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  神奈川県域のヒストリック・イベント        かながわ風土記連載           作者      草間俊郎
                                                                                            画 POLOLON・草間
  着色      森 義孝 

 
草間1

神奈川県域のヒストリック・イベント(1)

 第一章 神奈川条約の締結
  第一節 外国新聞からみた日米交渉と横浜村
                       


 はじめに
 一八四八年、アメリカ合衆国は太平洋岸まで領土をのばし、太平洋横断航路を開いて捕鯨産業の拡大、中国との貿易に乗り出す。これに伴い、海難のアメリカ人の生命、財産の保護や日本との友好関係をつくる必要が出てきた。かくて、東インド艦隊司令長官のM・C・ペリーを使節として日本に派遣し交渉にあたらせた。その結果、一八五四年には日米和親条約(別称、神奈川条約)が結ばれた。
 今回は、当時の外国の新聞、刊本等により、この条約予備交渉の状況と代表会談の場所選定の経緯を述べる。

ペリー提督の意図的な旅と外国の新聞報道
 ペリーのアメリカ出航以前から、欧米諸国では、日本への関心が高まりつつあったことに注目したい。
 オランダは、徳川幕府と長く通商関係を維持していたが、一八四四年、オランダの国王は、世界情勢を述べて伝統的な鎖国政策を緩和するよう将軍にアドバイスした。これに対し、幕府はオランダ、中国以外とは新たに通商しないと答えたが、当時の「ノース・チャイナ・ヘラルド」は、長年にわたり、オランダ政府が欧州の政治状況を毎年、日本に知らせているのは称賛に値すると論じた(一八五三、二)。日本の対外政策の強硬な態度は他の新聞、例えば、英国の「ザ・タイムズ」に批判された。
 日本は多くの外国と通商関係を結ぶことを拒否している、さらには外国の船舶が遭難したときの寄港をも拒んで、海岸に近づくと砲撃する。日本の海岸に漂着すると、乗組員を捕虜にするか、投獄するかして、結局、殺す場合もあるのだ。いずれの国も他の国と通商関係を拒む権利はない。通商する権利を侵している野蛮国の排斥こそ、文明国およびキリスト教の責任である。・・・・・・・アメリカの捕鯨業者が、このため犠牲になっている。アメリカ政府は人道上からいっても日本の態度を変更させるべきなのだ(一八五二、三)。
 さて、一八五二年初頭、アメリカ艦隊の食料、武器の積み込みから、日本への訪問を知った「ニューヨーク・ヘラルド」は、次のような付加的な意図もあると報道した。
 アメリカは日本政府に好意をもってもらい、条約交渉の下工作をするための目的で日本のエンペラーへの献上品を持参させ、鉄道を教えるのに機関車と線路、文明を教えさせるために電信機や写真機をも積みこんだ。この意図的な旅行のために、当議会は一二万五千ドルを投入したようだ(一八五二、五)。

浦賀での日米交渉
 さて、ペリーは、蒸気船を含む艦隊を編成し、一八五二年一一月、バ?ジニア州ノ?ホークをスタートした。艦隊は、大西洋を横断し、一八五三年四月、マカオ、香港に寄港した。ここで、艦隊の再編成がなされて、蒸気船ミシシッピ、サスケハナと帆船プリマス、サラトガの四隻は、同年七月八日(嘉永六年六月三日)、浦賀に到着した。直ちに、両国の担当者間で予備交渉が行われ、七月一四日に、日米代表会談を行うこととなる。
 会見の当日、ペリーは海兵隊、水兵、軍楽隊を率いて久里浜の応接所に向かった。
これについては、すでに本誌二六六号で述べたが、「チャイナ・メール」の報道では次のようになっている。
 ペリーは護衛するOFFICERS AND MEN(士官と兵隊)四〇〇人を伴い、風に靡く国旗やTHE NATIONAL HAIL COLUMBAを演奏するバンドとともにレセプションの家に行進した。ペリーらを迎えたのは皇帝の筆頭カンセラーの伊豆守とその部下の石見守だった。大統領のレターとペリー提督の信任状が正式に渡され、そして、二人のPRINCEからは公式受領書が与えられた。これだけで、会談は終わった。これ以上の交渉を進める権限が二人になかったからだ。
 では、浦賀奉行の戸田伊豆守、井戸石見守に渡されたM・フイルモア大統領親書の概要は、どのようなものだったか。
 高級役人を、日米間の友好、通商を促進するために派遣する。今は、アメリカ合衆国から日本まで二〇日以内で行けるし、中国行きの船舶が航行し始め、その際、日本を通過する。故に、貴国はアメリカの船舶に対して友情をもち、寛大で親切な態度で待遇してもらいたい。日本は、アメリカの求める商品、石炭を有しているので、友好的な貿易もしてもらいたい、日米が接近し通商すれば多くの利益を生ずるだろう。
 親書は、このような内容だが、実は、アメリカの遭難船員への友好的待遇と船舶へ石炭や日用必需品を供給する港を求めたのである。
 この親書の背景には捕鯨業者や船主が行政機関にたいしプレッシャー・グループを作って運動し、日本が捕鯨船の人道的扱いができぬときは断固たる態度にでるようにとの期待があった。しかし、大統領は、アメリカ国民が、どこで遭難事故にあっても保護措置を講ずるのが妥当の表現だとし、一八五一年以来、艦隊の派遣はこのような方針で進めている。かくして、ペリーには、戦争を宣言する権利はなく、平和的な性格を持つ使節として来日したのであった。
 さて、浦賀奉行は大統領親書の受領書をペリーに提出したが、そこには、親書は受理するが、早急に日本を退去されたいと付記されている。そこで、ペリーは三日のちに離れるが、来春、日本を訪問し回答を受け取ると言い残した。が、ペリーは「日記」で「来春には圧倒的な艦隊を誇示」できるとしている(*二)。このように、ペリーはアメリカの偉大さを武力で示すほか、文明の利器、豊かな飲食文化で日本人を圧倒しようと意図していた。そうでもしないと、日米交渉は幕府の言い訳や引き延ばしで無駄の時間、費用を費やすだけだと憂慮したのである。
 このようにして、将軍へのM・フイルモア大統領親書が、無事に手渡されたが、アメリカ側としては、平和裡に、日本代表に大統領親書を渡し、友好条約締結の一歩とするのを重視したから、ペリー自身も、一応、安堵したのではないか。
 一八五三年七月一七日、四隻の軍艦は浦賀沖を去り、中国または琉球に向かった。

久良岐郡小柴の沖へ進出
 一八五四年二月一三日(嘉永七年一月一六日)、ポ?ハタン号など六隻からなるペリー艦隊が浦賀沖に、再び、姿を現した。ロシア及びフランスが日本と交渉する姿勢を見せたので、訪日の予定をくりあげての訪問だった。そして、アメリカ錨地と称した地点(当時の久良岐郡、現在の横浜市金沢区の沖)に到着し、先着の一隻と合流した。
 ただちに、浦賀奉行の組頭・黒川嘉兵衛らがポーハタン号に接近、乗艦したので、ペリーはアダムズ参謀に応対するよう命じた。黒川は昨年の大統領親書への回答などの協議の場所として、最初、鎌倉はどうかという。これが拒否されると浦賀はどうかと提案した。ペリーは、浦賀は停泊には不適当だとし「江戸にいくか、あるいはできるだけ近くまで」行かねばならないと指示した。つまり、「アメリカ錨地と江戸の間であればどこででも委員らと会うことに同意する」と伝えさせた(*二)。翌日も、翌々日も、黒川らは浦賀で会合したいと蒸し返したが、アメリカ側は妥協しない。一五日、一八日にもポーハタン号で予備交渉があったが、その際、日本側から「新鮮な牡蠣や卵や菓子」が届けられたという(*二)。
 二月一八日、富士山が見えるほど晴れ上がり、旗艦がポーハタン号となる。
 二月二二日、アダムズはバンダリア号で浦賀におもむき、応接掛の林大学頭、井沢美作守と会見した。相互に名刺を交換したのち、ペリーの書簡を渡した。江戸に近い場所で会見したいが、「連絡にも便利であり・・・・・贈り物を陳列し、お目にかけるにも適している」からだという(*二)。これを審議するため交渉は一時、中断された。その間、「スポンジケーキに似た菓子、キャンデイ、さまざまな果物、酒」などがだされた(*一)。翌日、昨年から交渉にあたっていた香山栄左衛門が再び姿を現し、浦賀沖のバンダリア号を訪問し浦賀での日米会談を懇願した。他方、ペリーは、二四日、バンダリア以外の軍艦を「江戸が見える地点」(生麦付近)まで進出させた。そのため、陸上は大騒ぎとなり「夜通し町で打ち鳴らさせる鐘の音が、はっきり聞こえるほどだった」(*一)という。
 さて、日米間の予備交渉では、アメリカ艦隊の羽田まで進出の報がはいり、局面が急に転回する。香山としては、ペリーの決心が動かないし、艦隊が「さらに江戸に近づく方向」へ進むとみてとったので、「艦隊の真向かい」の場所を代案として提案したのである。この香山の横浜村を適当とする提言を是としたペリーは、湾内の深くに進出した艦隊を、引き返させる。また、測量船に横浜村海岸の水深を測らせ、それが艦隊の停泊に十分だと認めた。
 


横浜村での現地調査
 横浜村で日米代表会談をしたらどうかという案を現地で検討するため、ペリーは、先ず、アダムズとブケナン艦長を香山とともに、横浜村に上陸させたのだが、横浜村は「あらゆる面で適切であり、江戸に近く、海岸から一海里隔たった沖に安全で便利な停泊地があり、皇帝への贈り物を陸揚げして陳列するのに十分な余地もあった」(*一)との報告を受ける。
 今まで引用した、アメリカの資料、情報では、具体的な現地調査の模様が不明である。そこで、現在、残存している地方文書を探ると、それがビビッドに描かれている
(本誌二九四、二九五で筆者が紹介)。地方文書に日米の合同調査が、次のように記録されている。
 二月二五日、香山栄左衛門が異人三〇人ほどを連れて横浜村に上陸してきた。香山は寺院をみたいといったので、村役人が増徳院はどうかと答える。香山は海岸から遠いので不都合という。そこで、海岸沿いの駒形に案内すると、日米の担当者は足場もよい平地だとし満足した。早速、測量にかかり会見の予定地には目印の木柱を建てた。この下検分の状況などを見聞した横浜村住民一部は、近傍の三里、五里の先の縁故を頼り、一時、疎開したという。
 このように、地元の村役人、住民の協力があってこそ、横浜村が日米代表の会談場所を最適の地域と判定できたのである。
 ペリーも「岸から一マイルの地点に安全で広い錨泊地」のある横浜を「希望どおりの場所」だとし、述べている。「彼らは艦隊が湾の奥に進入することに思いつくかぎりの反対を並べてきて、それこそあらゆる手を尽くして私を浦賀に戻らせようとしてきた。それなのに、こちらを丸め込むことができないと悟り、帝都まで八マイル以内に現実に艦隊が近づいたのをみたとたん、これでは譲れないと繰り返し主張してきた立場をさっさと放棄して、無条件に私の主張を認めようと言いだすのだ。しつこいという点では似たようなものだったが、私のほうが一枚上手だったわけである」。そして、ペリーは、林大学頭あてにレターをおくり、この香山の提案は「あらゆる点で協議にふさわしい場所と分かりましたので、交渉が完了するまで江戸への訪問を延期する」(*二)。
 アダムス、ブケナンの横浜上陸と調査結果により、日米代表の会見場が約百戸の寒村・横浜村に予定された。横浜が世界史の舞台に躍り出て、世上に知られるようになったのも、実は、この時点にあると認識すべきだろう。

参考文献

一、ペリー艦隊日本遠征記(北山雅史編)。
二、ペリー日本遠征日記 (木原悦子訳)、本稿では「日記」。
三、大日本古文書(東京帝大編)。
四、NARRATIVE OF THE EXPEDITION OF AMERICANSQADRON TO THE CHINA SEAS AND JAPAN。
五、ニューヨーク・タイムズ(英字紙)、一八五四年四月から八月まで。 
六、ニューヨーク・オブザーバー、一八五四年四月から八月まで。

 
 

神奈川県域のヒストリック・イベント(2)

 第一章 神奈川条約の締結
  第2節 当時の英字新聞が伝えた日米交渉
                       
はじめに
 アメリカ合衆国の東インド艦隊(司令長官、M・C・ペリー)が一世紀半前に横浜村で条約交渉にあたった状況を、当時の「ニューヨーク・タイムズ」の報道で紹介する。
今回は同紙の「日本への意図的な旅」(主テ?マ)、「江戸湾への、ペリー提督の再度訪問についての選択的報告」(サブテーマ)を扱う。同紙は、まず、一八五四年二月七日、艦隊のうち蒸気船三隻が琉球を出航したが、残りの帆船四隻はすでに日本へ向かったという。蒸気船はサスケハナ、ポーハタン、ミシシッピであり、帆船はマケドニアン、バンダリア、レキシントン、サザンプトンである。その後、上海に寄港していた二隻の帆船(家畜、石炭を積んだサプライ号、家畜、日本むけ贈り物を積んだサラトガ号)も訪日の途に登った(*二)。
 本節は、前期報告のうち、一八五四年二月二七日(嘉永七年一月三〇日)から、日米和親条約(別称、神奈川条約)の締結直前までの報道を和訳してみる。なお、当時の外国の新聞、刊本等、または日本の記録、文書も注釈とし挿入した。    

 <二月二七日の報道>  二月二四日、艦隊は遡ってKANAGAWAと称される大きな町の沖に停泊した。江戸から海路で一二マイル〜一五マイル、陸路で九マイルだ。この大きな市街は艦隊マスト・ヘッドからの視界の内にあった。アメリカ軍の舟艇が岸から三マイル内で測量している。KANAGAWAの近くにYOKOHAMAと称される小さいFISHING?VILLAGE(漁村)がある。日米交渉は横浜で応接に適した木造家屋が建てられ次第、進められることになっているが、五、六日以内に行われるという。まず、交渉はエンペラー(将軍)のレタ?の受領で始まるが、交渉が終われば、艦隊は遡って江戸の沖に進出するはずだが、これはペリー提督の意図するところであるようだ。
 この記事について、筆者(草間)が注釈を加えておく(以下、草間注と略す)。
横浜村は「横浜沿革誌」の安政六年の項には武蔵国久良岐郡横浜村とされ、戸数は百零一戸の一小村にして、漁猟を専業とすとある。なお、神奈川宿は戸数が約千三百戸あり街道の宿場として比較的、大きかった。本紙が実地に見聞して両者の差異を記している点に注目したい。

 <三月三日の報道>  一昨日、サスケハナの甲板で、浦賀の副行政官・YEIZAIMON(栄左衛門)と他の日本側役人らを招き、フェスティバルが行われた。もちろん、これは、通商条約交渉の先手を打つ外交上の業務ではあった。開会、乾杯のあと、スピ?チがあり、それぞれ、まず、オランダ語に訳され、ついで、英語または日本語に訳された。われわれ総ての人は、日本人の即席のマナーに感銘を受けた。かれらは自分の意思をうまく伝えたし、その反応は要領を得ていた。
 今、セリマニーを伴う上陸の準備は進んでいる。大統領へのエンペラーの返答受領は数日のうちだ。
  草間注。三月一日のサスケハナ号の甲板上パーティについては、既に「日本経済新聞」や本誌で詳細に発表したので、省略する。

 <三月四日の報道>  アメリカ側の上陸の日にちは、まだ確定していないが、この件の一般的な命令は出ており、日本側の裏切りに対する予防措置は講じられた。
  草間注。ペリーの命令として、艦隊を「横浜から一マイル以内の地点」で横一列に停泊させるようにした。これにより、「対岸五マイルにわたって重砲の射程におさめる」(*二)ことができるとの算段があったようだ。
 
  <三月七日の報道>  日は上陸の予定だ。二八隻のボ?トが軍艦を一斉に出て乗組員のほか兵隊四〇〇人を運ぶことになっている。エンペラーに敬意を表するためボートから挨拶の空砲が撃たれ、その後、軍隊が上陸する。艦隊はヨコハマの村に接近しライン状に配置されているので、あらゆる動きは舟艇から識別できるだろう。現在、天気は澄み渡って美しい、明日もこれが続いてほしいものだ。

 <三月九日の報道>  七日の夕刻、曇ってきて夜、雨となった。八日の朝は厳かに明け、その日、一日を通じて晴天が続いた。昼ころ、前もって任命された護衛兵を連れたペリー提督が上陸し、そして、この日の為に任命された日本国の皇帝直属の理事者と第一回会見をもった。会見の結果について確かめたところ、アメリカの要求は好ましいと日本側が答弁したという。この第一回会議に続いて三日以内に、日米両者の会談が行われ、その後に、エンペラーへの贈り物が陸揚げされる予定だ。日本側には明らかに弱点があり、詭弁を弄して補っているが、これは長崎でロシアが条約交渉に努めたときにも見られた。
  草間注。「ニューヨーク・タイムズ」(一八五四年六月一三日)では三月八日の主要な行動は以下のようだ。横浜の海岸からHALL(応接場)まで張りめぐらし大衆の凝視から遮断するスクリ?ンを、ペリーは撤去せよと主張した。一一時と一二時の間に、ZEILIN少佐、PEGRAM大尉両名率いる各部隊が二九隻のボートで海岸に運ばれペリー一行を待つ。この一行とは、アダムズ艦長、O・H・ペリー秘書、通訳のS・W・ウイリャムズ及びJ・L・C・ポートマンである。隊列が前進し、バンドはコロンビア万歳、大統領マ?チを演奏しつつ行進した。ホールに入場すると、四人の理事者(林、井戸、井沢、鵜殿)に迎えられた。高位理事者(林)は通訳を介しペリー、随員ヘの感謝と歓迎の意を表し特に提督の健康を気づかった。合図により、その場にいた召使が茶、酒、SWEETMEAT(甘いもの)、CONSERVES(砂糖漬)を漆塗り高杯で運んで各人のわきにおいた。REFRESHMENT(軽い食事)が済み、提督、属僚は後方の別室に案内された。会談は三時間続いたが、大統領への返答は大変、好ましいものだったと報じた。

