望月氏のルーツ  (2002/1/5 更新)

望月氏は平安の時代から続く信濃の名族、滋野三家(海野・祢津・望月)の一つである

年表はこちら

あなたが「望月さん」である場合(この文章を読んでいる点で、その確率はかなり高いと思われますが)、自分のルーツはどこにあるのか?ということに関心が高いのではないでしょうか?

可能性として、考えられるものを列挙してみました。
あなたはどれだと思いますか?

 1、平安時代から続いた望月の牧の領主の嫡流(望月昌頼 )の子孫

 2、その傍系の望月氏(望月源三郎望月信雅望月印月斎)の子孫

 3、武田信玄の甥(望月太郎=望月信永=望月殿)の兄(武田信豊)の子孫

 4、1および3の傍系の望月氏(歴史に残っていない親戚衆)の子孫

 5、望月三郎兼家や望月出雲守の子孫(甲賀武士団にゆかり)

 6、歴史上の望月氏とは関係ないが、望月という苗字を名乗った人の子孫としての望月氏

さて、私が子供の頃に聞いた話では、望月城は落城の際に炎上し、その一族は落ち延び、
一部は軽井沢方面から碓氷峠を越えて群馬県方面へ、
また一部は南佐久方面(八ヶ岳方面)へ向かい、山梨、静岡に落ち延びたといいます。

はてさて、子供の頃の記憶なので、いまひとつ正確ではないですが・・・
しかも、誰に攻められた戦で城が落ちたのかが不明。信玄に攻められたときと考えるのが自然かな。だけど、家康の勢力が及ぶことになって、武田系の望月氏がこの地を追われたときと考えることもできるよね。
うーん、第一、落城の際に炎上したって記録もないみたいだけど。
山梨の「望月さん」は、3の武田の系統って考えるのが素直かなあ。
だけど、炎上した際の落ち延びた経路の場合は、1か4ということもありえるね。
あと、安曇野方面の望月さんは、武田方として川中島の合戦に参戦した際に諸方へ散った子孫とのこと。
望月昌頼は、望月の地を追われた後、しばらく小諸に留まって、高野山へ書状を書いたりしているんだけど、その後はどうしたんだろう?

興味の湧いた方は、望月町歴史民俗資料館や、望月氏の菩提寺・城光院などへ行ってみるとよろしいかと思います。
あなたのルーツを知るのに、何らかの手がかりが得られるかもしれません。
資料の今後の新たな発見を期待して、今回の更新といたします。

まずは平安末期から戦国までの物語
(望月町勢要覧2001より)

武士の勢力が台頭した平安末期・中世と、この地を領していたのは滋野三家の一つ、望月氏でした。

望月氏は優秀な御牧を有していたことから、地方の武士の中でも早くから頭角を現しました。
平安末期の保元の乱(1156)や木曽義仲の挙兵(1180)などに加わり、鎌倉時代には幕府の御家人として遇されました。
中でも、望月三郎重隆は、父の重義ともども弓馬の名人として知られ、源頼朝の側近となって勇名を馳せました。

重隆が造らせ信仰していたと推定される阿弥陀如来坐像(福王寺・国重要文化財)が望月氏の権勢をしのばせます。

関西地方の望月氏の物語
(望月町勢要覧2001より)

忍者の里、甲賀と望月町の結びつきは古く、奈良時代までさかのぼります。
当時、望月牧で育てられた名馬は、朝廷に献上する前に、滋賀県甲南町付近の近都牧で休養と調教が行われました。その折に駒とともに人々が往来し、さまざまに影響しあいました。

さらに平安時代には、望月三郎兼家が甲南町に移り住み、室町時代には望月出雲守が甲南町に望月城を築城するなど、望月氏が武士団へと発展しながら行き来しています。

現在も甲南町には望月氏が多く、相互に訪問しあって交流を深めています。
滋賀県甲賀郡甲南町のHP http://www.town.konan.shiga.jp/
中世の城郭が素晴らしい、同HP内、望月氏関連のページ
              http://www.town.konan.shiga.jp/main13.htm

戦国時代の物語(わかりやすくするため、年表を簡潔にまとめました)
本当は小説風に書きたかったのですが、時間がない・・・

登場人物

望月昌頼=望月氏の嫡流の当主。

望月源三郎=望月信雅=望月印月斎と考えられる。
(源三郎は、武田晴信の信の字をもらい、信雅に改名。その後、出家して印月斎)

望月太郎=望月信永=望月殿
信雅の婿養子に信玄の弟の子を迎え、望月太郎とする)

○武田信玄=いわずと知れた戦国大名。

○真田幸隆(昌幸の父、幸村の祖父で、信玄の重臣)は、滋野三家として望月家と縁続き。

○望月新六=望月甚八郎(長篠の合戦で戦死)と考えられる。


時は戦国時代。16世紀半ばである。

日本各地で戦国武将たちが睨み合い、力のある者は天下を目指し、無い者はその領地を守ろうと必死になっていた頃の話である。

信濃の国には東北部に村上氏、諏訪、松本地方にそれぞれ諏訪氏、小笠原氏などが力を持っていたが、一国をまとめるほどの有力な武将はおらず、小さな勢力がその領地を治めていたのである。北に越後の上杉謙信、東に甲斐の武田信玄、南に駿河の今川義元という大大名に囲まれていた。

