戦国時代の望月氏

望月氏は平安の時代から続く信濃の名族、滋野三家(海野・祢津・望月)の一つである

戦国時代の望月氏に関しては文献が少なく、その歴史には未解明な部分が多いのですが、
望月町誌および「望月町郷土を学ぶ会」第3回例会における寺島先生の御講演を私がまとめてみました。
依田(芦田・蘆田)氏や武田氏、真田氏との関係にも注目!

まだ製作途中ですので、見にくいと思いますがお許しあれ。

年表 注釈

1543(天文12)
9・17 武田晴信(信玄)、長窪(長門町)へ着陣し、大井貞隆のたてこもる長窪城を攻める。
9・19 晴信、大井貞隆を生け捕りにする。
9・20 晴信、望月一族を生害する。

1544
10・5 前年武田氏により望月の地を追われた望月昌頼 が、高野山蓮華定院へ書状を出し、本拠への帰住の願望を述べるとともに、祈願を依頼する。
1546
5・14 晴信、佐久郡前山に着陣し、内山城を攻め、落城させる。
1548
9・26 反武田方に再び奪取され、望月源三郎がたてこもっていた布引山に武田の兵二人が忍び入り、討たれる。
9・27 晴信、前山城など佐久の諸城を再奪取して、諏訪の上原城への帰途、「望月御陣所」へ行く。

1549
3・9 依田信蕃の父、依田信守(芦田四郎左衛門)が春日の城を再興する。このとき依田氏は芦田から春日に本拠を移したものとみられる。

3・14 これ以前、武田に見方することにした望月源三郎に晴信が七百貫文の領地を与えるとの朱印状を出す。その使者を真田幸隆が務める。

4・3 春日城に反武田方の軍勢が拠る。武田軍、春日城を落とす。

5・29 望月源三郎の武田氏臣属後も布引山にあって武田勢に抗していた望月新六が武田氏に降って、布引山を出る。新六は武田家臣の駒井高白斎に同道されて翌日甲府に着き、 晴信に出仕する。

6・5 晴信、望月(左衛門佐)信雅 を望月氏宗家の名跡を継ぐ者として公認する。

1550
晴信、戸石合戦からの退却の途、「望月ノ古地御陣所」で泊まる。
1551
10・14 望月信雅、高野山蓮華定院へ 矢島・蓬田(ともに浅科村)のうち、六貫文の土地を寄進。
1552
1・18 望月信雅、家臣の村田新九郎に「雅」の字をあたえ、雅房と名乗らせる。
1553
4・9 武田軍に攻められ、村上義清の本城葛尾城、落城。

7・30 晴信、塩田城(村上義清の最後の拠点)へ攻撃に向かう途中、「望月古城御陣所」で泊まる。

8・5 塩田城落城。村上義清、本領を失う。

1558(永禄1)
3・7 望月信雅、布引山釈尊寺の堂宇を再建する。その棟札に、雅信配下とみられる楽厳寺・布下・直居・依田・諸沢の名があり。
1559
3・? 望月に御師の旅館とともに、神明宮が建立される。

11・13 上杉謙信の関東管領就任の祝いに太刀を送った信濃の武士の中に、武田氏配下であった「真田殿」「海野殿」と並んで「望月殿」も見える。

1560
5・1 信玄、倉賀野城(群馬県高崎市)を守る大熊尊秀に「真田・望月(信雅であろう)等が3日以内に到着する」 旨を伝える。

この年、武田信繁(信玄の弟)の子(信豊の弟で当時14歳)が、望月氏(信雅とみてよい)の婿養子となり、以後「望月太郎」と称し「望月殿」とよばれた。

1566
8・19 越後の軍勢が沼田へ動いたので、岩櫃城を守る武田諸将に「祢津と望月(信雅であろう)を長野原(群馬県吾妻郡)へ派遣する」旨を伝える。
1567
武田氏配下の多数の武将が、信玄に違背しない旨を誓った起請文を提出する。望月信雅は単独で、布下・諸沢・依田・篠沢・楽厳寺らは連名で提出。内容・筆跡とも同じなのはこの二通のみ。
1568
4・27 望月信雅、十二社(小諸市鴇久保)の社殿を建立。
1570(元亀1)
?・? 依田信蕃の長子康国、春日城で生まれる。

この頃、望月信雅は、家督をその養子「望月殿」(太郎改め左衛門尉信永)に譲り、自身は剃髪して「印月斎一峰」と名乗ったものとみられる。

1571  
この頃の武田氏家臣団を記した「信玄公御代惣人数之事」によると、「望月殿」 (左衛門尉信永)は「御親類衆」の一人で、60騎の将とされる。
1575 (天正3)
5・21 武田勝頼、信長・家康連合軍と長篠で戦い、大敗し、多くの諸将が討ち死にする。望月殿(左衛門尉信永)も戦死し、その菩提寺が望月の信永院と伝えられる。