 <三月一六日の報道> 一三日は寒さが身に沁み小雨の降る日になったが、日本側への贈り物を陸揚げができた。宛て先は、エンペラー、エンペレス及び国家理事者、日本行政機関である。そのなかには、組み立てることになっている小型の機関車、炭水車、客車と線路、磁気電信機があり、知的な日本人の好奇心をおこした。
   草間注。「NARRATIVE」(*四)では、献上品としてHALL’SRIFLES五(ライフル銃五丁)、MAYNORD’S MUSKETS 三(マスケット銃三丁)、CAVARLRY SWORDS 一二(刀剣一二振り)やカービン銃一丁、ピストル二〇丁の入った箱とか、書籍、衣装、香水を入れた箱、ウイスキー一樽、ワイン一箱、チェリーコーデイアル、シャンペン、茶、テレスコープなどが列挙されている。

 <三月一九日の報道> 一昨日、提督は日本理事者と第二回会談を行った。日本側は、喜んで通商目的の三港を認めようとしている。その一つは、横浜から南、約七〇マイル地点だ。そこは直ちに調査され、キャパシテイがあると報ぜられた。もう一つの港は北方の松前である。これが認められると、アメリカの捕鯨業者には貴重なものとなる。三つ目の港については、記者は、その名も場所も知らない。
  草間注。ペリーの日記によると、三月一七日の第二回会談で、開港場としてペリーは、一、浦賀か鹿児島かのいずれか、二、蝦夷地の松前、三、琉球の那覇を主張した。これに対し、日本側は下田はともかく松前、那覇は幕府権限外で議題にならぬと答えた。この問題は三月二三日に持ち越され、下田の適否は日米合同の現地調査で決めることとしたという(*二)。
 下田開港につき日本側の動きを見ると、幕府勘定奉行らは肯定したが、水戸藩の徳川斉昭は強く反対した。また、松代藩の佐久間象山は、下田は江川太郎左衛門の私利に味方するものとして反対し、応接場のある横浜が屈強の土地だとし、横浜を、即刻、開港地とせよとの卓見を出した。だが、幕府は、林大学頭など応接掛の意見をいれ、三月二〇日、下田、箱館を薪水、食料を供給する港として内定し、これをアメリカに伝えた。

 <三月二〇日の報道> 米国艦隊の一つを構成するSTORE?SHIP(軍用品運送船)、サラトガ号が昨日、上海から到着した。この船の情報によると、ロシアは長崎での条約交渉はうまく成功させ、日本側も耳が痛いなどいってロシアを追い払わずに済んだという。この日の朝、バンダリア号、サザンプトン号は、貿易に提供されるはずの港町、下田を調査するために出航した。
  草間注。ロシア艦隊(ディアナ号ほか三隻)は、一八五三年八月、長崎に来航した。幕府は応接掛の筒井政憲らに交渉させ、一旦、退去させたが、翌年、再び来航した。一八五四年三月二五日、老中の阿部正弘はアメリカに許す件はロシアにも許可する旨、筒井に令達した。かくて、一八五五年二月、下田で日露和親条約が結ばれた。

 <三月二二日の報道> 日本側はアメリカと取引する港は二ヵ所だとの噂が飛んでいるが、ペリーは五ヵ所を要求したという。三月二四日、最終の日米会談が行われるようだ。ペリーが日本理事者と会うのが最後ならば、交渉結果は、すぐ世界中に知れ渡り、この進歩した時代にあってさえ、世界を驚かせるだろう。

 <三月二四日の報道> 今朝、ペリーは再び上陸した。条約に必要な署名の件を取り決めることになるだろう。サスケハナ号が、早朝の七時に離日した。この軍艦により、記者はこの記事を送れたのである。大西洋を経ずに太平洋航路での速達便により条約妥結のニュースを、真先にとどけることになろう。条約の条項については既に書いたが、結局、重要なことは「アメリカ人は日本と貿易を開始した」ことだ。
  草間注。三月二四日、ペリー提督は、約三〇〇人の士官、兵卒を連れて横浜村に上陸し、応接所で日本側と会見した。議題は下田、箱館の開港で、簡単に承認される。その後、応接所に運ばれた日本からの贈り物の授受となる。まず、幕府はアメリカ側に贈り物を見せ、目録を渡し、さらに力士による米俵の運搬、土俵上での取り組みを見せた。これについて、本誌三一四号で詳しく述べたので省略する。つぎに、アメリカ側は幕府高官に電信機械、蒸気機関車等を披露した。その後、海兵隊が「さまざまな隊形の展開や操練を披露し、同時に軍楽隊が、それにあわせて演奏した。日本の委員たちはこの軍隊の演技に多大な興味を抱いたらしく、兵士たちの厳正な規律と訓練にいたく感激したと述べた」(*一)。
 本紙は日本側代表の姓名等も読者に知らせている。例えば、筆頭の理事者を林としタイトルは大学頭、その職はPRINCE COUNCILLOR(君主顧問官)という。林は復斉と号し、第一一代の大学頭、嘉永六年に相談格式の地位にあった。林家は、羅山以来、幕府官学の朱子学を塾で教えた。二番目の理事者は、井戸でPRINCE OF TSU?SIMA(対馬守)という。この井戸対馬守覚弘は、長崎奉行、江戸町奉行を経ている。三番目の井沢美作守政義、四番目の鵜殿民部少輔、最後の松崎満太郎についても、紹介されているが、実態とは、若干、違う。
 このように、本紙は接触不足のためか、日本側の状況、人物に少し誤解があるが、しかし、アメリカ国際的地位について随所で的確な指摘をした。紙面の限定もあり、その全部を紹介できなかったので、他日、補足したい。

参考、引用の文献

一、ペリー艦隊日本遠征記(北山雅史編)。
二、ペリ?提督日本遠征日記(木原悦子訳)、本稿では「日記」。
三、大日本古文書(東京帝大編)。
四、NARRATIVE OF THE EXPEDITION OF AMERICAN SQADRON TO THE CHINA SEAS AND JAPAN。
五、「ニューヨーク・タイムズ」一八五四年四月から八月。
六、「ニューヨーク・オブザーバー」一八五四年四月から八月まで。
七、ペリー日本遠征日記(金井圓訳)
神奈川県域のヒストリック・イベント(3)    
 第一章 神奈川条約の締結           
  第三節 条約締結直前の見学とパーティ
               
はじめに
 アメリカ合衆国東インド艦隊が来航し、一八五四年(旧暦・嘉永七年)三月三一日、横浜村で日米和親条約を締結した。妥結の見込みがついた三月二七日(嘉永七年二月二九日)、アメリカ側は日本人約七〇人を横浜村沖のポーハタン号に招いた。その状況は当時、アメリカ側に招かれた菊池富太郎「亜墨利加乗船筆記」(以下、菊池日記と略)で、まず、紹介し、次に、地方文書で補足する。この菊池日記はすでに本誌二八一号で紹介したように、子孫の菊池俊夫氏から複写本を寄贈していただき、一部を解読した。他方で紹介するアメリカ側資料は当時発行の「ニューヨーク・デイリイー・タイムズ」中心で述べ、その他の外国人の記録で補足する。いずれの資料(原典)も平易に読み解くことに努めた。

アメリカ軍艦の視察・見学
  この三月二七日には、最初、日本人はマセドニアン号を視察したのちに旗艦ポーハタン号に案内されたのだが、彼らはどういう態度をとったか。

 <日本側資料> 菊池日記の三月二七日の冒頭部分を平易に直し次に紹介する。  応接掛、役人と異船(ポーハタン)に招かれたので、早朝から支度をして待っていたところ、風が出てきたので中止したらと申し出た。だが、「ハツテイラ」(上陸用ボート)で迎えに行くからと申すので、それなら参ろうぞとなり、先ず、アメリカの軍艦の一つを一覧したのち、ペリー乗船の蒸気船に近づくと、その船には浅黄色に紅をさした細長い旗や、帆柱に浅黄色の布に葵の紋をつけた旗が立てられていた。また、アメリカ旗掲揚の中央帆柱には林大学頭の紋所のついた旗もあった。この旗が掲揚
された途端、先程、乗った軍艦から一五、六発の大砲が放たれたが、空砲なので快い音だった。ポ?ハタン号に斜め掛けた梯子を上がって甲板に出ると、兵隊は「ゲベル」(銃)を持ち固めていた。彼らの前面にアメリカ式の槍装備の兵隊と剣を抜きもつ兵隊が交互に並んでいたが、これは日本人に見せるためだったという。軍艦内に入り、訓練のようすを見ると「八〇ボントホンベカノン」(約三六KGの大砲・BOMMEN KANON)を一四人で操縦していた。これを発射したところ、空砲のためか、砲身は退くことなく、その音は大きいが快かった。
 注.菊池は造船、造兵に造詣が深く、同じく水戸藩士の蘭学者・鱸半兵衞、工芸の 大場大次郎、砲術指南役の伊藤八蔵、造船に通じた荻信乃助と共に、徳川斉昭の命令でアメリカ艦隊を視察に来ていたのだ。この視察状況につき他の資料(*一〇)でも、上がり口には葵の紋、林家の紋を染め抜いた幟が建ててあり、平和に交渉が進行したことの表現だとした。また、剣付き銃も撃ってみせたという。

 <アメリカ側の資料> 「ニューヨーク・デイリー・タイムズ」(以下、文献五と略す)は江戸湾神奈川沖のポーハタン号から次のように発信した(三月三一日)。
三月二七日、先ず、艦隊の総指揮官(FLEET CAPTAIN)のアダムズが日本人に同伴し、マケドニア号へと赴き、乗組員の艦内居住区や大砲操縦の訓練の様子など全般的な兵員の配置を見せると、日本人は大喜びした。約一時間で見学を終え一七門の敬砲に送られポーハタン号に向かった。
 日本側の理事者らは、ペリー提督、マッククロニー(McCLUNEY)艦長に迎えられ、後ろ半分甲板(QUARTER?DECK)にのぼると、 そこは、色とりどりの旗で囲まれ一つの部屋のように内装されていた。全体は気持ち良い色彩で飾りたてられていたので日本人は感嘆の声を上げた。日本人が満足するように、すべて準備しておいたのである。次に機関室(ENGINE ROOM)に入り、巨大な鉄製の部品が、たやすく動き、急に停止するのを見たときや、スチーム、空気が充満した場所や込み入った機械の集合体を視察すると、互いに声を出して驚いた。そして、このようなものは、日本では到底、作れぬと告白した。実は、日本人が発明しているもの、理解しているもの以上のSCIECE、西洋の進歩を、彼らに示そうとする甚だ効果的な計算があったのだ。
 注、ポーハタン号は蒸気・フリ?ゲイト軍艦で最新鋭の装備(最大乗組人三百人二四一五トン、大砲九門)である。フリゲイト軍艦は大砲が二四門以上四百門の範囲で備えつけ、高速力で走り偵察に適した船である。

来日中で最大のパーティ
 来訪した日本人客はポーハタン号の二つの宴会場つまり後部甲板とペリー船室にそこで、ここでは、まず、後部甲板での宴会を述べる。

 < 日本側資料> 菊池日記では、見学後、他の招待者とももにポーハタン号甲板うでご馳走になったとし、次のように記された。
 饗宴料理の始めは、牛肉、牛舌、豚肉などの塩煮、その他いろいろな品が出された。「コッフ」という盃と酒も出た、その色は薄赤色で甘酢い味の酒だった。また、焼酎のごときもの、薄黒い色の酒も出た。料理のうち、牛肉、牛の舌肉が最もよい味がした。沢山、飲んだり食べたりしないでいると、アメリカ人は悦ばないので、私は、手真似で腹がふくれたかのようにすると、彼らは喜んだ。そのうちに機を見て、ペリーに近づきお酌しようと指さしたところ、ペリーが料理を取ってくれた。普段、できないこことをしたものだ。
 注。ペリーが甲板に出たのは宴会も終わりに近づいたころで、菊池のペリー接近は 容易だったのだ。奉行所役人も、当日は船内が混雑し護衛も無力の有様になったと 認めている。他の資料はご馳走につき「種々厚き馳走の由酒肴等ハ多分豚抔の類ひ なるべし」(*九)と簡単に記したものが多いが、「藤岡屋日記」は、出された馳走は、総計一〇種類として、パン、薄色及び黒色のカステラ、豚の肉、丸煮のカクラン鳥、獣の腸、饅頭、野菜(キュウリ、インゲ)、牛肉をあげ、牛舌を「是れは絶品也 第一の馳走」と記録している。牛タンは欧米の食文化では敬遠されがちな食品だが、この日本人には好まれたようだ。なお、「饅頭、カステラ、野菜」が日本のものと同じだと日記は記す。

 <アメリカ側の資料> 文献五では甲板の上の壇で演奏した、二組のアメリカ軍バンドに、まず、注目し、次のように報道した。
  バンドの演奏が宴会(FEAST)に活気を与えた。外国人と日本人が分け隔てなく渾然と混ざり、日本人は自席に座っていられなかった。一人が「朝になれば、カルフォルニアと日本が歩調を合わせ相互理解し合うだろう」と乾杯すると、盛んな拍手、喝采を浴びた。皆が愉快なれる場所は何処であろうと事態は楽しく進む。日本人は、宴会にかかった時間の半分も自分の居場所が分からなかったようだ。ワイン、タデイ(TODDY)が洪水のように出されたが、彼らは、実際、酔ってはいなかった。

 注。この場面は、具体的に本誌二八一号、三〇六号で述べたので、特に注釈を加えない。ハイネの写生図をみると、テーブルの上に料理が並べられたものの、座席がなく、甲板上に座っていた者もいた。これは、予備交渉にあたった日米担当者の交歓風景を挿入したのであろう。

米国側資料から見た幕府高官への接待
 応接掛はペリー提督の船室で接待された。この状況はアメリカ側資料に記されたが、日本側資料には殆ど無い。文献五はペリー船室の有り様を次の如く報道した。
 ペリー提督は、アダムズとLEE、ABBOTとWALKERの各艦長を相対して座らせ、子息のペリー秘書も同席させて日本側理事者らを迎え饗宴に及んだ。日本人は、出されたビアンド(肉類)、ぺーストリ、果物の名称を全部知りたがり、味見をしたが、それは食欲よりも、好奇心からだったようだ。ワインも彼らを喜ばせた。五番目の理事者は、すっかり陽気になってしまい、時には、ペリーを両手で抱きしめたり、美作守を椅子から追い出したりした。終わりころ、デザートとして日本側各理事者の家紋つきの小旗が挿されたケーキが出された。これは、彼らを大変、喜ばせ、礼を言った。そして、ペリ?は大君の、林は大統領の健康を祈って乾杯し、その後、理事者、ペリー、艦隊士官への乾杯が続いた。
 注。林大学頭ら五人がペリー船室に招待された。通詞の森山栄之助も随伴した。既に卓上に牛肉、羊肉、猟鳥や家禽の肉などが並べられていた。交渉が成功したら、これを御馳走しようと「生きたまま飼っておいた」(*二)ものだという。高級のシャンペン、マデイラワイン、リキュール(蒸溜酒)、マラスキーノ酒などが出た。酔った五番目の理事者は松崎満太郎で、伊沢美作守(浦賀奉行)を椅子から追い出してしまう。この饗宴につき、すでに本誌三〇七号で書 いたので詳細を省く。

甲板での余興
  夕方(五時半ころ)、日米の高官らがペリ?の船室から出て甲板上の部下、随行らと合流し帰ろうとした時、意外な余興があった。

 < 日本側資料>  菊池は次の如く記している。天幕を四方に張り、紅白またはいろいろな模様の幕を張った場所で踊りが始まり、同時に篩を貼った太鼓一つ、鼓弓三つ、三弦二つ、横笛四つを演奏した。各人は浅黄色の股引きをはいて腰掛けていたが、足で拍子をとり頭にかつらをかぶり、全身を真っ黒に塗り口紅をつけて、時々、何か歌っていた。その最中、蒸気筒から煙が出たので、私は蒸気の仕掛けのある部屋に参ったところ、蒸し風呂に入ったようでのぼせてしまった。時刻が遅くなかったら、ほかにみたい所へもあったが残念だった。帰ったのは六ツ半(七時)ころだ。

 <アメリカ側資料> 文献五によれば、余興は次のように書かれた。
 夕方になり、LIN(林大学頭)と理事者が別れを告げようとしたら、歌を唄うから待つよう勧められた。その愉快な歌を聞くと、皆、おおいに喜び大騒ぎとなる。CHRISTY(E・P・クリステイ)の歌が、艦隊の仲間により巧みに歌われたのだ
。善良な美作守は、この面白い場面に大満足だった。日本人には、奇抜さの点で忘れがたい催しとなっただろう。彼らは満足げに辞去して帰ったのだ。
 注。文献(*四)によれば、夕暮れになり退去が近づくと、日本人は飲めるだけのワインを飲んだ。松崎満太郎はペリーの首に両手を廻し、よろよろしながら抱きしめて肩章をつぶすほどだった。そして「日本とアメリカ、みんな同じ心情なのだ」 と日本語で繰り返したという。

参考、引用の文献
一、ペリー艦隊日本遠征記(北山雅史編)。
二、ペリー提督日本遠征日記(木原悦子訳)。
三、大日本古文書(東京帝大編)。
四、NARRATIVE OF THE EXPEDITION OF AMERICAN SQADRON TO THE CHINA SEAS AND JAPAN.
五、ニューヨーク・デイリー・タイムズ、一八五四、六、二二。土曜日。六ページ 。
六、ニューヨーク・デイリー・タイムズ、ニューヨーク・オブザーバー、一八五四年四月から八月まで。
七、ペリー日本遠征日記(金井圓訳)。 
八、亜墨利加乗船筆記(菊池富太郎著)。
九、随聞積草(神奈川宿・宿役人筆記)。
一〇、亜墨理駕船渡来日記(中村名主の記録及び北方村、横浜村名主からの聞き書き)、亜米利加船渡来日誌(市場村名主・添田七郎右衛門著)。


