補講3 上善は水のごとし

 身体的鍛錬については、それぞれご自分の趣向にあわせて、座禅道場に行ったり、ヨガや気功の教室に行って、あまり身体と心に負担がかからないように、よい指導者のもとで励まれるとよいでしょう。そういうことはやらないよりは、やったほうがいいかと思います。ただ、それはあくまで鍛錬であって、タオイズムの実践ということとは少し違います。
 生活の中で、老荘思想を体現するには、やはりある種の人生観といいますか、個々人の生き方の問題に関わってくるだろうと思います。そういうことで、老子を見習ってその人なりの範疇で三宝を守っていくことなどが大切になるわけです。
 もう少し違う角度から老子は「善」ということについて述べています。よいことをするのはいい事(あたり前)ですが、実はこの善というのも相対的なものですから、「これが正しい」とこだわると、また問題が出てきます。よく間違えるのが、独善・偽善・小善というものでしょう。独善というのは、簡単にいえば一人よがりですね。周りはそれを有り難くは思ってないのに、小さな親切よけいなお世話をする人がいますが、悪意はないのだけど少し迷惑です。また、これが少し大きな規模で集団とか組織ぐるみで行なわれると場合によっては非常に危険です。
 よく思うのが、オウム真理教の信者の人たちのことです、あの人たちは元々悟りを目指した修行僧だったわけです。個人的にはおそらく善人の部類に入る人が多かったのではないでしょうか。それがどうして、あんな恐ろしい事件を起こしてしまったのかというと、その底には「善意」があったわけです。これは認めがたいところかも知れませんが、「地球を救おう」「人類を救おう」という志があった。だからこそ、サリンを巻くなんていう尋常ではないことが出来たわけです。麻原彰光が何を考えていたかは知りませんが、一人ひとりの実行犯の心の中には「善意」があったことは確かです。
 あるいは爆弾による武力闘争なんかもそうですね。最近は思想的な裏付けがない愉快犯と思われる犯行があって、それは「悪意」ですが、ある種の理想社会の実現を求めた闘争がかつてはあったわけで、それもやはり「善意」からなるものです。あるいは、それが国家レベルで行なわれれば戦争ということになるでしょう。そういうことで、この「善」ということについては、本当によく考えなければならないと思います。

上善(じょうぜん)は水の若(ごと)し。水は善(よ)く万物を利して而(しか)も争わず。衆人の悪(にく)む所に処(お)る。故に道に幾(ちか)し。
居(きょ)には地を善しとし、心には淵(えん)なるを善しとし、与(まじわり)には仁を善しとし、言には信を善しとし、正には治を善しとし、事には能を善しとし、動には時を善しとす。
夫(そ)れ唯だ争わず、故に尤(とが)め無し。
(老子・8章)