6・19 依田信守、遠江二俣城に篭城中に病死し、信蕃が二俣城を守る。

11・19 武田勝頼、「望月殿」戦死後の望月氏の名跡継続および望月領の支配を指示する。「望月殿」に実子がないため、武田信豊の息女を相当の人に嫁し望月の名跡を継がせる旨を印月斎が勝頼に申し出て、勝頼は感激し承諾している。望月領は当面武田信豊が管理するように命じる。

12・24 依田信蕃、7ヶ月にわたる徳川軍の攻囲に耐えた後、勝頼の命を受け、遠江国二俣城を徳川に明渡し、高天神城を守る。

1576
2・19 小諸城将武田信豊、望月遠江入道(望月印月斎)の求めにより、位牌所分の寺領を甲斐洞雲寺(牧丘町)に寄進する。
1577
9月  八幡社社殿(浅科村)の修補が、武田信豊を「大旦那」、望月印月斎を「本旦那」として行われる。
1580
3・1 依田信蕃、芦田・春日などの自領の住民の高野山の宿坊を、蓮華定院と契約する。

3・11 武田信豊、望月領の人々の高野山参拝の際の宿坊を蓮華定院とするよう望月印月斎に契約状の発行を依頼する。

3・26 印月斎、宿坊契約状を出す。

1581
2・7 勝頼、望月の住人とみられる常田・清水・両山・須野原・大森・春日・大草・望月等の諸氏が、「伝馬勤仕衆」「御印判衆」として小県郡大門郷の公用荷物の輸送の任にあたるについての定め書を出す。
1582
3・14 依田信蕃、駿河国田中城を家康に明け渡して春日城に帰り、小諸城に入っていた信長の重臣森長可と対面するも、信長への出仕は取りやめ、家康のすすめに応じて遠江国二俣の奥に身を隠す。3・17 望月印月斎、家臣村田但馬守に大日向(北御牧村)の地を宛てる。

このころ、印月斎、望月氏当主の地位に復帰する。

6・20 織田信長が倒れたため、依田信蕃は家康の意向を受けて、佐久へ帰り、春日の奥の三沢小屋(芦田小屋)(小倉城跡か)へ立てこもり、北条勢を相手にゲリラ戦を展開する。

7・26 家康、依田信蕃に諏訪・佐久両郡を与え、戦功を励ます。

9・28 家康、依田信蕃・加津野信昌を通じて小県の真田昌幸を見方につけ、昌幸に現在知行地のほか上州箕輪領甲州二千貫および諏訪を宛てる。

この年、11月中に望月印月斎等、佐久の多くの武将が家康配下の依田信蕃に従い、佐久の大勢は決まる。

1589
6・16 望月印月斎、高野山蓮華定院に蓬田(浅科村)の寺屋敷を寄進する。これを最後に印月斎の消息は不明になる。

 

 

○大井貞隆は佐久の岩村田あたりを本拠としていた。

○望月城が落ちて望月一族が生害されたのか、長窪城に大井貞隆と立て篭もっていた望月一族の一部が生害されたのかは不明→資料1

望月昌頼は望月氏の嫡流の当主。

 

○当主は望月を追われたが、一族は抵抗していたようだ。

 


真田幸隆(昌幸の父、幸村の祖父)は、 このような交渉を得意としていた。
○望月新六=望月甚八郎(長篠の合戦で戦死)と考えられる。

望月源三郎望月信雅望月印月斎と考えられる。
(源三郎は、武田晴信の信の字をもらい、信雅に改名。その後、出家して印月斎)

古地・古城とあることから、この時点で既に城は壊されていたと思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

ここから望月氏の名跡は武田氏の系統が継ぐこととなる。(信雅の婿養子に信玄の弟の子を迎え、望月太郎とする。太郎=信永=望月殿

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○依田信蕃(のぶしげ)は家康の家臣となり、その後藤岡に移るが、とりつぶしになり、その後不明。
印月斎も信蕃に従い藤岡に移ったのかもしれない。


参考文献・引用:望月町誌
(この年表については、望月町誌から資料の出自や細かい部分を削ったりして抜粋したものを元にしています。
ですから、ご覧になった方は、転載しないようお願いします)
○注釈に関しては、講演による推論も含まれています。
年表だけではわかりにくいと思うので、そのうち時間のある時に改良していくつもりです。
戦国時代以前についても載せたいです。
 
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