9月1日

〜神との平和〜


ですから信仰によって義と認められた私たちは、私たちの

主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

           
 ローマ5:1

 私たちはだれでも平和を求め、また日々の生活では心の安定、すなわち平安を求めています。

でも実際には様々な不安が満ちあふれていて、なかなか心の安定を求めることが難しい時代です。

どうしたら平安な日々を持つことができるでしょうか。

〔人間の状態〕

 私たちがある人に悪いことをしているのに、その人と平気でつきあうことは困難です。

その人に悪いことを告白して、赦してもらうことが先決です。

神様との関係も同じです。神さまは私たちに「私の平安に入りなさい」と呼びかけておられます。

でもその前に神様と私たちを妨げている罪を清算することが必要です。

私たちは神様の前にいつ罪を犯したでしょうか。

聖書には「すべての人は、罪を犯した」(ローマ3:23)とあります。

さらに「人の心は何よりも陰険で、それは治らない」(エレミヤ書17:9)と言っています。

どうして聖書はそんなにも人を罪人というのでしょうか。私たちの心は一日の内にも何回も変わります。

何か言われたことで瞬時に変わることさえあります。

もし私たちの心をいつも映し出す機械が発明されて全ての人の頭に

その機械を乗せなければならないと言うことになったらどうでしょうか。

嫌いな人が向こうからやってきたとき、顔では笑っていてもその機械は「嫌い」と表示します。

商談は絶対に成立しません。どんなにすましている人でも許し難い人と出会ったら

「あんたなんか死んじまえ」と機械に出ます。

私たちの心の思いが全て映し出されたらとても外には出られません。

また聖書では「兄弟に向かって腹を立てる者は、

だれでも裁きを受けなければなりません。」(マタイ5:23)と書いてあります。

さらに「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに姦淫を犯したのです。」とあります。

私たちの心は「何よりも陰険だ」と言うことがわかります。

そんな私たちが「義」と認められる方法があるのです。

そして、「義」と認められることによってのみ神との平和にはいることができます。

[主イエス・キリストによって〕

「何よりも陰険な」人間を神との平和に導くためにイエス様は世に来られました。

ですから私たちがどんな者であるかと言うことは先刻承知なのです。私たちはいい子ぶったり、

自分は正しいと主張する必要はありません。どんなに惨めな者であっても

イエス様が私の罪のために死んでくださったと言うことを信じるだけで救われ、「

義」(最初から無罪)と認めてくださいます。私たちの方から何か努力する必要はありません。

イエス様がご自分の十字架の死を持って、全てのことをしてくださったからです。私たちのすべきことは、

救いの道を備えてくださったイエス様を信じることだけです。今まで背を向けていた神様の方に振り向き、

呼びかけに答えたその時から私たちは神様との平和に入ります。

〔神との平和とは〕

 私たちが神様との平和に入ったときから、私たちは神の家族の一員になります。(エペソ2:19)

その時から「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3:20)すなわち神の国の住人となるのです。

ですから私たちには世にある法則より、神の国の法則が適用されます。

いろいろな心配があってもそれが私たちを押しつぶすことはできません。実際に不安な状態は起こります。

でも不安になることはないのです。神様がこう約束してくださっているからです。

「だから神の国とその義とを先ず第一に求めなさい。

そうすれば、それに加えて、これらのもの(衣食住など必要なもの)はすべて与えられるからです。

だから明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。

労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:33,34)

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