第十二講 無為自然

 結局のところ相対的な価値観に基づいて争っていても、どちらが「正しい」ということは決められないわけです。あるいは多くの人が「正しい」と言っても、本当にそれが正しいかどうかわかりません。そもそも絶対的な正しさというものはなく、社会的な価値観というのは変っていくのですから。そういうことで再び老子の言葉に立ち返ってみたいと思います。

天下みな美の美たるを知るも、斯れ悪のみ。みな善の善を知るも、斯れ不善のみ。
故(まこと)に有と無と相い生じ、難と易と相成り、長と短と相い形(あら)われ、高と下と相い傾き、音と声と相和し、前と後と相い随う。
是を以って聖人は、無為の事に処り、不言の教えを行なう。
万物焉(ここ)に作(おこ)るも、而も辞(ことば)せず、為すも而も恃まず。功成る而も居らず。夫れ唯だ居らず、是を以って去らず。
(老子・2章)

 老子がこの相対的な世界の混乱を治めるために提示しているのが聖人です。老子のいう聖人というのは宗教的な聖職者ではなく、「理想的な政治を行なう主体」というような意味合いです。『老子』の中の多くの章は、この聖人の行いについて述べられているのですが、その基本的態度を述べているのが2章のこの部分です。
 しかし、「無為の事に処り」とはどういうことでしょうか。この無為というのが事柄に対処する老子の基本的な態度で、言葉通りに受け止めれば、「何もしない」ということになります。何かをしようとすれば、必ずその前に価値判断をしなければなりません。あれこれ考えていたのでは、相対的な世界の認識の混乱から抜け出せないわけです。「無為の事に処り」とは、簡単にいえば相対的対立を超えた立場に身を置くということになります。そして「不言の教えを行なう」。なぜ「不言」であるかと言えば、言葉というのは結局相対的世界のものですから絶対的なものを示せない。つまり、1章冒頭の「名の名とすべくは常の名に非ず」ということに対応しているわけで、すなわち道の基本的な性格です。以下「万物焉(ここ)に作(おこ)るも、而も辞(ことば)せず」からの説明は、明らかに道の働きを述べたものであり、それが聖人の働きと重ね合わせて語られていることがわかります。

道は常に無為にして、而も為さざるは無し。侯王若もし能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自ずから化せんとする。(老子・37章)

 ここでも基本的に言っていることは同じですが、ポイントは「道は常に無為にして、而も為さざるは無し」ということです。「無為」であることによって何事でも成し遂げることができる。つまり、ただ判断不能だから無為(何もしない)ということではなく、そこから自ら化すエネルギーを引き出すことができる。だから無為であるべきだと言っているわけです。あるいは「以って万物の自然を輔(たす)けて、而して敢えて為さず」(老子・64章)とも言っています。
 老子の思想はよく「無為自然」と呼ばれますが、実はそのままの語句が使われている箇所はあまりありません。また、この場合の「自然」というのは、いわゆるネイチャーではなく、「自ら然る」という働きです。なぜ「自ら然る」のかといえば、万物はみな道を内在させているからということになります。道は万物を生み出しただけでなく養い育てています。従ってその根源の力に預けることによって調和の取れた平和な世界が成り立つというのが、老子の「政治」に対する基本的な考えです。
 しかしながら、何事もしなければ物事がうまく行くというのは俄かには信じがたいような気がします。だったら最初から政治など必要ないということになりはしないでしょうか。
 もちろん老子はそんなことは言っていません。何もせずに、放っておけばそれぞれの「私」が皆自分の価値観で勝手なことを言い出すわけですから、世の中はどんどん混乱するに決まっています。相対的な価値観がぶつかる人間社会の中で国を治めていくためには、やはり政治は必要なのです。その前提に立って、どのような政治を行なえばいいかということを述べているわけです。たとえば、

賢(けん)を尚(たっと)ばざれば、民をして争わざしむ。得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗みを為さざしむ。欲すべきを見(しめ)さざれば、民の心をして乱れざらしむ。
是を以って聖人は、其の心を虚しくし、其の実を満たし、其の志(のぞみ)を弱くして、その骨を強くす。常に民を無知無欲ならしめ、夫(そ)の知者をして敢えて為さざらしむ。
無為を為せば、即ち治まらず無し。
(老子・3章)

 ここはよく老子の「愚民政治」として批判されるところでもありますが、その評価は少し置いておくことにしましょう。ともあれ、このように、道に叶った政治ということについて例をあげていろいろ述べているのですが、根本のところはどうも説明不足の感があります。つまり、「無為の事に処り」というのは、本当に何もしないことなのかどうか。実際の政治の場面では、さまざまな局面で、ある事柄に決定を下さなければならないこともあるはずです。「賢を尚ばざれば」ということであれば、賢を貴ばないという政策決定をしなければいけないわけで、さらにそれを徹底させなければならない。優柔不断な態度で務まるわけがありません。道の働きに預けるとどういう作用が働くのかということも疑問です。
さて、例によって老子の舌足らずのところは荘子に補ってもらいましょう。話は少し前後しますが、荘子が「彼我相対説」について述べた続きの部分です。

ここを以って聖人は、よらずしてこれを天に照らす。また是によるなり。これまたかれなり。かれまたこれなり。かれもまた一是非なり、これもまた一是非なり。果たしてかつ彼是ありや。果たしてかつ彼是なきや。彼是その偶(ぐう)を得るなし、これを道枢(どうすう)と謂う。枢(とばそ)始めてその環中(かんちゅう)を得て、もって無窮に応ず。是もまた一無窮なり。非もまた一無窮なり。故に曰く「明をもってするにしくはなし」。(荘子・斉物論)

 最初のほうのは非常に大事なところで斉物論の核心にかかわるところなのですが、講義の都合上、この部分の説明は少し後に回したいと思います。今ここで問題にしたいのは「道枢」ということです。枢とは扉の軸です。それもここで喩えられているのは、回転ドアのようです。つまり、ホテルの回転ドアがくるくる回りながら人がそこを淀むことなく出入りしていく。ドアはあってなきがごとしです。かれこれの区別なく物事が次々に処理されていく。つまり、一見何もしていないように見えながら実は非常に多くのことをしているわけです。「道枢」というのは道の要諦とも言われています。すなわち「明」によるとは、このことであると。
 なぜそうできるかというと自分の相対的な価値判断をさしはさまないからです。かれこれの区別を超えているわけです。もちろんそこには自分の利害損得もありません。欲望には動かされない。そして、ここが大事なところですが人情にも動かされない。言葉を変えていえば政治は非情なものなのです。

天地は不仁、万物を以って芻狗(すうく)と為す。聖人は不仁、百姓をもって芻狗となす。(老子・5章)

「芻狗(すうく)」というのは儀式のときに祭壇に捧げられる藁で作った犬のことです。祭事が終わればうち捨てられてしまう。これは儒教の徳目である「仁」を批判したものとする意見もありますが、そうではないでしょう。やはり自然の非情さを述べたものであり、政治の非情さを述べたものであるというのが素直な解釈だと思います。時にはそういう選択をしなければならない場合もあるわけで、何事にも心を動かされず平然とそれをやってのけられるのが聖人なのです。

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