関わり、極限の現場を支え続けた男たちの名が刻まれている。そ の数は105名。もちろん、植田英雄の名も、伊藤庄助の名も、神田真三の名も、そして本文中に登場した者たちの名 も、そこにある。しかし彼らは、このレーダーの計画・建設に携わった全ての男たちの代表に過ぎない。延べ9000人 の男たちの命を掛けた壮大なプロジェクトであった。


LINK
▼新田次郎さんと茅野
新田(元 気象庁測器課課長 藤原寛人)氏の蔵書一覧がある。


▼映画 富士山頂
番外編ということで、石原プロ製作の映画を発見!公開されたのは昭和45年2月28日。熱く燃える技術者役で石原裕次郎出演。



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