1543(天文12) 年、力をつけた甲斐(山梨県)の武田信玄が、領土拡張を図って東信濃に侵攻、望月氏もその勢いに屈することとなる。

望月氏が攻められたことに関する資料は、信玄の側近の書いた「高白斉記」にほんのわずかしか載っていないため、詳しいことはわかっていない。→資料1

これにより、当主の望月昌頼は、望月から逃れることとなるが、一族である望月源三郎は、布引山に立て篭もって武田氏に抵抗を続けた。しかし、真田幸隆(幸村の祖父で、信玄の重臣)の説得により、武田から領地を与えられ、服従する。

望月源三郎は、いまだ布引山に立て篭もっていた望月新六らにも臣従をすすめたのであろう。望月新六も武田家臣となる。

武田信玄(晴信)は、功績のあった望月源三郎に一字を与え、望月信雅と名乗らせ、望月家の名跡を継ぐ者として公認した。
ここに、望月家の当主は傍系の望月氏が継ぐこととなる。

信玄は、村上氏、諏訪氏などを討つ。

1560年、武田信繁(信玄の弟)の子(信豊の弟で当時14歳)が、望月氏(信雅とみてよい)の婿養子となり、以後「望月太郎」と称し「望月殿」とよばれた。

1570年頃、望月信雅は、家督をその養子「望月殿」(太郎改め左衛門尉信永)に譲り、自身は剃髪して「印月斎一峰」と名乗ったものとみられる。
ここから望月氏の名跡は武田氏の系統が継ぐこととなる。(信雅の婿養子に信玄の弟の子を迎え、望月太郎とする。太郎=信永=望月殿

戦国時代には、しばしば屈服させた家に自分の血族を送りその家を継がせることが行われた。
取り潰しをせずに、このようなことを行ったのは、土地の人々の反感を抑えることも目的としていた。望月氏の場合も、古代からの由緒ある家系のため、そのような配慮が行われたのであろう。
望月信雅に嫡子があったのか否かは不明だが、嫡子があったとしても、武田一族の「望月殿」が家督を継ぐことになったであろう。 まるでカッコウみたいだね。
(毛利元就が吉川家や小早川家に自分の子を養子として送り、家督を継がせたのも同様の例)

この頃の武田氏家臣団を記した「信玄公御代惣人数之事」によると、「望月殿」 (左衛門尉信永は「御親類衆」の一人で、60騎の将とされる。 信玄にとって、「望月殿」は実の甥であるので、重く登用されていたと思われる。

1575 (天正3) 年 5月21日、 信玄の子、武田勝頼は、信長・家康連合軍と長篠で戦い、大敗し、多くの諸将が討ち死にする。望月殿(左衛門尉信永)も戦死してしまう。

さて、当主が討ち死した望月家の家督だが、「望月殿」に実子がないため、武田信豊(望月殿の実兄)の息女を相当の人に嫁し望月の名跡を継がせる旨を印月斎が勝頼に申し出て、勝頼は感激し承諾している。

これにより、望月領は当面武田信豊が管理することになるが、長篠の戦い以降、徳川氏の勢いが及びはじめて武田氏の力が弱まるにつれ、1582年頃、印月斎が望月氏当主の地位に復帰している。

そして、望月印月斎等、佐久の多くの武将が家康配下の依田信蕃に従い、佐久の大勢は決することになる。

望月印月斎は、この数年後の資料に登場するが、その後の消息は不明である。


資料1(高白斉記)

九月九日辛亥申刻光台為御退治千塚迄御出陣、十日若神子ニ御着、十二日海ノ口、十五日宮ノ上、十六日前山、十七日己未御着陣、申刻長窪ノ城被為攻、十九日辛酉光台生捕、廿日望月一族被為生害、同廿日光台為警固、曽根・高白両人青柳ニ泊ル、廿一日府中ヘ着、十月大朔日壬申御帰府、二日節、常ノ間ヘ御移リ、・・・以下略。


これを記した高白斉は信玄の家臣であり、メモ書き程度の日記のような簡潔なものである。
この文の主語は主なところで信玄である。いちいち「御」がついている。
つまり、九月九日に信玄が大井貞隆を退治するために出陣し、戦をして、十月大朔日に甲府に帰るまでの出来事を記したものである。
この間に、戦いで捕らえた光台(大井貞隆)を曽根と高白斉が甲府へ護送したことがわかる。

問題は、 「望月一族被為生害」の一文であるが、これはどういう意味であろうか。

まず、「生害」の場所はどこであろうか?
この文のみからだと、望月城を攻めたという記述がないことから、長窪城に大井貞隆と立て篭もっていた望月一族の一部が生害されたと解釈することができる。とすると、
望月城はこの時とは別の戦(又は交渉)において落城した(又は明け渡された)と考えられる。
他方、 望月城を攻めたという記述は省略されただけであって、十九日に大井貞隆を捕らえた後、二十日に望月城を攻めて、望月一族を生害したと解釈することもできる。

次に、「生害」とはどういう意味であろうか?
一般的に考えると、攻めて殺害したとかんがえられるが、
他方、
「生害」には「自害」の意味もあることを考えれば、信玄が望月一族を自害させたという意味にもとることができる。

 



○この文章には、講演による推論も含まれています。
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