神奈川県域のヒストリック・イベント(4)    

 第一章 神奈川条約の締結             
  第四節 交渉の最終段階と条約の調印、内容、反響  
               
はじめに
 アメリカ合衆国東インド艦隊が来航し、一八五四年(嘉永七年)三月三一日、横浜村で日米和親条約(神奈川条約)を締結した。今回は、締結直前の三月二八日の第四回日米首脳会談と締結日の状況、調印条文の諸問題を内外資料で跡づける。日本側資料は当時、実地見聞した武士や名主の日記、地方文書である。外国資料も、当時の「ニュ−ヨ−ク・デイリイ−・タイムズ」(以下、NYDTと略す)、文献、諸記録(本稿末尾掲載)である。なお、各資料は原典を平易に読み解いたのち、引用した。

条約調印の直前と接待
  三月二八日には、ペリーは横浜村で応接掛と会見し米国人の遊歩範囲、領事官の駐在を論議し下田開港を翌年三月と決めた。この日を日本側はどう記したか。

 <日本側資料> 
文献*六には、この日のことを詳しく記してあるので、これを平易に直してみる。
 応接があるので、例の通り応接場に行ったところ、米国人が二十人余り上陸してきた。この時、銃持つ兵隊はいなかった。応接小屋で林、井戸らが出迎えて屋内の紫色の幕なかに入り上段の間に着席した。米国側のペルリ、アタムスら五人は、この間の左方に、幕府役人は右方に腰掛けた。両者の間は九尺ほどだが、そこには通訳一人、口述筆記の二人がいた。幕の外には、浦賀与力五人がいた。会談中の声はすれども、内容は不明だった。ペルリの声ばかりは、よく聞こえたが、意味は通じない。幕の内外の米国人に煙草、盆に載せた茶、黒塗りの菓子膳でアルヘイ、カステイラ、羊羹が出された。彼らのうち、すぐ食うものもいたが、紙に包んで仕舞うものもいた。茶菓のあと、吸い物、煮魚、酢ガキなども出ると、彼らは箸で取ろうとしたが、子供のようで、肴を挟むことができない。吸い物から煙がたつと思った人もいたり、煮魚は余り好まぬ人もいた。酢ガキだけは気にいった様子だ。酒は、こちらのものはあまり好
まず、彼ら持参の酒を飲んだ者もいた。
 米国側は林、井戸へ菓子を贈呈した。その菓子の上にご紋つきの小旗を立ててあった。この場に清国人がいたので、扇子に一文を書いてくれとお願いすると、自作の漢詩を書いてくれた。扇子の裏に米国の二人も書いてくれた。使った筆をくれるというので頂戴した。筆談で清国人に内乱のことを聞いたら、外国に援助なしで自国軍で処理したという。なぜ、この船に乗ったかと問えば、頼まれたからには揉め事にならぬようにし、既に三ヵ月もいるという。筆談なら何でも分かるので格別おもしろかった。
 


【注】このように、文献*六の著者・菊池富太郎は、前号で紹介したように水戸藩派遣の武士であるが、ペリー等の行動や幕府の接待料理を食するさまを記した点で貴重なデータを残した。この日の会談は、八時ころから十五時ころまで続いたので昼食を出すのは当然だろう。この段階では相互に理解が進み親しくなったのがわかる。この日の記述は、他の地方文書も「是れまでと違ひ剣付筒持候異人上陸これなく全く和平の御懸合向行届候」(*七)とか、約百人の異人が上陸、応接場の前で例の如き行列を作ったとし、八つ半(一五時ころ)まで応接とある(*八)。しかし、いずれも会談の内容に触れていない。

<アメリカ側の資料> 
 文献*四によれば、三月二八日の条約案の日米間の討議を次のように記しているが、幕府の接待は全く記載なしである。ペリー提督は横浜に上陸して条約案の残り諸問題につき協議した。彼は、例のごとく、条約ハウス(TREATY HOUSE)で理事者(COMMISSIONER)つまり応接掛に迎えられた。ペリーは下田、箱館、那覇の三港の取り決めにサインするよう提案し、それを通訳にオランダ語で読むよう命じ、討議したすえ、後日、日本側は回答を渡すこととした。アメリカ人が下田港、箱館の周辺を周遊する範囲も決められた。下田におく領事館(CONSULAR AGENT)も討議され一年後か一八カ月後に領事を任命することで合意した。
 ペリー日記(*二)も最後の詰めのための活発な討議がなされ、ようやく取り決められたとし供応等に触れていない。NYDT(一八五四、七、一一)は、ペリーは三月二八日に神奈川で条約の結論をだし、長い間の懸案をうまく解決したが、日本と国際条約(INTERNATIONAL TREATY) を結んだ栄誉はアメリカに属すると報じた。
【注】。この英字紙の報道は最新ニュース(LATER NEWS)だったけれどもは、日本側の事情、対応を全く無視しアメリカの戦略の成功をのみ強調した。


条約調印の当日
 三月三一日に横浜村で日米和親条約が締結されたが、日本側の当時の資料は、内容、調印のプロセスには触れていない。

 <日本側資料>
地方文書のうち、この日、暇乞いのためアメリカ人が七〇人上陸したとし、極めて簡潔に記したもの(*八)が多いが、添田文書は、今日、御暇乞いの応接があり、異人らが日本の有名な三都を見たいと願い出たのだが、日本国王は今、政治改革の際で多忙であるうえ、斎中につきお断りし、異人も承知したと記した。また、次のように部分的に詳細な記録もある(*七)。
 今日、応接につき幕府役人が天神丸で江戸から廻ってきた。十時頃、アメリカのソルタ−ト二〇人、コムマンタント一人、音楽人と囃子方が各一二人、総計百人ほどが上陸した。大将や上官へは料理を下さった。役人様方は応接は今日限りと申した。アメリカ人は三時ころ帰った。

【注】。この状況につき本誌二八二号、三一五号で詳しく述べたので、省略するが、条約調印を民衆に知らせなかった点、当時の情報統制がうかがえる。

<外国側資料>
NYDT(*五)は「米、日間の条約」の見出しで条約全文を掲げ、次のように発信した。
 アメリカ合衆国と日本帝国(THE EMPIRE OF JAPAN )は神奈川で条約を結んだ。日米両国は、平和と親善の一般協定(GEMERAL CONVENTION OF PEACE AND AMITY)により、明確で積極的な方法で決着した。具体的なル−ルは、これから、両国間で決められる筈だ。大統領任命の特命全権大使ペリーと日本の林、井戸、伊沢、鵜殿の各全権は十分に力量を互いに出し合い文書を取り交わした。
 同紙は、七月二二日にも「日本」と題し次のように報道した。この日米条約は英、日、中、蘭の四ヵ国語でサインされたが、「神奈川条約(THE TREATY OF KANAGAWA)とよばれる。その理由は五人の日本側理事者が宿泊し、その近くで条約交渉が行われた町の名に由来する。これによって、長い間、隔絶された民衆に新しい交易の戸は開かれ、殿様らが今まで夢さえみなかった道をつくり出すことになろう。日本側は、これで交渉がおわったと上機嫌(IN GOOD SPIRIT)だった。そして、アメリカ士官らを正餐(DINNER)に招き周辺の小さい町(SMALL TOWN)が供給する料理を出した。日本側は前にアメリカ側が甲板で供応したものには及ばないと弁解した。五コ−スの料理が配られたが、最初、皿、茶碗(PLATES,CUPS )が二本の箸と共に塗り物台にのせられ各人の前に運ばれた。

【注】。他の文献(*一、四) では、伊勢海老、肴の揚げ物、茹でた海老、プッデイング、多様な菓子が出され、供応は優雅で、行き届いたものだったという。だが、ペ リーは日本側が粗末のもので申し訳ないと言い訳をしたが、本当に料理は貧弱で、技術も劣っていたと評した(*二) 。このような印象はペリーが食欲不振のせいだとの見方もある(*四) 。当日の交渉、供応の詳細を本誌二八二号、三〇五号で述べたので参考にされたい。なお、以上の日米の資料を対比してみれば、幕府接待などの情報公開に雲泥の差がある。

神奈川条約の内容、補足、反響
 内容は頭書き、各条文の列挙である。頭書きでは日米の両国は堅固で永続的、真摯な親睦を結ぼうで始まる。次いで、一条・締結の趣旨、二条・下田、箱館の開港と続き、三条から五条は海難にあった船員の扱い、六条は必要財貨は双方の談判を要することとし七条で品物の調達方法、八条で取引の役人限定、九条は日本が他国と有利な条約締結のとき、アメリカにも適用とし、一〇条は遭難船への便宜供与、一一条は下田領事の設置時期、一二条は批准書交換の取り決めである。 

【注】条文の解釈について本誌三一五号で紹介したので、ここでは省略する。
 交渉時に日米間に齟齬があった例は、下田の領事設置の件である。日本側は数年先でよいとしたが、アメリカ側は紛争、負債等の処理には早期の実現を必要とした。一一条の条文を英文では「両国のいずれかかが、取り決めを必要とする場合(PROVIDEDE THAT EITHER OF THE TWO GAVERNMENT DEEM SUCH AN ARRANGEMENT   NECESSARY,)条約調印の日から十八月を経た後、合衆国は何時でも下田に駐在の領事、代理官を任命できる」となる。他方、幕府は、この条文を、「両国政府に於て無拠(よんどころなき)儀有之候時は模様に寄り合衆国官吏の者下田に差置候儀も可有之」とあり、領事館設置は日米の合意の上のことと解した。かくて、一八五六年八月二一日、駐日総領事ハリスが下田に赴任したが、幕府は一ヵ月遅れてこれを許可せざるをえなかったのだ。この他の問題点も俎上にのぼったので、ペリーは下田で検討する決意をした。
 この年、六月七日、ペリーは箱館から下田に到着し、翌日から、応接掛の林らと会見し一〇日間、毎日、交渉している。議題は下田での遊歩範囲、波止場、休息場所、アメリカ人墓地、水先案内の取り決めと設置、また、物品購入の方法、狩猟禁止、条約批准の使節などの件だった。その結果、六月二〇日、日米和親条約付録一三条となって両全権の間で決定、調印されたのであった。
 外国新聞の反応をみると、まず、「ニュ−ヨ−ク・ウイークリ・ヘラルド」(一八五四、六、一四)は次のように論評した。ペリーの成功により、アメリカは通商施設と航海の便宜を与えられるが、日本人の方が、多くの利益を得、「キリスト教、文明、政治的自由」も手に入れられるはずだ。また、世界との貿易を開始し、日本の野蛮の巣窟へ文明生活が浸透するのであって、この条約調印は必ず日本史の輝ける一ペ−ジとなるはずだとも述べた。
 イギリスの「タイムズ」(一八五四、七、二九)は次のように云う。ペリー提督が成功にこぎ着け、親善と友情(AMITY AND FRIENDSHIP)の条約を結んだ。これにより、アメリカ市民と業界に日本の主要二港つまり日本諸島の下田と蝦夷の島の箱館の港を開き、貿易のあらゆる目的に対応できるのだ。下田は、石炭の安定供給ができ、日本の産業に接続可能な最も望ましい場所だが、箱館も利点があり、共に商業貿易のめの必需品取引が許された。アメリカ市民は日本の壁のなかで居住でき、アメリカ領事も、そこに駐在できることになっていると述べた。

参考、引用の文献
一、ペリー艦隊日本遠征記(北山雅史編)。
二、ペリ−提督日本遠征日記(木原悦子訳)。
三、大日本古文書(東京帝大編)。
四、NARRATIVE OF THE EXPEDITION OF AMERICAN SQADRON TO THE CHINA SEAS AND JAPAN 。
五、ニューヨ−ク・デイリ−・タイムズ、一八五四、七、一七。 
六、亜墨利加乗船筆記(菊池富太郎著)。
七、随聞積草(神奈川宿・宿役人筆記)。
八、亜墨理駕船渡来日記(中村名主の記録及び北方村、横浜村名主からの聞き書き)、亜米利加船渡来    日誌(市場村名主・添田七郎右衛門著)。

 
 
 

神奈川県域のヒストリック・イベント(5)

 第一章 神奈川条約の締結
  第五節 米国の戦略と交流
          
一、両面性をもつ対日戦略
 米国政府は神奈川条約が人道上の措置、つまり、自国民が保護を必要としたとき艦隊を派遣するという。故にペリ−は自国艦船、乗組員の保護以外の場合のほかは武力を行使できず、戦争を宣言する権利はないのであった。また、一八五三年七月の訪日の際の大統領親書には、同じ趣旨がもられ、グローバルな対外政策が表明された。し
かし、ペリーは自国の艦船、乗組員が危ういとみれば武力行使を辞さないとしている。これを察知したのは英国の一英字紙であって、この大規模なペリ−艦隊には我が国も強い関心を抱いており、 日本が交渉に応じないと、米国の従属国になる恐れありと報道している(*1 )。これは、訪日中のペリーの幾つかの言動からも窺い得る。一八五四年三月の予備交渉でペリーは日本側渉外担当に対し、今回の条約案が否決されると戦端を開くつもりで、近海に軍艦五〇隻、カルホルニアに五〇隻も待機させてあると威嚇した(*2 )。その後も、米国の遭難船を救えないなら、国力をつくし雌雄を決する用意ありと迫った。更に三月一〇日、日本側回答を不満としたペリーは日本国内の五港を開放せよと求めた。もし、応じないときは、厳しい意味の指示命令を持たせた米国の軍艦、兵隊を送るとした(*3 )。しかし、日本側の強い抵抗と主張に折れて、ペリーは三箇所の開港で手を打ちたいとし浦賀、松前、那覇を指定した。そして、地理上、制度上の誤認もあって、結局は浦賀、箱館の二港の開港となった。
 とにかく、ペリーは米国のパワーを日本側に印象づけ、無駄の時間や経費をかけないよう交渉しようと決意していたのだ。

二、物質文化面の戦略と展開
 ペリーは米国の偉大さを世界で最強の艦隊の派遣で示すとともに西洋文明の利器、つまり、最新の技術(例、蒸気機関車、写真機、通信機等)と豊かな飲食文化で日本人を圧倒しようとした。この経済的利益を超越し、グロ−バルな世界観を基盤にした経費は米国議会に認められた。しかし、このような経費のかかる戦略に対し、他の西洋諸国は批判的だった。例えば、英国の見方は米国のように莫大な費用をかけては採算が合わない。米国は日本に市場を求めていないから、単に開国要求の交渉でもよいが、英国は産業資本を確立しており、日本を市場として期待できない故、急いで貿易相手とする必要はないとみていた。
 さて、米国側が接待と贈物を通じて展開した戦略はどのようなものかを述べよう。
 一八五三年から翌年にわたる対日交渉で予備交渉、正式会談の両方の合計接待数は一九回に及ぶ。また、日本の将軍以下高官及び、予備交渉の担当への贈り物回数は一三回にもなる。しかし、これは各種のデ−タのあるものだけだが、日本各地に停泊した計九隻(全乗組員約二千人)の軍艦に飲料水、燃料等を運搬した掛員に対しても若
干の贈物をした様子だから、贈物回数はもっと多いはずだ。
 なかでも、最大の接待は、一八五四年三月二七日、旗艦ポ−ハタン号で日本高官ら七〇人を招いたとき演出された。これは著名なウイ−ン会議のパ−ティを連想させるものだった。一八一四年から翌年にかけてフランスの敗戦処理のため、ウイ−ンで国際会議で大饗宴が行なわれたが、フランスの全権大使タレ−ランは名シェフ・カレ−ムを随行し、欧州諸国代表団を豪華のディナ−パ−ティに招き、外交上の取引を有利にしたが、以来、これを模倣した例が多くなった。ペリーも、これは熟知していたのではないか。ペリー宴会の状況は本誌二六四号、三〇六号で述べたので参照されたい。
 彼は、米国を立つ前に訪問先の来賓を御馳走するためにパリ−で修業した料理長を雇った。三月二七日のパ−ティの料理は、このシェフがニュ−ヨ−クの一流レストランに匹敵するものを一週間もかかって準備している。しかも、この日、シチュウ、新鮮な牛肉、羊肉、家禽の肉を馳走するために、去勢牛、羊、多くの家禽類を訪日の途中で調達し、船内に飼育しておいた。このほか、日本人を魅了させる為に、多くの物を用意をしたので列挙してみよう。まず、各種の洋酒類、土産用の機関車、客車などを積んだ。イタリー人の音楽家を雇い、上陸行進、パ−ティの際のバンド演奏の指揮や軍楽隊の訓練の役割を付与した。自らも訪日出発前にケンペル、シ−ボルト、ゴロ−ニン、T・ワッツ、C・マクファ−レン等の日本研究の文献を収集し日本の慣習、文化を調査していた。
 これらが功を奏し日本側と友好関係を醸成し、平和的に条約交渉が進行した。

