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資料 |
(資料)
平成22年9月12日定例研究発表会 資料
<ペリー提督の新聞寄稿文>
発表者(今津浩一)は、かねてより黒船艦隊の日本来航について、ペリー提督の日本遠征の意図と交渉経緯を研究調査してきた。いままで、日本の研究者は主として幕府側の資料を中心に研究しているようであるが、発表者はアメリカ側の資料についても、できるかぎり、もとになる資料(第1次史料)を掘り出して調査することにしている。このたび、ペリー提督が新聞に寄稿した文章を見出したので、これを紹介した。
発表者の知る限りでは、ペリー提督のこの寄稿文は日本では知られておらず、ペリー提督の日本遠征の意図・目的を解明する一つの史料として活用できるものと思う。
1.ペリー提督の寄稿文入手のいきさつ
ペリー提督は日本遠征艦隊から海軍省あてに、連続番号をつけて報告書を書いている。ところが、先年発表者の著書にて詳しくご報告したとおり、5通が欠番*となっている。この5通は、日本との条約交渉の山場の報告書群の次に位置するものであり、もし、発見されれば、今まで知られていない極めて重要な内容を含む報告書である可能性が高い。発表者は懸命にこの報告書または、その断片なりとも見出したいと血眼で史料を渉猟するとともに、この欠番報告書を所蔵していないか、アメリカ公文書館、アメリカ議会図書館はもちろん、ハーバード大学、イェール大学、などに問い合わせのメールを出した。(*拙著「ペリー提督の機密報告書」pp.118-119 2007 ハイデンス)
その結果、残念ながら、この5通は発見できなかったが、イェール大学の「バイネッケ稀覯本(rare book)・手書文書(manuscript)図書館」にペリー提督の手書き書簡が所蔵されていることを知った。ただちにお願いして、その書簡のコピーを入手したのである。その内の1通に「1856年5月2日と3日付け新聞に載った私の投稿記事切り抜きを同封する」とあったのである。その新聞紙名が正確ではなかったので、苦労したが、マイクロフィルムをニューヨークの図書館から入手した。
2.新聞記事
1856年に発行されたその古い新聞は、8ページ立ての比較的簡素な新聞である。入手したマイクロフィルムを紙に引き伸ばして焼付け、内容を調査したところ、5月2日の第3ページの第3コラムに“Naval Protection for Commerce”という記事を発見した。匿名であり、ペリー提督の名前は発見できない。しかし、この記事の一部分が公式報告書である「日本遠征記」の第2巻にも引用されているので、投稿者がペリー提督であることが分かる。
3.内容
ペリー提督の生きていたころは空軍が存在しない時代であり、軍事力は海軍と陸軍であった。陸軍は徒歩で海を渡ることができなにので、海外への軍事力の展開は、海軍(艦隊)と海軍所属の陸軍というべき海兵隊(または、大日本帝国海軍で言うところの陸戦隊)によっていた。この投稿文で、ペリー提督はアジアにおける艦隊をどのように配置するべきかを論じている。アジアの商業都市の立地について無知なアメリカ議会は巨大戦艦のみで海軍力を充実させようとしていた。これに反論して、ペリー提督は新たな提案をするのである。
河の上流や、湾の奥深くに主要な商業都市が位置するアジア諸国で、軍艦の戦力を発揮するためには、喫水の浅い小型戦艦を活用するべきだという。河口や、湾口によくある砂州や浅瀬で座礁しては困るからである。したがって、ペリー提督は、艦隊の最小単位としては、大型戦艦1隻と小型戦艦5隻の組み合わせが最適だと提案する。
この海軍力によって、列強諸国の「自由な」国際交流の希望を排除している中国の「鎖国」政策を放棄させなければならないと、ペリー提督は主張する。あわせて、ペリー提督はこの構成の艦隊によって、中国、日本、台湾、フィリピン、インドネシア、などに睨みをきかせて、アメリカの国益である交易を拡大し保護しようという。マデイラから海軍長官へあてたペリー提督の報告書に書かれているような、環太平洋の覇権を狙うというペリー提督の大構想が、ここにも窺われるのである。
4.あとがき
マイクロフィルムの紙焼きにあたっては、横浜マイクロシステムの長井勉社長のお世話になった。記して感謝します。
以上
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第47回定例研究会(平成19年9月9日) 発表者 今津浩一 「ペリー提督の機密報告書」 時は幕末、1853年8月3日。場所は、沖縄の南方海上。うだるような暑い日であった。フィルモア米大統領の書簡を幕府役人に手渡すことに成功したペリー提督は、帰航する蒸気戦艦上で、本国アメリカの海軍長官ドッビンあてに「機密報告書」を書き送った……。 この米国議会にも知らされることのなかった「機密報告書」には、果たして何が記されていたのか。そこには、英仏露諸国が熱望しても果たし得なかった鎖国日本との開国交渉および条約締結に向けて、大胆かつ用意周到に準備されたペリー提督の戦略ポリシーが書かれていたのである。“機密”ゆえに、その中にはペリー提督の本音が綴られていたのだ。 長年にわたり長崎出島に商館を置き、日本との独占的交易権を持つオランダに対して、米政府は協力依頼をしていた。オランダも米国に協力を約束していた。しかし、ペリー提督は、この機密報告書の中で、全く正反対の方策を提案していたのである。 著者は、遠征艦隊報告(米公文書館のマイクロフィルム)などを独自に調査。