〜死からの開放〜

 「こう言うわけで、今は、キリスト・イエスにある者が

罪に定められることは決してありません。」
 
                ローマ8:1


[罪と死]


   人類の最初の人、アダムとエバは神様とともにエデンの園で安心して過ごしていました。神様は言いました。

「あなたは園のどの木からでも思いのままに食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。

それを取って食べるそのとき、あなたは必ず死ぬ。」アダムとエバは善悪の知識以外の木からは自由に

食べることができました。ですから何不自由なかったのです。 でもだめだと言うことに人間は目がいきます。

 その隙を悪魔は巧みにつきました。神様が食べてはならないと言う木から食べてしまいました。アダムとエバは

食べたトタンに苦しんで死んだとは書いてありません。 その後彼らには子供が産まれ、長い間生きていました。

 でも実を食べたときから彼らは神様との関係が切れたのです。一番大切な霊が死んだのです。

神様はアダムとエバが実を食べた後、いつもの通り彼らの所に来られました。アダムとエバは神様の言いつけを

守らなかった故に木の間に身を隠しました。そのとき神様は呼びかけて言いました。「あなたはどこにいるのか」と。

 私たちは生まれながらに神様とのつながりを持っていません。アダムとエバの罪は私たちにまで及んでいるからです。

ですから神様は今私たちに対しても同じように「あなたはどこにいるのか」と呼びかけています。

 神様は私たちの霊の命、神様と正しい関係を持つことで生きることになる霊の命を与えるために

呼びかけ続けています。その呼びかけに応答し、あるがままの自分で神様の前にでるとき、罪を赦され、

命が与えられます。 それまでは私たちは死んだ状態にあるのです。


[いのち]

   でも自分は現に生きているし、ちゃんと生活しているのにどうして死んでいると言われるのかわからないと

言うかも知れません。確かに肉体は生きています。 でも神様と正しい関係にないときは生きていないのです。

魚はどんなに小さくても生きている魚は流れに逆らって上っていきます。でも死んだ魚はどんなに大きくて強そうであっても

流れに流されていきます。私たちの人生も同じです。 霊が死んだ状態で世の流れに逆らうことはできません。

 第二次世界大戦の時の話です。日本軍が韓国の教会に侵入しました。そこにいた信者に銃を向け、

教会にあった十字架を由香においていったそうです。 「命が欲しければこの十字架を踏みにじれ」中に脅かされ、

長老から始め、そこにいたクリスチャンは次々に十字架を踏んだそうです。 そのとき一人の少女が飛び出しました。

彼女は人々の土足で泥だらけになった十字架を抱きすくめ、泥を払い、泣き始めました。

日本兵はさすがにこの少女を撃つことができませんでした。

彼女は生きた信仰を持っていました。命は必ず輝きます。


[イエスのいのち]

   イエス様は私たちに命を与えてくださいました。 十字架に掛かられる前に弟子たちに言いました。

「わたしは真実を言います。わたしが去っていくことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って

いかなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに

遣わします。」この助け主が聖霊です。聖霊は私たちとともにいてくださり、私たちがよい行いをすることができるように

助けてくださいます。 私たちの中にイエス様が住んでくださっているのと同じです。

ですから私たちはもう罪に定められることはありません。 悪魔は時々私たちの罪を責めます。確かに私たちは

失敗したり、弱かったりします。 でもイエス様が私たちのうちにおられるかぎり、大丈夫です。


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