三、対日戦略の前哨戦
 日本との条約交渉、これに伴う接待は、ペリーが琉球政府を訪問したときの経験を踏まえたものでタクティスつまり戦略の一つ、前哨戦の展開だった。
 一八五三年五月二六日、ペリーは那覇に着くと二日後、摂政等の訪問を受ける。先ず、船内を案内した後、ミシシッピ号艦長室で軽食を出す。六月二日、琉球政府高官が鶏、魚、野菜、果物、菓子を届けた。六月六日、ペリーが、海兵隊、軍楽隊をつれ首里城に入る。儀式用広間で、肉、魚、野菜、果物、煮物、ス−プ、酒、茶等での供応があった。直ちにペリーは東洋の習慣によるとして高官四人に贈り物をし女性へは香水、鏡を贈った。六月二六日にはペリーらが摂政邸で供応を受け、直ちに返礼に及び、二八日、サスケハナ甲板の午餐会に高官を招待した。そこに両者の首脳陣が随行を伴って列席するが、先ず、艦長が艦内を案内し、終わって甲板上のバンドの演奏を聞かせ宴会となる。ペリー船室のテ−ブルには、海亀で作ったス−プ、鵞鳥、子牛のカレ−、ポンチなどが出た。これら馳走を賓客はフォ−クを器用に使って賞味し美味と褒めたのを記録に残した(*6 )。
 当時、米国側は琉球の大部分が日本に属すとみていたので、後の接待作戦は那覇で試行され、日本での交渉原型が作られたとみてよい。
 次のタクティス・交渉の前哨戦は浦賀で行われた。特に、接待、贈物のやりとりは、ペリーが慎重に配慮したストラテジだ。つまり、米国側が飲食で接待すれば日本側は物資の提供を申し出るだろうが、日本側が物資の代価を受け取ってくれないなら、その提供を許さないのを原則とした。米国側の飲食の接待も贈物も、日本側の負担にならないようにする、日本側が接待し贈物をすれば、それ相当の返礼するというものだ。この背景には、米国政府から無料で必要物資をうけないようとの指示があったのだ(*6 )。
 かくて、条約交渉中において、ペリーは贈り物の交換は米国の法であるから、日本側がお返しを受けるべきだと強調した。そして、もし幕府、奉行役人らが贈物をしてきて、お返しされては日本の決まりに抵触し困るとしても、米国側は代価を支払うのを原則とした。故に、相互贈物のやりとりには時間がかかったのであった。
 徳川幕府は朝鮮通信使やオランダ商館長が友好親善のため江戸まで来訪したが、これを接待するため、形式的だが伝統的な和食で供応した。幕府としては迎賓には独特な礼法に固執し「雑魚の礼を鯛」という返戻しない、また、正確な等量の物質的交換もしなかった。
 さて、このような日米の習慣の差に困惑しながら、双方の渉外担当は交渉を進めた。この実情を一八五三年についてみると、次のようになる。
 浦賀沖の軍艦内での予備折衝に伴う接待は、与力の香山栄左衛門中心で受け、七月一二日からの連日の予備会談で、ブランデー、ワイン、 シャンペン、パン、ジャム、ウイスキ−、ハム、ビスケット等で接待された。その後、日本側から鶏一五〇羽、鶏卵千、吸い物椀五〇人前、錦・煙管・うちわ等を贈ったところ、すぐに米国側から茶、シャンペン等の酒、ビスケット、もめん織物等、また、カステラ、リキュ−ル、ビスケット、牛肉、草木の種類が贈られた。
 一八五四年二月一四日、小柴沖の洋上で交渉再開し、ワイン、茶、菓子、葉巻等で接待を受けたので、その翌日、与力らが菓子を贈った。二二日、アダムズらと幕府高官の会談では菓子、果物、酒で幕府側が接待した。与力組頭らも貝殻細工、牡蠣を進呈したが、お返しに蒸気船の石版画をもらう。二四日、浦賀奉行がペリーに見舞品をおくると、答礼としてふとん、短筒をもらう。二五日、浦賀でアダムズらが幕府側と会談し代表会談の場所をめぐり対立した。その後、与力らがアダムスと横浜村を日米会談の場を討議、終了後「例によって茶、ポンチ、ケーキが振る舞われた」という。さらに二七日、香山ら三人がサスケハナのブケナン艦長を訪問、小麦一俵、江ノ島の貝細工を贈る。ウイリャムは、これに興味をもち優れた芸術品だと褒めたという(*3 )。なお、これらにつき本誌三〇一号、三〇二号で述べたので参照されたい。
 予備交渉の結果、江戸に近くて良好な海岸を持つ横浜村で代表会談を行うと決着したので、三月一日、ペリ−は浦賀奉行役人一〇人をサスケハナ号に招かせた。この宴会の詳細は本誌三〇六号で述べたので省略する。英字紙は、この洋上パ−ティにつき「外交上の業務であり、通商条約の交渉に先手を打ったものだ」と評価し、香山らの良
いマナ−に驚くと共に、その対応は適正だったと賞賛したのであった。ウイリヤムズも、日本人が実に礼儀正しく振る舞ったし、また、如才なさぶりを発揮したと褒めてはいるが、料理の一部を持ち帰ったり、中島三郎助がはめを外したことを批判している。この饗宴は日本、最初の洋式デナ−だが、日米相互の理解と親睦を促進したと言えよう。
四、戦略外で予想外の交流
 一八五四年二月二五日、香山栄左衛門が米国側三〇人を横浜村に案内し、代表の会談場所として最適の条件の地域と判定した。この結果、三月八日、ペリー・林会談がこの村の駒形で行われたが、横浜村住民はどう対応したか。地元の村役人の見聞録と奉行所役人の記録を勘案し平易に述べてみよう(*10)。
  度々、幕府からお触れ書が届き米国軍艦に接近してはいけないと注意された。だが、村人は、三月八日の日米代表会談前後の米国軍隊の行進を凝視することができた。その後は、ペリーら約三〇人に吸い物、御肴、中皿盛、口取物、刺身、酒、茶、菓子を供したと聞かされたものの、場外で待機の剣付銃の者、音楽隊には、かすていら、あるへい、干菓子を、左右の列の兵卒には酒を与えていたり、彼らが至極うれしがり、代わりがわり裏手へ回り椿、菜の花を折り取るを見た。三月三一日(条約締結日)については、沖にいた米国人約七〇人が従前と変わりない行列で上陸し、暇乞いしとあるだけだが、翌日、彼らの多くが上陸し散歩した。石川村まで行った人は酒屋を探したが無く、菓子屋に入って菓子を買ったが店主は代金を取らないので、困った末、胸元のボタンを千切って与えたという。四月六日、ペリー以下の米国人一五人が横浜村の名残にと見物に来て、名主・徳右衛門宅に寄ったので、茶菓子、やきもち、酒
を出したところ、ペリ−が長々滞留し世話になったと通訳を介し挨拶した。ペリ−は子供はいないかと聞いたので、隣家の小児を連れてきた。また、先月から停泊していたが、始め敵のように思ったが今日は鉄砲持たずに訪れている。「心解け合い今別れと聞けば懐かしく思う」としペリーの哀れの胸中を察している。
 ペリーも「村に入るとだれもかれも見物に集まってきた」とし、日本人は「好奇心のほうが、どんな権威や恐怖心よりもまさっていたのだ」(*6 )と告白した。
 米国側も、すでに三月一日の横浜の洋上饗宴で友好親善の実あがったとしている。
これにつき、英字紙は日本人は「親切で礼儀正しい。多くは友好的」だし「これからは、もっと大勢の人と接触できるのを喜んでいるようだ」とし、さらに「長期間も鎖国してきた国民に交流の道を開き、それが発展していくだろう」と報道した(*9 )。
*参考文献。
1 、イラストレイテッド・ロンドンニュ−ズ(一八五三、五)。
2 、ペリー提督の日本開国(S.E.モリソン著、座本訳)。
3 、ペリー日本遠征随行記(ウイリャム著、洞富雄訳)。
4 、タイムズ(一八五三、七)。
5 、ニューヨーク・ヘラルド(一八五二、五)。
6 、ペリ−日本遠征日記(ペリー著、木原悦子訳)。
7 、ペリー艦隊日本遠征記(ホ−クス、北山雅史編)。 
8 、大日本古文書(東京帝大編)。
9 、ニューヨーク・デイリイ・タイムズ(一八五四、七)。
10、亜墨理駕船渡来日記(横浜村・北方村の名主聞き書き)、随聞積草(嘉永七年、金駅日記)

 
 
 

神奈川県域のヒストリック・イベント(6)

 第一章 神奈川条約の締結
  第六節 ペリー艦隊の演奏した音楽
          

 今から一五〇年前の三月三一日に横浜村で日米和親条約が結ばれた。条約交渉の会談に先立ち、アメリカ軍が横浜村駒形つまり、現在の県庁、開港資料館の辺りを堂々と行進した。そのとき、軍楽隊がアメリカの音楽を演奏しながら前進した。そのメロディを聞けば、誰しも驚くだろう。当時の楽譜も残っているので、本稿は、洋楽初演奏一五〇周年を記念し、作成したものである。
 
ペリーの日本初上陸と軍楽隊の演奏
 アメリカ合衆国の使節は東インド艦隊の司令長官、M・C・ペリーは日本を開国させる意図をもって、まず、一八五三年、軍艦四隻を率い浦賀に姿を現し、ペリー提督が久里浜へ上陸したのは七月一四日である。日本側は、浦賀奉行役人、警備の各藩武士、大衆など約五千人が海岸から丘にかけて密集していた。そのなかを、ゼーリン(ZELIN)少佐が率いる陸戦隊一〇〇人、海軍軍楽隊二組、海兵隊二〇〇人が行進し、次にペリーと随行、最後に、護衛隊、鼓笛隊が続く。幕府の応接所に向かって行進していく際、軍楽隊は、プレジデント・マ−チにのせたコロンビア万歳(「HAI
L COLUMBIA」)を演奏した。
 さて、ペリーは応接所に入ると、二人の浦賀奉行に迎えられ、挨拶を交わし大統領からの親書と信任状などを手渡した。奉行・戸田伊豆守が大統領親書を将軍に届けると言うと、ペリーは「親書に対する返事を是非いただきたい、われわれは数日後に浦賀をはなれるが、来年、必ずやって来る」と断言したが、浦賀奉行には、これ以上、交渉する権限も裁量もないので、この日の日米代表会談は簡単に終わった。そして、上陸したときと同じ隊列をつくって行進し、ボ−トに乗り沖の軍艦に向かった。行進の際、ゼ−リン少佐は鼓笛隊にヤンキー・ドードル(「YANKEE DOODLE
」)を演奏させた。
 この曲はイギリスに起源をもち、独立戦争の際、イギリス軍が歌っていたものだが、これがアメリカ人の間で流行した。その後、アメリカの民謡風の歌詞が添えられ、アメリカ国民が好んで歌っている準国歌である。最近のアメリカ映画、例えば大脱走、ジェファソン・イン・パリ−等でも使われ、日本でも人気がある。間々田正子氏の
提供による英文の楽譜、歌詞があるので、歌詞の一番を訳した人がいる。
 ヤンキ−ド−ドル、小馬にのって町へ行く、帽子に羽根さし、伊達男。
 今も続けて、ヤンキーはダンデイだ、その曲、足踏み気をつけて、ラララ
 ラララ、乙女と一緒で、手頃なの   (訳、pololon)
 このヤンキ−とは、始め、ニューイングラド生まれの人をさしたが、後、U・S・Aの北部の人、今ではアメリカ人一般のニックネ−ムとされている。
 今から一五〇年前、アメリカの鼓笛隊のドラムの伴奏は日本人には面白い太鼓のひびきと聞こえたようだ。例えば、太鼓を打ちながら行進するとは人間わざと思えない、太鼓の響きはトントントントントトトンと聞こえた。しかも、上陸した際の演奏曲とは違う音楽にかわったとする(*一)。なお、多くの当時の武士はペリーの行進を評して、不意の変事に備え、 整然として秩序を乱さなかったというが、欧米式の軍律を採用していない当時だから、無理からぬことだ。
 さて、ヤンキー・ドードルは、日本の「アルプス一万尺」の旋律と同じだ。歌詞は飯塚宏が作ったが、曲はアメリカ民謡とされている。その歌詞を紹介しよう。
アルプス一万尺 小槍の上で アルペン踊りを踊りましょう ヘイ ラララ・・・
槍や穂高は かくれて見えぬ 見えぬあたりが 槍 穂高 ヘイ ラララ・・・
横浜村の日米会談と米軍バンドの演奏曲
  一八五四年三月八日は一日を通じて晴天が続いた。ペリー艦隊は横浜村に接近し横並び状に配置されたので、日本側の、あらゆる動きを把握できた。一一時過ぎると、ゼ−リン少佐、ペグラム大尉の先遣部隊が上陸し、次いで、ペリー一行が計四〇〇人の兵隊を率い、幕府の役人らが居並ぶなかを粛々と上陸した。二七人から成る軍楽隊は「ハイル・コロンビア」、「星条旗」を奏しながら行進する。その楽器は「米艦渡来紀念ノ図」ではトランペット、コルネット、シンバル、横笛であり、その他の資料でサキソホン、ホルン、トロンボ−ン、大太鼓、小太鼓などを補足でき、久里浜の演奏で使った楽器よりも多い。
 「ハイル・コロンビア」のコロンビアは、詩で使われるときはアメリカ合衆国と同じ意味になるので「アメリカ万歳」と解してよい。故に当時、これは国民的な歌(THE NATIONAL)だとされ国歌に準ずるものだった。ペリーは既に前年、那覇に来航し、軍隊を上陸させたときにも演奏させていた。このように、大きいイベントには、いつも「コロンビア万歳」を演奏した。ここで、成立経緯を紹介しよう(*二)。
 一七九八年ころ、アメリカのフィラデルフイアの政界は、激しい抗争の渦にまきこまれたので、これを憂え、盛大なコンサ−トを企画し緩和しようとした。そこで、一七九三年にP・フェロが作曲した「プレジデント・マ−チ」に適する詩を必要とし、著名な指揮者の子息、J・ホプキンソンに作詩を頼んだ。できた詩はアメリカを称える内容だったので、政界に歓迎され、その後、大衆も愛国歌として好んで歌った。特に南北戦争のときは北軍の愛唱歌となった。
 さて、ペリー提督の一行は、昼ころ、日本側の用意した応接所に入った。その瞬間に、沖の舟艇から敬意を表するための空砲が打たれた。会談は三時間続いた。その間に日本の料理が振る舞われたが、アメリカ側は、その内容は日本茶,日本酒、菓子、砂糖漬けだったなどと述べ、日本側が酒膳、本膳料理だとするのと対照的である。
 この日の会議が終わると、ペリー一行を先頭に上陸部隊は来たときと同じ隊列で鼓笛隊のヤンキ−・ド−ドルの演奏に合わせて行進し岸にもどり各軍艦に帰った。
 鼓笛隊に日本側はどう反応したかの記録がある。遠征記(*三)によれば、応接掛かりの伊沢美作守が軍楽隊鼓笛隊の演奏の音楽が大好きで、にぎやかな曲を演奏すると手足をじっとさせていられなかったと書き、ペリー日記(*四)は、伊沢が「わたしたちの音楽が気に入ったらしく、楽隊がにぎやかな曲を奏でだすと、手拍子足拍子をとらずにいられないようすだった」という。このように彼はバンドの賑やな曲の演奏には調子をあわせ愉快そうだったのである。
 伊沢は、アメリカ側の見方では、第三番目のコミッショナーとされ「ミマサカのプリンス」(精神的首都の京都の西方の領主)なのである。そして、年四一歳、底抜けに陽気な人だったという。伊沢は浦賀奉行になる前は長崎奉行だったから渉外事務、外国人の扱いに慣れていたから、如才なく振る舞ったことだろう。とにかく、彼が、アメリカのバンドの旋律、ハ−モニ−、リズムを理解できた武士だったのには驚かされる。

交渉の最終段階におけるバンド演奏
 この年、三月二七日、ペリ−は日本側関係者約七〇名をポーハタン号でもてなした。甲板上のパ−ティ風景はハイネ(P・B・W・HEINE)のスケッチに巧みに描写されているが、バンド演奏やミュージック・ショウを伴なう豪勢なものだった。
 このような外交上での派手な宴会の起源は、一八一四年のウイ−ン会議でのフランス全権大使タレ−ラン、シェフのカレ−ムが行った時にある。フランス政府は接待を通じて外交上の駆け引きを有利に進めようとしたのだ。一八〇四年にナポレオン一世がフランス皇帝となり、欧州全部を支配すべく侵略を始めたが、結局、敗退した。被害を受けた諸国は処罰すべくウイ−ンで協議したとき、タレ−ランは、パリの名シェフ・カレ−ムを連れていき、諸国代表を華麗なディナ−・パ−ティに招いた。この際、音楽やダンスもあり、会議はおどり中心の感があった。これ以後、列強の外交交渉、対外行事では豪華なパ−ティを開催するのが恒例となっていくのである。
 三月二七日の招待宴当日、ペリーは林大学頭らを、特別にペリ−自身の船室(CABIN)に案内し、他の幕府役人、随行、主要な藩の武士などを後甲板(QUARTER−DECK)に連れていく。準備された料理は、ニュ−ヨ−クの有名店デルモニコに負けないものだった(*四)。
 英字紙は甲板上の宴会では「音楽が宴をもりあげた」(*六)とした。まず、日米双方の乾杯が相継ぎ、乾杯、返杯のつど、全員がはやしたてた。軍楽隊の演奏曲は、その騒々しさを更に増幅した、つまり二組の軍楽隊が、乾杯の音頭に負けまいと振幅を大きくしたとされる(*四)。壇上のバンドマンは、金管楽器、大太鼓、小太鼓などを奏でる二十数名だった。かれらの演奏した曲は快活なTUNE(旋律)だったようだ(*五)。
 夕方近くなり、日本側高官がペリー船室を出て、甲板にあがったとき、アメリカ側が暫時、待たれよといい全体集合となる。この時、突然、壇上に上がった水兵九人が、楽器を演奏しつつ踊るというパホ−マンスが始まったのである。それは音楽を奏でつつ愉快な歌とダンスをする、ミンストレルショーを模倣したものだった。当時のアメリカの人気歌手E・P・クリステイが唄っていたS・フォスターの歌曲が多かったのだが、「役に相応な衣裳を着用し、ユ−モアをもって役柄を演じた」とか、この演出なら、クリステイ座の観客からも大喝采を受けただろうとかいわれた(*三)。使用楽器は、日本人絵師のスケッチからみると、バンジョウ、タンバリン、バイオリン、ギタ−、打楽器などであった。横浜から函館、下田に寄港したときも、ペリーは彼らにミンストレルショ−を演じさせた。彼らが在日中に演奏したフォスターの曲は、
一八四四年から一八五四年までに作られたうち、おおスザンナ、草競馬、兄弟ガム、スワニ−・リバ−、金髪のジェニー等がおもなものである。
 神奈川条約の締結も終わったので、この年四月四日、ペリーは条約文をアメリカ政府に届けさせるためアダムス参謀長を帰途につかせた。そして、小柴の沖に停泊していた残留ペリー艦隊が彼の乗艦サラトガ号を盛大に見送った。
 このとき、ミシシッピ号の軍楽隊はHOME、SWEET、HOME(楽しい家庭)を吹奏した。ウイリャムズは、そのメロデイを聞いた人々は目に涙を浮かべたが私も「これまで、どんな音楽によっても今日のこの曲ほど胸を締めつけられる思いをしたことはない」(「ペリ−日本遠征随行記」)と回想した。
 この曲はイギリスのヘンリー・ビショップ(一七八六〜一八五五)の作だが、一八二三年、J・H・ペインが歌詞をつけオペラで使われて著名になった。「たとえどんなに貧しくとも家庭ほどよいところはない・・・・」というのが原義であるが、明治二二年(一八八九年)の中等唱歌集のなかに収められると、「埴生の宿も 我が宿玉のよそおい うらやまじ のどかなりや 春の空 花はあるじ 鳥は友。おおわがやどよ たのしとも たのもしや」と翻案される。それは「埴生の宿」と題し里見義がつくったものだ。埴生の宿とは、土に藁を敷いた宿つまり大変、貧しい家の意味であり、そのような家庭でも楽しいものはないと、我が家を讃えた巧みな作詩である。

