第三講 あまねく道は存在する

『老子』1章・2章を読んでいきましたが、おそらく老子の言いたいことは、この二つの章にすべて凝縮されていると思われます。つまり一番の核心を先に述べて、後の章はそれをまた別の角度から述べて解説したり、喩えを加えて補足したり、応用の仕方を説明したりしているわけです。
 ですから、後はどういう順番で読んでも、さほど大きな違いはありません。すべて1章2章に対応させて読んでいけばいいのです。また、「老荘思想」のもう一方の柱である荘子を読む場合も、老子のポイントを踏まえていえば、大きく読み間違えることはないと思います。
 さて、老荘思想最大のポイントは、やはり道<TAO>でしょう。これを本当に理解し体得していれば、そもそも「老子」や「荘子」を読む必要もないわけです。しかし、それがなかなか難しい。わからないから何とか近づきたいと思うのですが、そもそも「定義できない」「言葉では説明できない」ということですから、教えるほうも伝え辛いようです。それでも老子は、何とかイメージだけでも伝えようとしてくれているのですが、それはたとえばこんな感じです。

これ視れども見えず、名づけて夷という。これを聴けども聞こえず、名づけて希という。これを愽うるも得ず、名づけて微という。此の三つの者は詰を致すべからず、故より混じて一と為る。(老子14章)

(道は)、見ようとしても見えないし、聴こうとしても聞こえない、触ろうとしても触れることができないというのです。その性質を「夷(色がない)」「希(かすか)」「微(形)」という言葉で説明しているわけですが、これではあまりに捉えどころがありません。要するに道はこうした感覚では捉えることができないものなのです。
 ただ、それを「無い」と言ってしまうと、そもそも道なんて存在しないんじゃないかということになってしまいますから、「夷」「希」「微」という表現で、無い中にも有るということを伝えようとしているわけです。
 あるいは次のような説明もあります。

道の道たる。惟れ恍惟れ惚。恍たり惚たり、其の中に物あり。恍たり惚たり、其の中に象あり。窈たり冥たり、其の中に精あり。其の精甚だ真、真の中に信あり。(老子21章)

 ここで「恍惚」(こうこつ)という聞き覚えのある表現が出てきますが、もともと『老子』が出典なのですね。意味としては、「うっすらとしている」というような感じです。やはり捉えどころがないイメージですが、何となくその中に姿形が見えるようです。「窈たり冥たり」というのも「ぼんやり」としたイメージを表す表現ですが、その中に精(いのち)があると言います。その精は大変に純であって「生命の源」という道の働きのひとつを感じさせます。それは太古より連綿と存在しており、万物を統括しています。
 少しずつではありますが、おぼろげながら「道」というものの存在がが感じられるような気がします。しかも、遥か彼方の手の届かないところにあるのではなく、実は意外に身近なところに道は存在するようです。しかし、もうちょっと具体的に言ってほしいと思いますよね。
 そこで荘子の出番です。老子がひたすら高尚で詩的なのに対して、荘子はいろいろな比喩を用いて物語もふんだんに織り交ぜ、独特の語り口で説明してくれます。あるとき、東郭子が荘子に道を尋ねたのですが、その問答は傑作です。

東「あなたのいう道はどこにあるのですか?」
壮「どこにだってあるさ」
東「例をあげて説明してくださいよ」
壮「虫けらの中にある」
東「そんなものの中にですか?」
荘「ヒエの中にだってある」
東「ますます下等ですねえ」
荘「煉瓦の中にだってある」
東「だんだん酷くなりますけど……」
荘「いやいや、うんこや小便の中にだってあるよ」
東「……」
                            (「荘子」外篇・知北遊)
 
 この話には続きがあって、その後荘子は、どうしてそういう「下等」なものばかり例にあげたのか説明しています。東郭子は「道」をどこか遥かな処にある特別なものと思っているようですが、「道」というのは万物の根源ですから、どこにでも「道」は存在するわけです。あるいは、事物を離れて道を知ることはできない。ここが荘子の眼目であって、この後、「万物斉同」(ばんぶつせいどう)という荘子哲学の真髄ともいえる部分の説明になっていくわけですが、これについては、また後のほうの講義で紹介していくことにしましょう。
 とにかく道というのは「これが道だ!」とハッキリと指し示すことはできないけれど確かにあって、しかも、どこにでも存在する。特別どこかに捜しに行く必要はないもののようです。
←前のページ TOP INDEX 次のページ→