 老子は最もよい善をたとえて、水のようなものだと言っています。水は、万物の成長を助けて、しかも他と争ったりたりせず、みんなの嫌がる低い場所にいます。だから、道にちかい、ということです。道そのものではないけれど、その性質は道の働きをよく現すものだということでしょう。水のあり様をよく鑑み、そのような生き方をすれば道に沿ったものになるということだと思います。
 では、具体的に水のどういうところを見習えばいいかということで、幾つか例を挙げています。「居には地を善しとし」というのは、高いところに住むなという意味ではなくて、高い地位を望まないというこだと思います。三宝に照らしていえば「敢えて天下の先と為らず」ということに対応していることになるでしょう。「心には淵(えん)なるを善しとし」というのは、水を湛えた淵のように深く静かな心の様を保つということです。欲望のさざなみを立てない状態といえます。「与(まじわり)には仁を善しとし」というのは、要するに社会との関わりにおいては、仁を大切にする。仁というのは儒教の徳目とされていますが、老子は別に仁そのものを否定しているわけではないわけです。これについては第十三講を参照してください。
「言には信を善しとし」というのは、言葉には信用が大事ということで、まあ、嘘をつかないということがその一歩でしょう。結果的に嘘をついたことになるというのも信用を損ねます。「正には治を善しとし」というのは、物事を善悪で判断するよりも治めることが大事だということです。「事には能を善しとし」、事柄にあたっては能力を使ってそれを処理すること。出し惜しみをしたり、いい加減な対応をしてはいけません。そして、「動には時を善しとす」ということで、動くときはタイミングが大事ということですね。時を得た活動をすることが大事です。
 そして他と争わないこと。周囲を潤しながら低きに流れていけば、トラブルが生じることもないわけです。このあたりは私たちの日常生活のうえでもよく役立てることができるのではないでしょうか。
 しかし、これは単に「長いものには巻かれろ」という処世術ではありません。
 なぜ、そうした態度が大事なのかちょっと別の角度から考えてみたいと思います。老子も荘子も<道>ということを説いているわけですが、その元には、私たちが住む現実社会=相対的世界の混乱に対する鋭い洞察があります。本講義でも、道を求めることよりもむしろ、相対的な世界を認識することに重点を置いて解説をしてきました。
 ちょっと復習をしてみたいと思います。
 第九講〜第十一講では次のようなことを説明しました。私たちが住む世界は、常に<主>と<客>がワンセットであって、それによって認識が起きます。つまり、私たちは世界からの照らし返しによって自分を認識するということです。世界は自分を映す鏡であると言ってもいいでしょう。
 世界というのは見たり聞いたり感じたりするものすべてです。新聞やテレビで外国のニュースを知ることだけではありません。海の向こうの戦争に反対するのも大事なことかも知れませんが、たとえば、家族、学校や職場での人間関係、ご近所との付き合いなど、身の回りのことすべてが、あなたにとっての世界であって、その照り返しによって自分を認識しているというとです。そして、もしそこに混乱が起きていたとしたら、あなたが世界を混乱させているということになります。
 おわかりいただけるでしょうか。
 なぜ混乱が起こるかというと、認識には必ず価値判断が含まれるからです。たとえば向こうから男性が歩いてくるとします。それを見てあなたは「カッコイイ男」だと思う。それは一つの価値判断です。友達は「ダサイ男」と思う。それも一つの価値判断でしょう。この価値判断の違いから場合によっては友達とイサカイを起こすことになります。それが世界の混乱です。世界を混乱させた原因は直接的には向こうから歩いてきた男性ということになります。しかし、その男性は単に道を歩いていただけであなたに目配せをしたわけでもありません。ことによると、あなたや友達の存在など目に入らなかったかも知れないのです。この男性に罪はありません。単に鏡としてあなたの心を映し出しただけなのです。その男性を見たことによって、あなたの中に「私はこういう男が好みなんだ」という価値観が呼び覚まされたということです。
 さて、その男性は黙ってあなた方の側を通り過ぎただけですが、友達は違います。「あの男ダサイ」と自分の価値観を表明するわけですが、こんどはそれがあなたにとっての鏡となります。自分の価値観が否定されたような気持ちになってしまうわけです。でも、それは友達も同じことで、自分がダサイと思った男のことをあなたが「カッコイイ」と言ったことで、自分の価値観が否定されたような気持ちになって反発しているのかも知れません。お互いがお互いを映し出しているわけです。
 しかし、その価値判断というのは絶対的なものでしょうか。いうまでもなく、美醜の価値などというのは相対的なもので、時代によっても変ります。あなたは雑誌を読んだりテレビを見たり、友達と話したりする中で、いろいろな情報を取り入れることで、その時々の自分の価値観を作っているわけです。過去に拘束され周囲に感化されたものであって、実際のところそれが本当に自分の意見かどうかもわかりません。
 そこに気がつけば、あんまり自分の考えに固執することもないでしょう。別に自分を否定することはないのですが、自分の考えといっても相対的なものであることを理解すれば、強く主張して周囲と争うこともないわけです。水のように周囲を潤しながら低いほうに流れていくという生き方を理解できるのではないでしょうか。

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