 このように、一五〇年前に横浜で初めて演奏された音楽が、後世の日本人に好まれ、そのメロデイを変えることなく継承されているのである。

 *参考文献。
一、浦賀奉行所関係史料、第四集 浦賀見聞録。
二、HAIL、COLUMBIA。WORDS BY JOSEPH HOPKINSON(間々田正子
     氏の提供)。
三、ペリー艦隊日本遠征記(北山雅史編)。
四、ペリ−日本遠征日記(木原悦子訳)。
五、NARRATIVE OF THE EXPEDITION OF AMERICAN SQADRON TO THE CHINA S      EAS AND JAPAN。
六、「ニューヨーク・デイリ−・タイムズ」一八五四年四月から八月まで。 

 
 
 

神奈川県域のヒストリック・イベント(7) 

第二章 横浜村の黒船騒動
        
 今から一五〇年前の冬、アメリカ艦隊が始めて横浜に来航したが、その状況が当時の横浜村、北方村の名主からの聞き書き『亜墨理駕船渡来日記』(以後「日記」と略す)に描かれている。一八五四年(嘉永七)年のアメリカ軍艦(「日記」は異国船という)の来航は、幕府、奉行、代官のお触れ等により江戸湾岸村々の名主を経て村民に伝達された。それらは市場村(添田家)、中村(石川家)、根岸村(森家)、滝頭村(安室家)、野庭村(臼居家)の各名主の黒船渡来日記として書き残されている。内容はお触れ、達し、布告の廻状写しや奉行所役人等からの聴取したものが多い。
『亜墨理駕船渡来日記』は当時、横浜村の中山太郎左衞門、北方村の植木茂右衞門の家に寄寓いた禅僧が執筆した。従って、前記の名主日記と似ているが、アメリカの艦隊、その将兵(日記では「異人」と称したので、本稿も使用)の動向を詳細に記録してある。禅僧は、異国船を追って下田におもむき、その動きを観察していたが、取材なかばで死亡したという。
  横浜村は元禄十一年(一六九八年)以来、幕府直轄地として荒川丹後守が支配し、嘉永年間では旗本・荒川欣次郎の支配だった。嘉永七年、応接所が横浜村に設けられると代官の斎藤嘉兵衛の預所とされた。文政年間ころ、民家が八七軒、陸田の多い寒村であり、南北が約一キロメ−トル、東西が約一、九六キロメ−トルの狭い区域だった。しかし、対岸の神奈川宿、陸続きの保土ヶ谷宿は幕府役人、各藩の武士、大衆が宿泊できたので便利であり、風光明媚の場所だった。
 今回は、「日記」の横浜住民の驚き、恐怖を一八五四年二月八日(嘉永七年正月十一日)から同年三月八日までの期間で抽出した。なお、適宜に〔注釈〕を付し他のデ−タで補足した。年月日は旧暦で示したが、新暦を(新)として併記した。
 


一、異国船の接近に驚く住民
[一月十一日](新二月八日)。代官・江川太郎左衛門が異国船数隻、大島の沖の方航行とのお知らせをだした。昨年の夏以来、各藩は警備に怠りなかったが、年末にはお上は伊豆、相模、武蔵の海岸を防衛する大名らに出陣するよう命令した。全国の大名三〇名の陣地が厳重だから安心だ。(口説き風の文章で次のように状態を説明)。
 「人けの無い平地、鳥もいない山、小島の磯まで防備の体制をしき、全国の大名、小名残らず、武士を屋敷に待機させている。もし、自分の持ち場所にアメリカの軍艦が侵攻してきたら、末代まで家の名折れだとし、大名のうちには手早く防備の武士を派遣したものもいる」。

 〔注釈〕。異国船見ゆの報は浦賀奉行からも老中あてに届けた。ここで、異国船の訪日経緯を述べておく。嘉永六年六月(一八五三年七月)、アメリカ合衆国の東インド艦隊司令長官ペリーは四隻の軍艦を率いて浦賀に入り、幕府に開国を要求する大統領親書を提出し、いったん、離日する。翌嘉永七年一月(一八五四年二月)、ペリ−は沖縄経由で再び日本を訪問し、横浜村で代表会談を行い、同年三月三日には日米和親条約を結ぶ事に成功した。
  [一月十四日](新二月一一日)。異国船一隻、昨夜、航行中に海中の岩に衝突、座礁した。船の腹板を破損したので、船体を横に傾け修理していた。近所の村の大衆が小舟に乗り出し見物していた。そこで、浦賀奉行は、即刻お触れを出した。異国船の停泊の場所へみだりに近づくものは、国法をわきまえないから、見付次第、捕え、厳重に申付ると。そのうちに、異国船三隻が応援に来て端舟(はしけ)数隻をおろし、中身は何だか分からないが、積み荷の箱をたくさん、仲間の軍艦へ運んでいたのだが、風波が強く、多くの積み荷は水底に沈んでしまった。

〔注釈〕アメリカ側の記録によれば、座礁した軍艦はマセドニアといい、この日の前日、河津の海岸に近づきすぎて岩礁に乗り上げた。すぐ、仲間の軍艦一隻が救援し、さらに通りかかった軍艦三隻も助太刀したが航行できなかったので、積み荷「瀝青炭」を船を軽くするために海に投げこんだ。積み荷一部は岸に打ち上げられた。そして、これを日本人が拾いあげアメリカ側に送り届けたので、ペリーは、米国の財産に丁重かつ細心な気配りを見せてくれたと述べている。

  異国船の見物禁止令は、正月十四日付けで「相州浦賀より武州神奈川」までの海岸に沿う村の名主、年寄に至急、洩れなく住民に通知せよとした。横浜村名主は十四日、中村名主は十五日にこのお触れを受領したから横浜村名主には真先に届いたのだ。

[一月十七日]。小柴沖に停泊の異国船から、端船(ボ−ト)四隻が出て本牧八王子の海岸に接近した。その一隻は磯に乗り寄せて海岸の岩に落書きしていった。ここは本牧警固の因州藩つまり鳥取藩の持ち場なので、その藩の役人が落書きの文字を写し取って、早船を使って江戸に報告したそうだ。白いもので何か書いてあったが、とても分かりかねたとしている。同月二〇日にも、亀木の鼻の海岸の岩に「IHD」と描かれてあるのが発見された。そこで、直ちに六浦藩(同所警固の担当)が浦賀奉行所へ報告したという。

二。横浜村が会見場となるまでの折衝
〔一月一八日〕この日、奉行与力が久里浜まで戻ってくれとの申し入れると、異人は承服できないとし、「日本役人香山」に対面したいという。そこで、香山は病気で相果てたと答えた。異人は、とにかく江戸に乗り入れるといい協議は終わった。
〔注釈〕。香山の病気は虚言だったが、理由は同僚による嫉妬により地位を失なったのである。(本誌、301号から304号に詳述したので参照されたい。)
 しかし、この日から十日後の「日記」に香山が登場したと記録されたので、次に述べよう。
 〔一月二七日〕(新二月二四日)。小柴沖の異国船が品川指して動きだし、その後を浦賀奉行の御用船、曳き船が追跡していくのが見えた。「与力応接掛り」香山の数刻に及んだ。
香山「品川への乗り入れを、すぐ、やめてくれ。実は、横浜村方面へ江戸の高官が出張し会談ができる。そこならどうか」。
アメリカ側「三日以内に返答する」。
香山「では、その日限を守ってくだされ。まず、明日でも現地を見にいくことにしたいが、いかがかな」。アメリカ側「よろしい。行きましょう」。

〔注釈〕この時点までに日米の担当者は十回も協議していたが、決着がつかず、日米はとも困惑していた。この時、姿を現した香山の提案に横浜の名がでたのである。アメリカ側資料によると、二月二五日、香山はポ−ハタン号のアダムズを訪問した。まず、ティ−、ケ−キ、ポンチで供応を受け、再会を喜んだ。その協議は次のような駆け引きだったという。
香山「あなた方は浦賀で日米交渉するのに賛成しないのか」。
アダムズ「燃料、飲料水は近くの海岸から補給できるのである。なにも、浦賀まで行く必要はない」。
香山「そうか・・・・・浦賀での会談を断念する。では、ここから五マイルさきの横浜はいかがか」。アダムズ「では、これから、そこの下検分に出掛けよう」。
 〔一月二八日〕(新二月二五日)。沖の異国船から艀(はしけ)が四隻でてきたがのうち二隻は神奈川の方へ、あと二隻が横浜へ寄ってきて、異人三〇人ばかりが上陸した。先着の香山が代表会談の場所について、われわれ名主らと話し合った。
香山「なんの宗教でもくるしゅうない。この村に会談場所にむく寺院はないか」。
村役人「真言宗の増徳院がありますが、ここから四丁か五丁の距離です」。
香山「それは都合悪い、他にないか」。
村役人「海岸に沿って北のほうへ行くと、駒形という所があるが、そこは見晴らし良く足場もよいので最も適していると思います」。
現地の名主らが、こう推薦すれば、日米の担当者としては承服せざるをえない。ただちに現地におもむき、日米の担当が協議した。
異人「この場所なら会談に相応しい」。
香山「では、後日、異変がないように、あなたのほうで印しを付けて下され」。
ブケナン「では、よくみて棒を立てておきましょう。三日以内に、また、協議したい」。
異人は香山と握手をした後、酒を入れたギヤマンの壺を取り出し飲んだ。これは立派な徳利だったので、異人は見物人、住民にさしだしたが、誰も受け取らなかった。

他方、横浜住民の間に流言飛語がとんだ。これを平易に直してみる。
住民A「日米会談がうまくいかず、万が一、合戦となれば大筒を撃ち合い、おいらの家や蔵が焼けてしまう。急いで、衣類、穀物、鍋釜などは、船で五里向こうの親戚へ預けよう」。
住民B「桶や鉢は土のなかに埋め、お金を懐に入れて舟や馬で逃げよう。老人や子供は昼のうちに、よく知っている北方村へ行かせた方がよい」。住民C「異人たちはボ−トで神奈川へ参ったものがいるが、彼らが必ず、夜間ここへくるよ。さっきから残って村内を歩いている者もいる。みんな鉄砲をもっているから、夜討ちをするのだ」。
スワ、異人らが夜討ちをかけてくるといって、逃げる旅支度をした男女らが村の岐路で叫んでいた。また、東の方へ行ったり西の方へ行ったり、うろた
えて走りまわり、大変な騒ぎとなった。

〔注釈〕これが、正式にアメリカ軍が横浜の土を踏んだ最初で横浜の名が世界史上に登場した瞬間だ。アメリカ側資料によると、アメリカ軍のボ−トで香山は先に出発、ブケナン艦長、アダムズ参謀ら約三〇人が二隻のボ−トで横浜村に上陸した。上陸地点より五〇〇メートルほど離れた駒形を日米共同で調査し会談の場所を確定したという。なお、「大日本維新史料」は、この日、横浜村民が米使の武装上陸を合戦と思い家具その他を持ち出し大いに混乱とし、翌日、香山が村方の漁船に海岸沖の水深を計らせたところ、深さが一七尋(ひろ)、つまり、約二六メ−トルで大船が繋留可能と
確認したという。その後、日米担当者は急速に接近した。アメリカ側資料によれば、一月三〇日(新二月二七日)、ブケナンらが横浜に上陸し建設中の日米会談用の建物を視察し、多量の土産品の陸揚げにも適すると認めた。そして、海岸に埠頭を作るよう指示した。その後、ブケナンに小麦一俵を、アダムズに江ノ島の貝細工を香山から贈られると、大いに喜んだとしている。
 〔注釈〕二月三日(新三月一日)にまたも異国船の見物人の増加を憂慮し見物禁止令が出されたが、住民は横浜沖からアメリカのボ−トが毎日出て水深を測量しているのを凝視していた。二月四日、神奈川宿に彦根藩等の四つの藩が逗留し始め、七日、中村の増徳院に松代藩の、また、太田村東福寺に小倉藩の警備担当が到着したので、大いに混雑した。そして、その二日後、その両藩の割り当て決まり、これが「日記」につぎの如くある。松代藩は「村中程より少し西」「駒形より南にあたる字 中島と申す所」。小倉藩は「村より北西 字 州乾(しゅうかん)と申す所、駒形よりも西北にあたる」ところという。
 〔二月八日〕。神奈川から船にて林、井戸、伊沢、鵜殿、松崎ら応接掛のほか、御徒目付、御小人目付、和蘭通辞、与力、同心が応接所建築の進み具合を調べにきて、夕方、帰った。異人も一六人ばかりが上陸し応接場を見て帰った。
〔注釈〕。応接所は、中村の半右衛門(棟梁)が、浦賀奉行の米蔵に隣接する、館浦(やかたうら)仮応接場の建物を運搬して、普請し、二月七日に完成した。他方、幕府は横浜沖のアメリカ艦隊に近づいたりしないように、また、陸地から見物するのも遠慮するよう指示している。だが、見物人は日増しに多くなっていったのである。しかも、この日(八日)、お触れをもって「明後十日、神奈川沖滞留の異船に於いて応接の祝砲」が五〇発打ち放たれるが、空砲だから心配したり、動揺したりしないようにと伝達した。だが、住民は、かって聞いたことのない大音響に動転したのであった。
 アメリカ側資料では、応接所は「トリ−テイ・ハウス」(条約館)と称され、白木(松)の急ごしらえの建物という。間口一二メ−トル、奥行き一八メ−トルの応接の広間と部屋が、いくつもあり、奉行の伊沢の紋章がついた幕が外壁に張りめぐらされていたと詳しい。ペリーは、日米会談を行う日には日本の警備陣が裏切って攻撃するかもしれないと心配し、横浜村を艦隊の大砲射程の中に入れるように、全艦隊を海岸から一海里、すなわち、一八五二メートル以内の沖合へ移動させ横一列に停泊するよう指示していた。
(この項、次号に続く。参考、引用の文献は第二章終了後に列挙する)。


 
 
 

神奈川県域のヒストリック・イベント(8)

 第二章 横浜村の黒船騒動
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 本稿の原典は嘉永七年(新暦一八五四年)の横浜村、北方村の名主からの聞き書き『亜墨理駕船渡来日記』(以後、「日記」と略す)である。これを平易に直し、適宜に〔注釈〕を付し他のデ−タで補足した。年月日は旧暦だが、要所で西暦を(新)として併記した。原典のまま使用した語句は異国船(アメリカ軍艦のこと)、異人(アメリカ人のこと)である。なお、前回の発表との重複は避けるようにし、参考文献は本章終了の際に列挙する。
三。アメリカ軍のパレードに驚く
[嘉永七年二月九日](新一八五四、三、七)。横浜村の警備は真田様、小笠原様に属す武士が配置され、真田様は村の中央より西の方、駒形の南方の中島を、小笠原様は村の北西の州乾で、駒形の西北を割り当てられた由。
〔注釈〕真田様とは松代藩主・真田信濃守、小笠原様とは小倉藩主・小笠原左京大夫だ。前者は現在の日銀付近を、後者は現在の県民ホ−ル付近の警護についたと思われる。
[二月十日](新三月八日)。今日、初めての応接で、お役人方が応接所に居並ぶ。浦賀奉行及び江戸の各与力、同心合せて二百人ばかりが応接所の前後左右を警備した。これを遠巻きに警備したのは、小笠原様で州乾より延々と長蛇の如く幕を張り家紋入りの旗指物を立てた。中島の中央は真田様が眠っている虎のように丸く陣をかまえ、家紋の六文銭の幕を張り旗指物を立ていかにも厳重にみえた。
  この日、異人は大筒など兵器、数多を積みのせた二七隻のバッテイラで次々に上陸した。その数は凡そ七百人ばかりだ。鉄砲隊三六〇人のうち、一二〇人は浅黄色、二四〇人は黒色の羅紗地の服を着て行進した。指揮官は鳥毛の冠を戴き剣を以て指図するが、肩に牡丹の金物さした者、その肩章に更に房を付けた者がいた。赤い服の太鼓二人のほか、黒い服の横笛、らっぱ等、種種の楽器をもった四隊の「楽人」もいた。
これら楽人がハヤシ始めると、指揮官の指図で全体が行進し、応接所前で左右に別れて並んだ。号令で鉄砲をたてひざ撃ち、ねらい撃ちに構え、足のあげさげ、前進と後退、離散と集合など、定規で測ったように少しも乱れず。日頃の訓練のたまもので言語で言い尽くしきれない。
 しばらくして、沖の蒸気船ポーハッタンから白い小舟一艘が出た。そこに総大将「提督ペルリ」がいた。そのいで立ちは実に大国の使節と見えた。彼が上陸すると、左右に並んでいた異人が一斉に敬礼し、楽人がはやしたてた。この時、沖の八隻の軍艦、磯の小舟十隻が大筒を放ったので、煙が雲のようにたち、近くに落ちた雷のように大きい音響がした。その場の数千人の日本人は誰も驚かないものはなかった。
 今日の会見の席へは、日本方の役人が儒者の林ほか、異人はペルリなど四人が着席したが、どんな「奏書」が出されたか、「追々分かり候」。
 今日、異人への饗応献立は長熨斗ほか十四品(祝膳)、二汁五菜の本膳、四品の二膳、四種の下部、落がん、あるへいの菓子など。食事後、異人の願書を受け取り、すべて終了した。異人が退出するやいなや、楽人は「笛を奏し太鼓をドロドロと鳴らす」。来たときと同じように少しも乱れぬ行列で海岸に進む。日本では、殿様方の登城下城の折、先を争うのとくらべ「雲泥の相違有之」、また、異人は日本の役人にも失礼の行いがなく「その身の正しからん事をのみ心掛居り候」。
 〔注釈〕ペリ−は、この日の上陸行進を「完璧に整えなければならない」とし、全員に整然と上陸し、軍楽隊の演奏にあわせて堂々と行進せよと命令した。日本側にアメリカの総てが勝っていると印象づけるために演出が重要だと強調していた。艦隊の大砲(空砲)の発射も、ペリ−は表敬のあいさつとしての礼砲で、幕府の将軍へ二一発、幕府の代表委員へ一七発を放ったとしたが、実は威嚇戦術の一つと敢えて行ったのである。
 なお、接待の献立と交渉内容につき、すでに本誌(平成一一年三月、四月)で述べたが、日米の史料に相違がある。日本側資料の相互も一致しないが、形式的、伝統的な迎賓料理だったことに変わりはない。