なぜかこれまで取り上げられることのほとんどなかったペリー提督の「機密報告書」の原文に迫り、その中味を吟味していく。その上で、日米両国の外交関係にオランダがどのように介在していったのかという三国間の関係に光を当て、新しい切り口で分析している。 オランダは、幕府から恩恵として与えられた独占的貿易権の上にあぐらをかいていたわけではなかった。その権利を維持しつつ、日本を開国させ、恩恵としてではなく対等の国際条約を締結することを狙っていた。表向きアメリカへ日本の情報を提供し、仲介協力することを申し出ていながら、陰で国益重視の秘密工作をしていたのである。 ペリー提督の「機密報告書」とは? 日本幕府は、黒船艦隊で江戸湾に乗り込んできたペリー提督の開国要求に対して、どう対応したか? 加えて、ペリー提督の日本遠征の真の目的はなにか? アメリカ国民にその情報は開示されたのか? これらの疑問に対する明快な答えは、米国議会議事録の中にあった。著者は、議会の揺れ動く反応と、国家機密保護に関する熱い議論も報告する。 最後に、ペリー提督の来航によって始まった変化への胎動。史上初のドル為替レート交渉、ペリー提督から寄贈された当時最新鋭兵器の大砲など、丹念かつ詳細な考察が豊富な図表とともに展開される。開国交渉の謎に迫る本書は、読み物風に書かれ、最後まで興味深く読むことが出来る。 この書籍は、インターネット書店「アマゾン」で購入できます。または、ハイデンス社へ直接FAX(045-981-8609)でご注文ください。(価格:税込み2500円 送料無料)
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(横浜学連絡会議よりの抜粋)
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(横浜学公開講座 1 1991年12月)
(横浜学公開講座 2 1992年1月)
(横浜学公開講座 9 1993年1月、2月) (横浜学セミナー30 平成12年9月)
(横浜学セミナー31 平成12年9月、10月) (横浜学セミナー33 平成12年11月)
相鉄瓦版 より (第116号 平成15年4月) 夕暮迫れば、灯かりがともり、 ニュス・メディアの父、ジョセフ・ヒコ 草間俊郎 国産ビールは横浜から始まった 外国人経営の本格ホテルが続々オープン |
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(ホームページ管理者の視点)
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神奈川歴史博物館で行われた、黒船研究会で羽田壽夫氏のペリー来航時(1854年)の「横浜応接所秘図」を聞いた。日米
の人物に関する詳細なる検証は感銘深かった。 2月19日、参院本会議場でのブッシュ米大統領演説。
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土居良三著作 ・咸臨丸海を渡る―曽祖父・長尾幸作の日記より 咸臨丸海を渡る 幕末開国三部作 土居良三さんは横浜黒船研究会のメンバーで、文献に基づ
く堅実な評伝に定評がある。 国立民族博物館館長の宮路正人さんの前書き 「史伝を書くには、二つの能力が必要である。一つは、その 時代のにおいをかぐ能力である。あと一つは、史料から史実を史実としてきちんと読み解く能力である。幕末維新期という特別魅惑的な時代でのつまずきのきっ
かけは、ほとんどの場合、一つの手掛かりから、すぐに憶測をはたらかせようとするところにある。憶測に憶測を重ねて出てくるものは史実ではない。憶測に憶 測を重ねて出てくるものは妄想でしかない。 この機会に、誤った歴史認識を改めるべきだ。 幕府は開明的だった 水野忠徳 長崎奉行、オランダに軍艦を発注
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生麦事件参考館 |
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第3回横浜黒船研究会(平成14年7月7日) 土居良三並びに浦賀近世史研究会が「南浦書信の成立と書信」について報告された。 ペリーが来航した時に、浦賀に居た浦賀奉行戸田伊豆守氏栄が、同僚の江戸在勤の浦賀奉行井戸鉄太郎に、浦賀より送った私的書簡である。 歴史の裏に存在した資料を初めて、現代の我々に分かるように忠実に実行された。 |
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第5回横浜黒船研究会(平成14年9月22日) 日米接待合戦は砲艦外交とは異なる面を描く。ペリー艦隊のディナーなど草間俊郎さんの話は面白い。 「ヨコハマ食文化事始め」
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金子祥三の「蒸気船と蒸気機関(序論)」を、代わって説明 した。長崎で聞いたり話したりしていたことを、アドリブで話した。 1905年5月 日本海海戦 1853年6月ペリーの黒船来航 幕府には長崎建設に反対意見があった 1854年日米和親条約 下田開港 |
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世話人代表 羽田壽夫氏の自宅は横浜黒船館である。
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