四。アメリカ側の不法な行動もあった
[二月十一日](新、三、九)。異人一人のための葬式あり増徳院に埋葬す。谷戸に上陸した異人合計二七人は浦賀の与力の案内でハヤシ方の笛、太鼓の演奏とともに行進した。真田様の馬屋の側にくると、馬がいななき、異人は肝を消し音楽をやめた。
墓地で柩を土に入れるとき鉄砲を一斉にはなった。帰途もハヤシをしたが、馬屋の辺では中止した。

〔注釈〕。これはミシシッピ号の水兵ウイリャムズの葬儀だ。その状況は添田家の日記、金駅日記などに詳しい。
〔二月十二日]。代官の斎藤嘉兵衛の手附からお触れ書が届いた。異国船が滞留している間、漁業は平常の通り行ってよいが異船の近所へ近寄ってはいけない。漁師、積荷船が異船に近づき稼ぐことあり、これは、厳重に取り締まるとの由。
 今日、異人が犬を連れ上陸。小型で薄赤色、日本の犬と出会っても噛み合わず。
〔二月十三日]。江戸からの飛脚で真田様の陣営にお触れ書が届く。応接の具合によっては彼より戦端を開くおそれあり油断するな。外から見えぬように山陰、木陰にたむろし昼夜、時々、海岸を見回り接戦に備え必死の覚悟をするように、士卒は鋭気を養っておけ。なお、彼より戦いを開いたら小舟で迅速に応戦せよ。
 これでは「安心もなかりけり」。
[二月十四日]。異人が小舟で大師河原、池上新田に上陸し海辺の杭に落書きをした。その二八字の大意は、来日し既に一か月にもなった、早く帰国したいとの由。
〔二月十五日](新、三、一三)。今日は二度目の応接だ。上陸した異人は約四百人、先日のようにハヤシながら行列で行進した。交渉ではアメリカから唐土往来し遭難の節はアメリカ人を保護し積荷を送り返す、アメリカ船が南方に来たら下田で燃料、水を補給し、北海道方面に来たら箱館に停泊させると決めた由。
 この日、異人ら主な献上物を水揚げした。蒸気小火輪車、バッテエラ、白酒の樽、農具多数。紅酒、桜桃酒、三鞭酒、金桜酒はどれも箱入り、水と混ぜて飲む物だとの由。
  この日、異人ら多く多く村内を歩行し家並みに立ち入り、婦女子などに戯れ迷惑した。特に、村役人(年寄)が応接所に出勤し留守だったので、異人が大勢入り来って酒を乞ひ呑みなどした。この家は表の店では「よろづ荒物商売」だが「質を取り金銀を融通」する豊か家だ。当家は、神奈川に出張していた奉行所に呼ばれて口上を差し出した。その始末書は次の通り。 
 十五日、異人上陸し応接あり、そのため、村方より働き人足を出すことになり私も老いた父の名代で人足とともに応接所へ行った。その留守に異人六人、お役人一人、付き添いの村役人一人が村のなかに立ち入った。異人が私宅に入ったので家内が驚き逃げ回った。お役人は、そんなに驚くと異人は面白がって外まで追いかける、静かにせよと諭された。異人二人は囲炉裏に座る。酒樽を見つけ、酒をくれという。家内は当惑していると、お役人が酒を出さずに居ると立ち去らぬ、代金は当方で払うから差し出してくれといわれた。そこで一合徳利に盃を添えて出した。そこにいた下女に注いでくれと手振りで要求したので、注いだところ、異人は下女の肩に手を掛けふざけ
た。彼女は驚き逃げ出すと異人は打ち笑った。お役人も一杯のんで異人を連れて帰った。付き添いの村役人も、酒一合余り飲んで暫く休息していると、真田様のお役人が来て「色々御咄し有之 御帰り相成り候」。
 このような始末書で無事にすんだ。だが、異人が酒を飲んだとき、剣を抜いて振り回したことや、その早業については述べなかった。
  今日、五つ時より雨降り。去る十三日、天眼鏡をもって上陸した異人の予報どおりになり驚いた。異人上官がさして来た傘をみると少ない骨に絹のような布が張ってあり風雅で面白い。
  さきに「或る役人」が異人の作ったという歌「むさしの海さしでる月はあまとふや かるほるにあに残る影さも」を送ってきたが、半信半疑だ。しかし、異人作の絵にペリーがカルホルニアで妻と子に見送られている景色があり、また、異人の直筆の歌もあることだし、そんなに疑ってはいけない。

〔注釈〕。アメリカ側資料によれば、この日、ペリ−は、J・アボット大佐(マケドニアン艦長)を横浜に遣わし、アメリカ政府からの贈答品を幕府側に渡したのである。日米の品目を比較すると、「日記」が「蒸気小火輪車」としたものは蒸気機関車のミニチュアであり、後に軌道を走るように整備された。「白酒の樽」はAMERICAN  WHISKY、「桜桃酒」はチェリ−・コーデイアル、「三鞭酒」はシャンペンだ。これら献上品の全部は、日本側の資料(例、金駅日記、大日本古文書など)に記されている。将軍あて三七品、老中あて一二品など、詳細なリストがある。
 [二月十六日](新三、一四)。異人が上陸し蒸気車、てれがらふの組み立てにかかる。蒸気車の走行のために応接所の裏の麦畑を六十間の長さ、三尺の巾で切り開き、そこに、巾二尺のはしごをいくつも輪のように並べ、その上に延べがねを張った。お役人が見物するための桟敷も作ってあった。
[二月十七日](新三、一五)。  異人「ウリユムス」は「重訳詞」で言語も顔も日本人と異ならず。彼は横浜の山下という岩間ではまぐりを拾ったが、これが母はまぐりだったので、子が不憫だとし海中に戻した。また、十年後には、アメリカ人の髪型は日本人のようになると予想した由。

〔注釈〕。「日記」はウイリャムズの清国に在住中の行状や、優れた言語能力など詳しい。彼は一八三三年、宣教師として清国に渡り広東、マカオで活動していた。一八五三年、ペリーの中国語通訳として採用され、従軍し、その状況を日記に記した。
[二月十九日](新、三、一七)。横浜村の惣兵衞の屋敷門前は馬場に適し真田様の馬屋に近いので、馬の訓練に使われた。今日も朝から、佐久間修理らが稽古をしていたところ、例の細画名人の異人が、これを見て笑った。佐久間が彼に乗馬してみよというと、手綱を左手にもち巧みに馬を走らせた。「其の様子神速鬼変の早業 中々人間業とはみえざりけり 流石の佐久間も舌をまき一家中の人々も口を噤で言葉なし数多の見物人声を放ちて賞嘆す」。その後、彼は日本人の騎馬訓練の短所を教えた由だ。また、増徳院で武士が鉄砲の訓練をしていると、異人が来て鉄砲の扱い方を教えた
。異人は海上での戦いしかできぬと思っている者がいるが、陸上の合戦にも優れているようだから油断すべきでない。恐るべきこと多し。
〔二月二十一日〕。異人の一人が、州乾より船で神奈川にわたりたいと付き添いの役人に申し出たので、それは出来ぬというと、腰の鉄砲を差し向けた。仕方なく舟をだし神奈川につけると、東海道を江戸にむかって行く。そこで、役人は急いで人を走らせ六合川の渡し舟を隠しておくよう伝えた。異人は、この川に着き万年屋前で交渉したが舟がなかった。さらに羽田渡しまで行ったが、ここでも渡るための舟なく、大師河原から横浜に引き返した。もし、役人がこの異人を切り捨てたならどうなったか、大きい争乱になったかもしれぬ、実に危なかった。
〔注釈〕。この異人はビティンガ−というサスケハナに乗っていた従軍牧師である。彼は、七日前の日曜日に乗組員のために祈祷、説教をしたが反感をもたれている。彼の当日の行動のうち「日記」に洩れている部分は、本誌二六九号に詳細に解説したので参照されたい。
 
 

神奈川県域のヒストリック・イベント(9)

 第二章 横浜村の黒船騒動
鍖絳絳絳絳駝昭腓らの聞き書き
        

 嘉永七年(新暦一八五四年)の横浜村、北方村の名主からの聞き書き『亜墨理駕船渡来日記』(以下「日記」と略す)を、前回に続き平易に直し適宜に〔注釈〕をつけた。文中の異国船(アメリカ軍艦のこと)、異人(アメリカ人のこと)は、原典のままである。

五(最終節)、神奈川条約締結前後の日米交流
 [二月二十六日](新、三、二四)。この日、応接あり、使節補佐のアダムズがもはや、日米間に誤解は無いので日本側が防備を厳しくする必要がない、米軍は不意に襲わないから心配するな、われわれは来年も下田に参るが防備は無用だと語った由。

〔注釈〕。この日は日米会談三回目にあたる。午前八時ころ、幕府から林大学頭が天神丸で派遣され、ペリーら約一五〇人は午後二時半ころ上陸、例により行列を作り音楽と共に行進した。この間、幕府贈呈の米俵を相撲取りが運んだ。応接所裏では、ペリーらは相撲を見物し、応接所前で役人らはアメリカ人が運転する蒸気車に乗ったり、見物したりした(*四)。「日記」もアメリカ側資料も、双方の贈物目録、力士の米運搬、取り組みを述べている(*一)。

 〔二月二十七日〕。快晴のためか、異人の上陸が多い。異人から慶長金小判など五両拝借したいと願い出されたが、これは二十九日の供応に入用の金子であり、料理人に渡される由。
〔注釈〕。この小判については「明後日 日本御役人 饗応の菜肴等 調呉候様ニ頼候由」との記述(*六)もある。幕府役人ら七〇人を招待した正餐に使った材料のうち、野菜、魚介は現地で調達したためであろう。
 〔二月二十九日〕。神奈川まで出張してきた応接掛かりのお役人衆が異船に招かれ、そこにお越しなされて、種種の料理供応になる。
〔注釈〕。この日本側の役人らを招いた正餐については本誌の「都市文化史八七」「飲食社会史一一」で述べ、饗宴参加者の一人・菊地富太郎が出された牛肉などを美味としたことにつき本誌「都市文化史九七」で詳しく書いた。
 〔晦日」(新三月二八日)。今日、異人百人ばかり上陸。応接所の庭の前を行列して入場するやり方は、先例の通りだ。応接が終了すると、異人が増徳院境内で「写真鏡」で人を写した。
〔注釈〕。この日は第四回日米代表会談にあたる。日本側の他の資料によれば、午前八時ころ、林大学頭が天神丸で横浜村に着き、一二時ころ、ペリ−が音楽隊、多数の将兵をつれて行列を作り音楽と共に行進した。異人は、今までと違い、剣付き鉄砲をもたなかった。日米の交渉に入り、会見は午後四時ころ終わった。この間、蒸気車、通信機の操作をしたので、役人のお供の者らが見物していた(*四)。写真撮影は、「マロン」が持参してきたものであるという(*六)。大衆を対象した写真の撮影は、前年、那覇の海岸で行ったのが日本で最初だろう。
 この会談の状況を「遠征記」を基に平易な会話体にしてみる。
ペリー「開港すべき港は下田のほか箱館、那覇だ」。
役人「では、慎重に検討する」。
ペリー「下田、箱館の周辺で遊歩できる範囲を提案するが、これではどうか」、
役人「結構だ」。
ペリー「下田に領事をおくのは日本人のためでもある」、
役人「神奈川条約調印後、一年
か一八カ月に領事をおいてよい」。
 〔三月朔日〕(新三月二九日)。異人五六人上陸し軍艦内に飼育中の獣に与える草を刈って持ち帰った。また、珍しい草は根ごと引き抜き銀鎖つき肩掛けの器に入れた。鉢植えにして本国に持ち帰る由。
 〔三月二日〕。今日は、異人よりの献上物全部を村役人が江戸へ送った。異人の上陸が多く、明日、暇乞いの応接が予定されている由。
 〔三月三日〕(新三月三一日)。異人約七十人、暇乞いのため上陸。行列はいつもと変わりなし。異人ら、船にて江戸に行き城、町を見物し、献上した蒸気機関車を王の御前で興行してご覧に入れたいと願い申し出たが、お取り込み中につき、お断りの由。

〔注釈〕この日、日米和親条約の締結されたが、これは地元住民に知らせてない。条約に署名が終わると、幕府は、ペリーらを応接所広間に招き饗宴を開いた。その状況は本誌二八二、三一五、三二一の各号で詳細に書いた。

  〔三月四日〕(新四月一日)。異人が多く上陸し、方々の山野を散歩した。その一人は付き添う役人も無く、吉田新田や石川村の方へ行き、酒屋はないかと言って飲酒したいようだった。住民が集まってきて見物していると、横浜村役人が来て連れ帰ろうとした。連れ帰る途中、異人は菓子店を見つけ、値四文の菓子二つを買おうとした。しかし、店主は売らないというと、異人は承知せず、では、自分の胸元のボタン二つと交換してくれと申し出たので、店主は承知した。だが、店主は後日、これらボタンを役人に差し出した。
 〔注釈〕。「日記」編者は、これは痛ましいことだとし、ボタンを届けた店主を不憫に思っている。店主は実はボタンが欲しかったのであろう。アメリカ人は菓子を買うにも日本貨幣を持たない。だが、日本人のボタン好奇心を知っていたのだ。日本人がアメリカ人の服装で最も興味をもったのはボタンである(*一,二)。だが、当時の為政者は住民らが異人の持ち物を譲渡されるのを禁じたし、よしんば、拾得しても届けないとお咎めを受けたのである。
 この日、ペリーの部下・ウイリャムズ、モロ−博士も植物採集の目的で保土ヶ谷宿まで散歩した。村の住民は総出で迎えたが、道をあけて秩序を守っている。日常品の売店では、ロ−マ字標記の商品、オランダ輸入の薬を売るのを見て、彼らは驚く(*五)。二人は、この日、横浜村、戸部村、保土ケ谷宿、永田村、野毛浦を巡回し応接所に戻ったのだ。
  〔三月九日〕。細画を描く名人で、さきに真田藩武士に乗馬の指導をした異人が横浜村の東にある中山太郎左衛門の家を訪れ、門内に腰掛け写生をした。母屋、土蔵、座敷、小屋などをはじめ梯子、柴、樹木など微細に写し取った。この人は、いつも村に上陸し神社、人物等を描いており、対象を一回みると、あとは二度と見ずに絵にするが、それが現物と寸分も違わない。まったく、凡人の及ぶ所ではない。その後、当地、金沢の画工の家で彼の直筆の絵を見た。それは、ペリーが本国出帆の折、妻、子供と別れの場の絵と戦場の絵だった。
 〔注釈〕。この異人絵描きは、従軍画家のハイネかモロ−かであろう。ハイネは「遠征記」の挿絵の殆どを描き、特に「横浜の農家の庭」がこの絵の風情がある。モローは、アメリカの牧場での乗馬の経験は十分あったので、彼かもしれない。
 〔三月十日〕(新四月七日)。ペリーや上官の異人が横浜村が名残惜しいと見物した。州乾より太田屋新田に出て川に沿って南へ行き、山を越し北方村まで歩いていく。引き返し増徳院へ立ち寄り、名主・徳右衛門宅に寄り庭の松を見物し、座敷に通り床几に腰掛け休息した。異人は目付役の二人を含め計一五人だった。茶菓子、やきもち、小猪口で酒も出した。当家の主人、女房が挨拶し終わると、ペリ−も「当地にながながととどまり、世話に預かりかたじけない。我々は近日中に出帆するが、縁があれば、また、会いたい。家内が繁盛するよう願う」と言い、ウイリヤムズも挨拶した。ペリ−は、名主の妻に子供はいないかと聞くと、彼女は、すぐに隣家に行き、子供を借りてきて自分の子の様に見せかけた。平生、にがりきった顔のペリーは、遠い本国の妻子を見たかのように喜び、涙を浮かべていた。
 思えば、先月から異人は停泊してから四十日もたった。日ごとに上陸するものが多くなったが、はじめは日本側は、我々を敵のように思ったし、彼らも日本側を疑い、上陸のたびに、鉄砲を持参した。しかし、この節は、鉄砲を持ち来るような無粋なものは一人もない。上陸を楽しみ、日米、双方とも心が解け合った。
 〔注釈〕。「日記」編者は、ペリーの心情を洞察したかのように、やや誇張した表現でこの場面を多方面から記述している。
「遠征記」によれば、この日、ペリ−は横浜村一帯を調査するため士官数人と共に上陸し、まず、応接所で茶菓の供応を受け周辺8キロメートルほどを視察にでかける。森山栄之助ほか数人が同行したが、群がってくる住民を制止している。だが、ペリーは、これを非難したため、再び、群衆が一行を見物にきた。かくて、ペリー一行は村内を周遊し北方村の寺まで行って戻り、最後に村の行政官の徳右衛門を訪問した。家に入り赤い腰掛けにすわると、行政官の妻とその妹が、微笑んで迎え茶菓(TEA・CAKE・砂糖漬の菓子)を運んできた。ケ−キはHOT  WAFFLEのようなものだった。村の行政官の妻は幼児を連れてきたので、ペリーは抱いて糖果を与えた。
彼は「せいいっぱい愛想よく抱いてみせた」(*二)。
 「日記」編集者は、ペリーの心情を自分の恣意で描写したことがわかる。
ペリーは、この日、三箇所の寺社を訪問したことは注目される。その部下の画家も寺社を多数、描写した。例えば、ハイネは「横浜道沿いの神社」のなかで水神社の鳥居を描いていた。「遠征記」の挿絵には、その他、「横浜の寺院」「下田、石橋と寺院への入り口」がある。その共通する点が鳥居で、彼らには興味あるものだったようだ。なお、ハイネらはTEMPLEは神社か、寺院かは区別できなかった。もっとも、それらは神仏の分離令の出る前だったから、両者が同じ境内にある場合が多かったから当然だろう。
 「日記」のほかの残りの部分として、三月十三日(異国船が品川、大森方面に進出)、三月十四日(真田、小笠原の陣払い、異船の動向)、五月十八日(増徳院埋葬の異人を下田改葬につき、横浜村役人総代の沖右衛門が斎藤嘉兵衛御役所宛てに届け出る)の記述があるが、他と重複するので、割愛する。
 ペリーの歩いた道は、駒形、弁天を経て北方村、中村の辺りだろう。現在の横浜市中区の県庁から出て、本町通り、弁天橋、太田町通り、シルク通り、谷戸橋、谷戸坂、北方小学校、代官坂、増徳院、本町通り、県庁に帰るル−トとなるのではないか。しかし、それらの町並みには往時の面影は殆ど残存していない。
 他方、 当時の横浜村の住民は攘夷とか、排他性とかの感情は持ち合わせていないことが「日記」の解読でわかる。住民の国際性は、現在の横浜市民にも残存し継承されていると言えるのではないか。
参考文献
*一、『ぺリー艦隊日本遠征記』(本稿は「遠征記」)、オフイス宮崎の訳本、英語原典の双方。
二、『ぺリー提督日本遠征日記』木原悦子訳、(本稿は「ペリー日記」)。 
三、W・ハイネ『世界周航、日本への旅』(中井訳)。
四、『金駅日記』(『黒船来航と横浜』に掲載)。
五、S・W・ウイリャムズ『ペリー日本遠征随行記』洞富雄訳。
六、『亜墨理駕船渡来日記』(武相叢書第一篇に掲載)。

 
 

神奈川県域のヒストリック・イベント(10)

 第三章 日本初の蒸気車、横浜村を走る
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 嘉永七年(新暦一八五四年)に来航したアメリカ艦隊のもたらした土産物のうち、機械、器具類は、欧米の物質的文化の所産だった。それらを描いた絵画や文書は、当時の瓦版、幕府や諸藩の関係者の報告、日記などに残されていて、日本人が驚異の眼差しで接し、特に、蒸気車(機関車、炭水車、客車)に好奇心を抱いたことが分かる。

アメリカ政府の意図
 アメリカ政府は、1八五一年以来、日本との国交開始に本腰を入れ、まず、東インド艦隊を派遣することとした。郵政監察官のペリーを、同艦隊司令長官に任じ、艦船の編成、装備、贈物などを自己の責任で準備せよと命じた。彼は、直ちに当時、ヨーロッパで出されていた日本関連の文献を収集、調査し、日本人は機械、器具に好奇心を抱きやすいことに気がつく。そこで、ペリーは、政府の協力に感謝しながら、着々、遠征の条件を整備している。
 派遣する艦隊の編成につき、英字紙は1四隻の船だとし、それらが併せ持つ大砲(GUN)の総計は二三六門、兵士は三三〇〇人、海兵隊は七〇〇人だと報じた。しかも、この艦隊は機関車、客車、線路と、電線つき電信機、写真機(DAGUERROTYPE)なども持参するという。このようにして、欧米人を野蛮人とみなす日本人の心に、アメリカ人のパワ−を深く刻みつけるのだと結んでいる。換言すれば、アメリカの武力と便利な機械器具で日本の文明の遅れを意識させようとした。
 そこで、ペリ−も、蒸気機関車、電信機など、種種の工業製品のうち能率、経済の価値観を重視する機械の存在を教えようとした。そして、日本の皇帝、幕府高官に、このような多種多様の贈物を献上または贈与したが、この点からみると、日米和親条約締結の下工作でもあった。だが、フイルモニア大統領としては、親書のなかで訪日の目的の一つに「日本国民に適した商品を供給する」と婉曲な表現を使い、外交的な言辞で声明を出していた。

横浜村海岸に陸揚げされた汽車と運転、見物
 アメリカ政府は、ペリ−の要望通りに大艦隊、多量の文明の利器を準備する予定だったが、実際に派遣された艦隊はフリーゲート型三隻、 スル−プ型四隻、輸送船三隻からなるのだった。また、文明の利器などの贈物の予算も削減され当初の品物がリストからは消えたものもある。
 一九五四年三月一三日、ぺり−提督は贈物リストをアボット艦長を通じて林大学頭等の応接掛に手交した。横浜村に陸揚げされた贈物リストを見ると、幕府将軍あてに二五種類の物品があるが、これを細別すると三七品となる。そのなかに、小型の蒸気機関車、炭水車(TENDER)、客車、線路一揃い、電信機二組、電線などがある。
 陸揚げしたあと、これら贈物のうち、汽車、線路、電信機は組み立て等、展示の準備作業が連日、続いた。機関車は、長さ三、五メ−トル、幅一、五メ−トルで、実物の四分の一の大きさだった。
 汽車が走る場所が幕府により応接所裏の麦畑に用意され、直径約一〇〇メ−トル(円周三一四メートル) の円形に軌道(幅四五センチメ−トル)を設けた。蒸気機関車は、ミシシッピ号の機関士のゲイと機関助手のダンビ−により運転されている。炭水車や装飾を施した客車は、六歳ほどの子供が乗れる容積しかなかったので、客車に乗った幕府の役人は屋根にまたがらざるをえなかった。時速約三二キロメートルで走り出すと、彼は屋根に必死でしがみつき身体をかがめたり、震わせたりした。煙を吐く機関車の背後で着物をひらめかせながら青白くなった武士について、アメリカ人は苦笑し、嘲笑したが、日本人は驚異の叫びを発し、最も人気があった。
 水戸藩士の菊池富太郎は三月二二日、横浜村に着き、応接所付近で汽車が走るのを見た。報告書によると、半径一五間ばかりの円形の鉄輪の上を走ったが、それは、アメリカ人二人が絶えず薪、炭をくべたからだ。拙者は、これと競争してみたが、必死でないと、とても及ばない。汽車は急に止まったり、逆戻りしたり、自由自在だったと観察がくわしい。
 三月二四日、日本殻の贈呈品、力士が運搬する米俵が渡され、続いて、今まで披露した汽車などの正式引き渡しがあり、汽車の試運転が再び行われた。この時も応接掛かりの書記・河田八之助が客車に跨がって試乗すると、見物の役人らは特に汽笛の鳴るたびに歓声をあげ、機関士が炭水車から石炭を運びボイラー罐の火をたきつつ操縦しているのを、つきせぬ好奇心で凝視していたという。
 日本側の地元住民は、軌道、見物用の桟敷を作らせられたものの汽車を遠くで眺めただけだった。また、四度目の日米会談のあとで、「蒸気火輪車」などをアメリカ人が自分で運転してみせるから、幕府の将軍らに、その機会を作ってくれとお願いしたが、お上は拒絶したと聞いたというにすぎない。しかし、三月三十日に、村役人が献上物全部を江戸へ送り出す作業にかかったのである。

贈物・汽車の報道さまざま
 イギリスの『ザ・タイムズ』には、通信員からのレポ−トが掲載された。「美しいミニチュアのLOCOMOTIVEと客車が急速度で規則正しく回っていき、日本人の称賛を得た。そして、多くの者が客車に乗って数回も回遊した」という。
 アメリカでも、汽車は贈物としては大ヒットで、始め遠慮していた日本人は、大騒ぎして乗る順番を待っていたと報道された。
 蒸気車についての真実に近い描写として、まず、アメリカ側の絵画がある。 『遠征記』(*一)の挿絵「横浜でのアメリカの贈物引き渡し」は、画家のW・T・ピ−タ−ズ(PETERS)のものが原画であるとされている。しかし、これは写真によりピ−タ−ズが模写したものをサロニ−会社(SARONY & CO.)が石版印刷したのだ。写真とはダゲレオタイプのカメラ銀板使用のものでペリ−艦隊付きの従軍 画家、E・BROWNが撮影したものという。         
 さて、ピ−タ−ズの絵をみると、日本の武士に囲まれた機関車があり、そこには煙突(SMOKESTACK)、障害排除機(COWCATCHE)が付いている。このほか、救命艇、農具類、酒樽なども描かれているが、挿絵のポイントは、日本の武士が感心して眺めている場面である。
 これにつき、画家ハイネは、機関車等はフイラデルフィアのノリス会社製造で、客車は紫檀製だが、金属の装飾、加工があって、最高の作りだったので、日本人は非常に感心したのだったという(*三)。
 他方、日本側にも正確な蒸気車のスケッチがあった。たとえば、絵師の樋畑翁輔の絵には、真実に近い機関車前部があり、その他もかなり正確である。煙突、大小の各二個の車輪をもつ機関車、車輪四個、窓一一のある客車、これらの間に、炭水車も描かれでいる。
 さて、滑稽な想像を交えた献上汽車の絵は瓦版により、当時の大衆に知らされた。これら五点は、既に「市民グラフ・ヨコハマ」(一九七八年)が紹介しているが、そのうち、三点は客車にのぼり旗をを立て、欄干で周囲を巡らし装飾を施したものだ。これらは、作者は当時の天皇が式典、宮中の主要行事、行幸などに使った車を連想し、アメリカの客車に見立てているのである。つまり、アメリカ大統領から将軍に献上された車ときいて、このように想像したものであろう。 
 では、残り一点につき、横浜黒船館所蔵の「亜墨利加蒸気車」で考察してみよう。表題の次に、アメリカ合衆国より大日本国に献上の船とある。制作年は、不明だが、目録に「蒸気車 雛型」とあることから、献上当時のものではなかろうか。煙突は「煙リ出シ」で、石炭を炊き白い煙を出すとし、車輪は数量、形状とも、ほぼ実物に似ているが、COWCATCHER(障害排除)、およびCONNECTING ROD(連結棒)がない。TENDR(炭水車)とCAB(機関手室)が一体であり、ボイラ−マンもいる。客車は「遊山屋形船」と書かれ、長さ八尺、横五尺とある。山野に行楽に出掛けるときに便利なように屋根を付けた車両という意であろう。説明文に、走るときは山海を厭わず一日に百里を走りあたかも飛龍に異ならずという。
 どの瓦版にも描かれている点を拾うと、客車は鎖で機関車と連結されていること、物見遊山に利用する客車が強調されていることから、既に、当時、瓦版製作者にたいして指示する者がいたのではなかろうか。
 これを裏書きするものが、ジョン万次郎の「レイロウ 車仕掛ニテ陸ヲ走 火舩之図」だ。煙を吐く機関車、機関手室、客車二輌が鎖で連結され、客車の窓に客が見える絵画である。彼は、この図を描きつつ説明したと思われる。
 ジョン万次郎は土佐国(現、高知県)の漁夫だったが、近くの西三崎浦で遭難して漂流、アメリカ船に救助されて渡米した。一二年間もアメリカにあって、学校教育を終了し、捕鯨船で働いた後、沖縄に帰還した。すると、薩摩藩からは彼の航海術のほか、アメリカ事情を聴取されている。そして、帰還してから一年半過ぎてから、ようやく故郷に着いたが、直ちに土佐藩に呼び出されアメリカの地理、実情を聞かれ、また、その知識を藩士に教えた。万次郎は海外の新聞を読んで、米国が中国と貿易を始めたり、捕鯨船が基地を求めていることを知っていたから、近く、米国としては、日本に開国をせまるだろうと、藩主、老中、文化人を説得している。来日したペリーが一八五三年、一旦、離日すると、幕府は万次郎のアメリカ情報を必要とし、中浜の苗
字を承認して武士身分とし、幕府直参にとりたてる。代官の江川太郎左衛門に仕え、江戸の江川邸で、造船や航海の技術、アメリカの国内産業、交通などを教えている。
この間、蒸気船、蒸気機関車、客車の知識も教えたのは当然であろう。しかし、一八五四年、ペリーの条約交渉には、万次郎不信の輩がおり、遂に表に出て来られなかったのである。 
 アメリカは、西洋文明の尖端をいく蒸気車を贈り、日本人を心服させようとしたが、単に創造心、好奇心を喚起しただけで、大きなショックにならなかった。長崎で西洋文明に接触したり、佐久間象山や万次郎らの文化人の努力により、すでに、多くの大衆が啓蒙されていたのであろう。

 参考文献
*一、『ぺリー艦隊日本遠征記』(本稿は「遠征記」)、オフイス宮崎の訳本、英語原典の双方。
二、『ぺリー提督日本遠征日記』木原悦子訳。
三、W・ハイネ『世界周航、日本への旅』(中井訳)。
四、『金駅日記』(『黒船来航と横浜』の掲載)。
五、S・W・ウイリャムズ『ペリー日本遠征随行記』洞富雄訳。
六、『亜墨理加乗船筆記』(菊池富太郎日記)。 
七、『亜墨理駕渡来一条聞書』。
八、『亜墨理駕船渡来日記』(武相叢書第一篇に掲掲載)。
九、『洋学の系譜』(惣郷正明)。
一〇、英字紙(一八五二年からの、ニュ−ヨ−ク・ヘラルド、ニュ−ヨ−ク・デイリ−・タイムズ)。
一一、『市民グラフ・ヨコハマ』(一九七八年臨時増刊号)
 
 

神奈川県域のヒストリック・イベント(11)

 第四章 条約交渉中に幕府がアメリカへ贈った贈物  
          

 アメリカ合衆国は、東インド艦隊の司令長官、M・C・ペリーに日本を開国させる使命を与えたので、彼は、一八五三年、艦隊を率い浦賀に姿を現し、更に、翌年二月十三日、再び来航し、四月十四日まで横浜村、柴村の沖に停泊した。幕府は条約交渉中に接待を七回、贈り物を十二回にわたりおこなった。贈り物は単なる返礼、土産が多かったが、アメリカ側の蒸気車など最大級のプレゼントにたいする返礼も豪華な内容であった。それは、家具、調度品などの伝統工芸品、さらに羽二重、縮緬など絹織物もあり、幕府としては苦心して華麗で装飾のあるものを選んだ。そして、横浜村での神奈川条約(日米和親条約)の調印一週間前、三月二十四日(陰暦二月二十六日)に手渡した。その贈り物のなかの二百俵の米は当時の力士に運搬させ、終わると幕府は土俵を作り、力士の取り組みを披露したのである。

幕府が目録をもって贈呈した品物
 三月二十四日、幕府は儀式的に目録を授ける。将軍からの「下され物」という意識で贈り物を与えたのだから、アメリカ側は「日本人は贈呈品の披露にも受領にも同じように形式ばっていて、儀式はなかなか終わらないのだった」(*一)と不満だった。アメリカ政府などから贈られたプレゼントも、幕府は、かれらが条約を結ぼうとして来日したからには、日本への貢物と解していた。いわば、アメリカ側は条約調印を日本に大きく期待して物品を献上、寄贈したのだとみなした。これにたいし、幕府は日米の和解がついた最終段階で、祝いの品で返礼した。かくて、三月二十四日、日米代表第三回会談は議事を少なくして日本からの返礼品の授受を主体としたのである。

 この日、ペリ−が士官、通訳、随行を連れて横浜村に上陸し応接所に入ると、すでに贈り物が宛て先明記で並べてあった。いつものように挨拶し、協議をした後で応接掛の林大学頭が贈物目録を読みはじめた。
 この目録は日米資料に相違があるので、本稿は、アメリカの資料と、日本側資料と対比し、略、一致するものを列挙してみよう。後者は譜代大名関係者の資料集にあった目録原典である。その頭書きに、アメリカに下された品々は神奈川在の横浜で、浦賀奉行を通じ勘定奉行の納戸頭、細工頭が整備を仰せ付けられたとある。
 目録を奉読する役目の林は、最初に、「将軍からアメリカ政府に対し遣わされるもの」と前置きし「一つ、梨子地蒔絵料紙硯箱」(ひとつ、なしじ まきえ りょうし すずりばこ)と読み上げる。
 この梨子地(なしじ)の蒔絵とは、金、銀の粉が漆の表面に散らばって見えるので梨の果実の斑点のような外観で華麗な絵模様を描いてある。このときの蒔絵は、松竹梅、鶴亀の意匠を施したものだった。 
 この漆塗りの硯箱と用紙につき、アメリカの通訳(ポートマン)は、簡単に「ゴ−ルド ラッカ−ド アッパレタス」(金漆塗り器具)と訳す。この間にオランダ語での訳語が挿入されるので、一品を読み上げだけでも長い時間がかかったのである。

 以下、十品が続く。このうち、主な品を摘出し、日本側原典の品名、アメリカ側の訳語品名の順で列挙する。
 一 黒塗机、ラッカ−ド ライテング テ−ブル(漆塗の机)
 一 黒塗書棚、ゴ−ルド ラッカ−ド ブックケ−ス(金漆塗本箱)
 一 花生 花台 共、センサー オブ ブロンズ、サポーテイング フラワ− ア   ンド スタンド(銀地花瓶と花卓) 花生(はないけ)にはの雀、台には亀の蒔絵の装飾が施されていたという。

 続いて、将軍の次の贈り主・林から十品、井戸から三品、伊沢から五品など、計十二人からの贈り物が読み上げられた。
 十三番目からは、アメリカ側の各位に対し幕府の将軍、その家来面々の贈り物が続いた。このうち、前掲文書の「船将十九人」に対する品は次のように披露された。
 一 紅羽二重(べにはぶたえ) 三疋宛 スリー ピ−スイズ プレイン レッド ポンジー(三疋づつ、紅繭紬)
 一 板〆縮緬(いたじめちりめん) 二疋 ツ− ピ−スイズ ダイド フィギアド クレイプ(染模様縮緬)
 「通弁官」つまり、ポートマン、ウイリャムズらには「板〆縮緬 三疋」、惣士官五十六人にたいし「吸物椀十人前宛」を贈るとの目録を呈上した。 

これらについてのアメリカ側の感想を摘出してみよう。
 ペリ−は「ほとんど価値がない」(*二)としているが、「遠征記」では、「漆器は、すべて精巧な細工と優美な艶だしで仕上げられており、陶器のお碗はすばらしい輝きと透明感を帯びていて金と多彩ないろで模様や花が描かれ、その技巧は評判の中国陶器のも勝るものがあった」とされた。しかも、漆器については、当時、長崎を来訪していた西洋人が注目しており、その漆地の上に、金、銀の粉や箔、金貝を使った蒔絵の器や箱などは羨望、称賛の的だったのだ。

 以上の目録の提出が終わると、応接掛はペリ−らを奥の間に招き、刀剣二腰、鉄砲三挺、日本貨幣二組を贈った。刀剣は備前国邦彦・二尺六寸の名刀、鉄砲は火縄銃、貨幣は慶長判、小判等だったが、幕府からの答礼品と認められないものだった。しかし、ペリ−らがこれら三点を懇望したので、応接掛は特別に贈呈せざるをえなかったようだ。これにつき、ペリ−らは、アメリカ政府代表にたいし敬意をはらった証拠だと大いに気をよくし、感銘をうけたという(*一)。
 なお、アメリカ側は、幕府将軍からの贈り物には、いつも米、干魚、犬があり、この日も、珍種の小犬四匹が贈られたという。

瓦版による贈物報道
 瓦版では、幕府は将軍が多くの品を「被下物」として、アメリカ人に与えたと恩恵を強調する点は共通する。だが、たとえば、「横浜応接の図」(挿絵参照)をみると、前記の目録以外のものが掲載されているのである。
 まず、宛て先を明記しない贈り物として「机、料紙硯、花入、火鉢、広蓋、置物、吸物椀、羽二重、紋縮緬、板〆縮緬」等を列挙しているが、実は、政府(大統領)にあてたものである。更に「吸物椀六百人前」とあるは「吸物椀十人前」づつ総ての士官五十六人へ贈ったものなのであり、次に「大根八百本、にんじん五百本、ねぎ七十把、菜四百把、蜜柑七箱・・・・」とあるが、これは一八五四年二月、ペリ−に贈った見舞い品である。最後の品の「鶏 三百羽、米 二百俵」は、アメリカ艦隊全乗組員あてのものだ。だが、「使節」(ペリー)、「船将」(艦長)、「通弁官」(通訳)に贈った品々は、前記資料と、略、両者一致している。
 なお、前掲の瓦版には「ペルリ、アダムスら低頭の図」があり、幕臣(応接掛)に対しアメリカ使節が平身してお辞儀をしている。これはアメリカを日本の属国とみなした意図の表現であろう。絵ではペリー、アダムズ、ブケナンが、「通人」(人情に機微に通じた人)の幕臣の前に跪き、「きんぱ」(めでたい)、「さんちょろ」(うれしい)とお礼を述べている。ペリー(「まつちゅせ へるり」)の前の三方に熨斗(のし)が置かれている。熨斗は干した海草をたたみ目にのして紙に包んだのが始まりで、当時、酒肴の代替とされ、祝い等の儀式の贈答品に添付されるものである。なお、当時のアメリカ人は熨斗が将軍のプレゼントには付き物だと指摘し、習俗に注目した(*四)。
 かくして、この瓦版は、将軍や諸国大名はアメリカに遜色なく威厳をもって対処し、恩恵として多くの贈物を与えていると強調し、大衆を安堵させる機能を果たした。


米の贈呈と運搬、余興としての相撲
 贈呈品目録のうち、日米のデ−タでの考証で、一致しているものは「米二百俵 但し五斗入り」「鶏 三百羽」を乗組員の全部に贈るという項目である。
 多量の米は、直接的にはアメリカ側への食料の補給なのだが、米には祝いの意味も込められていて、アメリカは、すでに、日本の王室や将軍が贈り物を与えるときには若干のを添えるのが習慣だと知っていた。まさに日米交渉最終段階になり無事に条約成立の日も近いというので、米を贈呈して、これを祝ったのではないか。幕府は米という人間として共に食べられる食品(日本の伝統文化を代表する品物)を贈呈したといえる。
 さて、米二百俵(但し、一俵に五斗入り)は、どのように運搬されたか。
 アメリカ側は、力士ら約七十五人が俵を運ぶのを凝視し、力士を裸の巨人、肥大な雄牛、巨大な怪物とみて不思議に思ったが、殿様らが抱えるプロレスラーと聞いて納得した。そして、米俵一俵の重さは約五六キログラムなのに、羽毛のように軽々と運ぶのには驚いた。なかには、一俵を肩に担ぎ、もう一俵を他から手伝ってもらって運んだ人もいた。ある関取は一俵を歯でぶらさげていたし、他の関取は腕に抱えたまま、トンボ返りをうった。これは、前座の余興ではないかと、アメリカ側は述べている(*一)。
 実は、南町奉行が力士のうち、二俵を左右の肩に担いで歩行できる人を選出して横浜村に派遣したのである。筋骨逞しいものばかりだったが、なかでも、当時、無敵の力士の小柳はペリ−の前に呼ばれ、その腕、その首に触れさせた。アメリカ人らは、思わず驚きの声を発したので、小柳は得意そうだったという。 この後、幕府は応接場の前に土俵や見物席をつくり、相撲の取り組みをアメリカ人にみせた。だが、彼らの感想では、相撲を理解できぬ者が多く、これはレスリングどもボクシングでもなく、喧嘩をしている犬のような声をだしたという者、凶暴な獣が野蛮で残忍な本能を発揮しているかのようだと思う者、牛をも気絶させるような勢いでぶっつかりあい格闘したとする者など、批判が多かった。
 相撲は、江戸時代には、大名の保護があり、大衆の人気が出てきた競技だが、アメリカ人の目には、巨大な肉塊の力技としか映じなかった。日本側が彼らを楽しませる余興だったのに、目算と相反した結果となってしまったのであった。

参考、引用の文献
*一、ペリー艦隊日本遠征記(北山雅史編)。
二、ペリ−提督日本遠征日記(木原悦子訳)。
三、大日本古文書(東京帝大編)。
四、NARRATIVE OF THE EXPEDITION OF AMERICAN SQADRON TO THE CHINA SEAS AND JAPAN。
五、ペリー提督日本遠征日記(木原悦子訳)。
六、亜墨理駕船渡来日記(中村名主の記録、及び北方村、横浜村名主からの聞き書き)
 付記、贈物目録原典の情報は希望者にのみ知らせるものとする。
 
 

神奈川県域のヒストリック・イベント(12)

 
第五章 日本初のモールス式電信機をアメリカが贈呈
               
 嘉永七年(新暦一八五四年)に来日したアメリカ艦隊は多量の贈物を持参した。つまり、機関車(客車、線路、炭水車こみ)、電線つき電信機、絵画、書籍、酒類、日常品等、当時のアメリカを浮き彫りさせる品々を献上または贈呈した。日本の慣例を重んじ貢ぎ物として持参したのである。だから、当初、アメリカ政府は、多額の贈物諸経費の予算を計上した。だが、予算は削減され、仕方なく、民間の寄付によって補足したのだった。

将軍あての貢ぎ物
 一九五四年三月十三日、アメリカ艦隊輸送船のボート二十七隻が贈物を運び横浜の海岸に陸揚した。アボット大佐は海兵隊一個中隊と軍楽隊と共に上陸して、幕府の応接所に向かう。応接掛・林大学頭らに面会しペリ−の手紙と贈物リストを渡した。贈物の入った梱包は臨時に建てられた建物に収容され、翌日からは包装は解かれ引き渡しになる。
 本稿は、将軍(エンペラ−)、つまり、徳川家定に三十七点、将軍夫人に三点の品目を献上したことを考察する。資料として、ペリ−作成のリスト(*四、Aと略記)、掲載の日本側文書(Bと略記)を使う。資料Bは、筆者所有の文書「異人より献上
品目録」であり、「蒸気車 一揃 エレキトル・ガウーフ 一 バッテイラ 一」等が列挙されている。
 資料Aの筆頭には「2 TELEGRAPH INSTURUMENTS」がある。目録贈呈の際、この英語はオランダ語を経て日本語に訳されるのだが、日本側はオランダ語をエレキトル・カウ−フ、またはエレキトル・テレカウ−フと聞き取る。日本語訳は「電信機」「雷電伝信機」としたが、正しくは電信機の装置二組である。
 梱包の紐が解かれ、電信機二組、電池四個、三マイルの電線(WIRES)、グッタ・ペルカ(GUTTA PERCHA)電線、及び絶縁用碍子類INSULATORS)が取り出される。電線(和訳「連銅線」)は、四、八┥、六つに分別されてあった。そして、これらは電気にて、いろいろなことを告げてくれる器械ですと説明されたのである。
 数日後、技師のドレイバアとウイリャムズが幕府の役人らに電線一.六┥を柱に架けたいと申し出ると、日本側は電線を張るための柱を建て始めるなど喜んで作業した。電線の一端は応接所に、他の端は通信実演のため新設された建物鍖絳綵Т格枦靴龍内近く、中山吉左衛門宅付近鍖絳絳颪坊襪个譴拭2誉工事は、ペリ−にいわせると、アメリカ国内でも、これほど完璧なものはないものだった。*五
 三月二十二日、有線通信の実験が行われる。一瞬のうちに、メッセ−ジが英語、オランダ語、日本語と別別に伝導されると、日本人は大変、驚いたが、すぐ、好奇心を抱き電信機操作の方法を考察した。それからは連日、幕府役人、その他の人が見物に訪れ、技師に電信機を動かしてくれるようにと懇願し発信、受信を飽きることなく見守っていた。*一
 この有り様を見たアメリカ人は、日本人が、最初、面食らったのは電気に知識がないから当然なのだが、機会があれば仕掛けを究明しようとの態度には驚いたという。*二
                   

電信機の変遷と理解度
 献上された電信機は正式名を「エンボッシング・モ−ルス電信機」という。淵源を探ると、一八三七年、アメリカ人モ−ルスが発明し、一八四四年、ニューヨ−ク、ボルチモアの間に実用電信機として使用された。しかし、ワシントン、アナポリス間など、一部の大都市でのみ実用化したのみで大衆に普及していなかった。ニューヨ−クとサンランシスコの間で電信線が開通したのは、一八六二年だった。
 当時の日本では、電信機の存在を知る者は佐久間象山ら一部の先覚者を除き殆ど無かった。佐久間は、ペリ−来航以前に欧米諸国が「テレガラフ」を発明したのを洋書を読んで知っており、欧米人は造物の神以上の能力を使って利器を作ったと評価した。そして、一八四九年(嘉永二年)、ショメ−ル百科全書などからヒントを得て、日本で最初の電信機を作る。そして、松代藩の御使者屋と鐘楼の間、約五十メ−トルに
電線を架設して通信の実験をしたのである。その際、ダニエル電池を取り寄せて使ったという。ペリ−来航の数年後にも、彼は電信機の機能につき次のように解説し世人を啓蒙した。「エレキトル テレガラフ」は、往々、通信に「いっとき」かかるといわれるが、これは間違いで「一瞬」で通信ができるというべきだ。そもそも、電気というものは、光の速度とおなじで、脈一つ打つ間に一万里以上も走るものだと説明している。*九
 では、大衆は電信機を、どのように見たか。当時の瓦版、幕府や諸藩の関係者の記録を通じて、驚異の眼差しを向けたり、なかには誇張して言いふらす者もいたようだ。
 横浜村の一役人の記録によれば、この年、三月一七日、通信の器械を組み立てる役目の異人が上陸した。そして、地車のようなものを二組を設けて「テレグラフ」を仕掛けた。州干から臨時の家屋まで約六町半の距離に針金を引っ張り、相互に連絡した。十日後にも、応接掛、お供の者が「テレグラフ」の仕掛けを見学に来ていた。*一一
 次は横浜村のうわさである。「駒形の田辺嘉平次」の奥座敷から「弁天社の側」の中山吉左衛門の座敷へ針金をひっぱって、こちらから向こうへ何か言ってやると、向こうから其の返事をよこす。これがテレガラフというものだ評判になったので、以後は見物人が押し寄せるようになった。ある人は手紙が針金を伝わっていくのだろうと思い、試してみたが、一日たっても届かなかったという。*一〇
 さて、この献上物はどこへ移されたのであろうか。
 この年、四月八日ころから約二十日かけて、吹上奉行の役人が横浜から竹橋御蔵地へ運び、江川太郎左衛門が管理した。この間、将軍・家定が見物し、以後、関係の役人が情報を関係者に流した。幕府が倒壊したのち、東京帝国大学が保管し、現在、逓信総合博物館に所蔵されている。
 
幕府の将軍(エンペラ−)への、その他の献上品
 ペリ−のリスト(資料A)に「 FRANCIS'S LIFE-BOATS 」がある。これに該当する和訳は資料Bでは「銅製之端船 弐艘 但 書籍添」、または「バツテイラ 二艘」となっているが、この表現は真実に近い。というのは、アメリカ側も詳しく、フランシス製で銅張りの救命艇を一艘、及び、銅製の寄せ波船(サ−フボ−ト)一艘を贈呈したと述べているからだ。後者は、従軍画家のハイネによれば、訪日の際、座礁した味方の軍艦を動かすのに使われ有名になったのだが、このボ−トが臼砲で座礁船の甲板に綱付きの砲弾を射撃して結合し、双方で引っ張り岩礁から離す役割を演じたという。*七 
 資料Aは、一つの武器箱に「5 HALL'S RIFLES、 3 MAYNARD'S MUSKET、12 CAVALRY SWORDS 、6  ARTILLERY、1 CARBIN 、20 ARMY PISTOL」が内包されていたというが、実体は、ホ−ル社製のライフル銃、メイナ−ド社製のマスケット銃、騎兵用及び砲兵用の軍刀、騎兵銃、陸軍用のピストルなどである。そして、それぞれ、日本語の簡単な訳に「鳥銃五管、鉄砲三、馬上刀十二振、六挺仕掛短筒一組、短筒二 十挺」とあるが、前掲の資料(B)に鉄砲三挺、馬上刀十六振などを見ることができる。ハイネは、ホ−ル社製のライフル銃は二十四連発で美しいものだとか、六連発のピストルは有名なコルトだとか説明した。
 資料Aには「NATURAL HISTORY OF THE STATE OF NEWYORK 」(ニュ−ヨ−ク州博物史 十六冊)があるが、これは、資料Bでの「書籍十六冊」であろう。「AUDUBONS BIRDS OF AMERICA 」(アメリカ鳥類図 九冊)はBの「鳥類」にあたる。本書は当時のアメリカにおいては自然科学の分野での有名な研究書と評価されていた。
 以下同様に、掲載文書の目録とペリ−のリストを対比しつつ考察してみよう。
 「COAST CHARTS」は海浜図であり、「MACHINE WEIGHTS 」一箱は天秤分銅量具一式にあたり、詳細な説明では、天秤、分銅、枡、物差しで一式となる。さらに、羅紗、天鵞絨(つまり、緋色のビロード)と続き、台付望遠鏡がリストでは「TELESCOPE 」(脚つき望遠鏡)、「茶」は「TEA 」で紅茶だろう。「食用品」は「IRISHU POTATOE」(アイルランド産じゃがいも)と推定される。ほかに火鉢(「鉄板スト−ブ」)、道中用の袋(「郵便用の袋」)がある。
 なお、前掲資料Bの「亜美利加産酒、同銘酒」は、資料Aでは WHISKY,WINE、CHERRY CORDIAL,CHANPAIGNE であるが、これらは老中、応接掛などにも贈られた。これについては、以前に既に発表した(「神奈川風土記二七四号」を参照されたい)。
 なお、御台所(将軍夫人)へは、鏡台つまり、金メッキの化粧用鏡(和訳で「猫金玻璃粧飾箱」)とか、匂水(香水)の六ダ−ス、及び、花模様の絹刺しゅう付きドレス一着が贈られた。また、A資料には林大学頭に十四点、阿部正弘に十二点の品物が列挙されているように、幕府の高官十人に相応なものを贈ったが、資料によって、品名は必ずしも同じでない。
 香水、農夫用の器具(農具)、野菜類の種も、将軍を含む各高官に贈られた。これらのなかで、武器、器械類、生地、書籍等は日本に贈られるもののうち最高に価値がある品物だと、ハイネは評価した。
 ペリ−は、何故に幕府に大量で多種多様の貢ぎ物を献上、贈与したのか。彼は、訪日前に、欧州で出された日本研究書六冊を読み、外交上の慣例に貢ぎ物の献上の例があるのを知っていた。たとえば、すでに一五〇〇年代からポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス等の欧州諸国が来日し貿易開始を求めたが、その際、大量の貢ぎ物を持参した。例えば、オランダからの献上品を一六三九年の参府日記でみると、武器、織物、酒類、工芸品など多種の品目がある。前例をみて、アメリカ政府は、当時の重要な外交案件、つまり、日米国交を開始するために、慎重な配慮をしたといえるのではないか。
                                    
 参考文献
*一から六までは、前回の「ヒストリックイベント(十一)」と同じにつき省略、今回追加の文献のみ掲載する。
七、W・ハイネ・世界周航日本への旅(中井晶夫訳)
八、モリソン・ペリ−提督の日本開国(座本、両角訳)。
九、象山全集(信濃教育会編)。
一〇、横浜開港側面史(横浜貿易新報社編)。
一一、金駅日記(神奈川県図書館協会編「未刊横浜開港史料」)。  
付記。本稿の作成にあたり、横浜黒船研究会員・橋本進、森義孝の両氏の助言を得た。

 
 
 

 

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