第四講 からっぽの働き

 道はあまねく存在する。そうは言っても、なかなか実感としてそう思えないかも知れませんが、道は事物を離れて存在しえないと荘子は言います。観念的に道を捉えようとするのではなく、あくまで現実の中に道を見出さなければいけない。ここが非常に大切なところだと思います。
 しかしながら、それは確かにあるのだけど、つかみ所がない。つまりは、ドーナッツの穴のようなものなのです。穴だけ残してドーナッツを食べることはできません。ドーナッツを食べると同時に穴も消えてしまうからです。しかしながら、ドーナッツをドーナッツならしめているのは、穴なのであって穴なくしてドーナッツは成立しないわけです。老子はこれを「道は冲(むな)しきも、これを用うれば或た?たず。淵として万物の宗たるに似たり」(老子4章)と述べています。
 道は一見空っぽであるがその働きは無限であり、いくら注いでも溢れ出ることはない、万物はその奥底から湧き出るかのように見えるということです。14章では、道の性質を「夷」といい、「希」といい、「微」といって、確かに捉えどころがないものの、おぼろげながらでも姿形が浮かび上がってくるようなイメージがあるのですが、ここではその働きについて述べているわけです。空っぽだからこそ万物を生み出す、その源であると。すなわち、働きとしては無から有が生じるわけです。
 ここでは「空っぽ」「うつろ」という意味で、「冲」という言葉を使っていますが、これは道の働きを現したもので、いわゆる虚無思想ではありません。万物を生み出す積極的なうつろなのです。別の章では、その働きは車輪の軸穴や器にも喩えられています。

三十の輻(ふく)、一つの轂(こく)を共にす。其の無に当って、車の用あり。埴(つち)を?(う)ちて以って器を為(つく)る。其の無に当って、器の用あり。戸?をうがちて室を為る。其の無に当って室の用有り。
故に有の以って利を為すは、無を以って用を為せばなり。
(老子11章)

 三十本の棒(スポーク)が一点に集まり車輪を作ります。しかし真中が塞がっていれば車輪としての用はなさないでしょう。真中に空っぽの穴があるから、そこに軸が通って車の働きをするわけです。土をこねて器を作る場合でも、器としての働きをするのは何もない部分です。あるいは、壁を作って家を建てる場合でも、重要なのは部屋の中の何もない空間ということであります。
 このクダリは一般に「無用の用」というタイトルで呼ばれていますが、それは単に空間が果たす作用ということではなく、道の働きを説明しているわけです。(道という言葉は出てきませんが)。ただ、そうかと言って、空っぽのコーヒーカップの中を覗いても「道」が見えるワケでもなく、物事の本質は見えざるところにあるという一つのレトリックと解したほうがいいでしょう。そのように身近な事物を例として見えざる道の働きというものを説明しているわけです。
 ドーナッツだのコーヒーカップだの例をあげましたが、それはたまたま今、私がダンキンドーナッツでこの原稿を書いているからで、それ以上の深い意味はありません。万物のひとつであるだけです。
 もう少し大きな例としては、老子は谷ということを使っています。これは大変有名なクダリですから、皆さんも聞いたことがあるのではないでしょうか。

谷神(こくしん)は死せず、是を玄牝と謂う。
玄牝の門、是を天地の根と謂う。
緜緜として存するがごとく、これを用いて尽きず。
(老子6章)

 これは谷を大きな空っぽと見ているわけです。しかし、本質としては空っぽは空っぽなのであって大きさの違いは関係ありません。ただ、コーヒーカップと言うと何の有り難味もありませんが、谷神といれば意味深く聞こえるではありませんか。ただ、ここでちょっと気を付けたいのは「玄牝」という表現です。「玄」という言葉は道をたとえるものとして、すでに一章に出ていますが、ここではさらに玄の働きを陰陽に分けています。あるいは、陰陽に分かれなければ現実的な働きは出てこないわけです。これは易の基本原理でもあるのですが、その詳しい説明は後に回しましょう。
 簡単にいえば、谷があるから山があるわけで、山があるから谷があるわけですね。陰陽にあてはめれば、谷は陰で山は陽です。女は陰で男は陽。ですので、玄は玄ですが、陰陽で見れば陰の玄、牝の玄です。女性というのは母性ですから、生み出すということでいえば母が生み出すのです。男も女もお母さんから生まれるということは確かでしょう。そういう意味でも空っぽのところから生命が誕生するわけですが、それは単に男と女の結合というこtだけではなく、その前に一つに返る原理が働いているわけです。

 さて、あらゆる処に道は存在するわけですから、当然ながら私たち一人ひとりの中にも道は存在するはずです。しかしながら、それはおぼろげなもので、見たり聴いたり触ったりはできません。あるいは観念で捉えようとしても難しいわけです。ならばどうすればいいかというと「働き」を見ればいいのです。
 働きというのは道そのものではありませんが、働きを通して道というものが見えてきます。あるいは、働きを通さずに道を知るすべはないと言ってもいいでしょう。これこそが老子が最も訴えたかったことであって、「老子」の中に、道を体現した人物像として聖人がしばしば登場するのも、その働きを道と重ね合わせて説明するためです。
 しかし、では私たち凡人の働きの中に道を見ることはできるでしょうか。気になるところです。道はあまねく存在するわけですから、どんな凡人にも、あるいは極悪非道な悪党の中にも道はあるはずです。ただ、それが働きとしても極めて認識しにくいものであるのは確かでしょう。
 ただ、よく振り返って自分自身のことを考えれば、もっと身近なところに道を感じることができます。私たち人間は決して精神だけで成り立っているわけではなく、肉体的な部分を持っています。その働きを考えれば誰にでも道があることが実感できるのです。

百骸、九竅、六臓、かねて存す。われ、たれとともに親(しん)たらん。なんじみなこれを説(よろこ)ぶか。それ私するありや。かくのごときはみな臣妾たることありや。それ臣妾はもってあい治むるに足らざるか。それ逓(たがい)に君臣とあいなるか。それ真君ありや存せりや。もし、その情を求め得ると得ざると、その真に益損なし。(荘子・斉物論)

 私たちの身体というのは非常に不思議なもので、心臓も肺も胃腸もそれぞれの役割を負ってうまく機能しています。ふだんはそんなことは考えもしませんが、それは別に意識して心臓を動かしたり胃腸を動かしたりしていないからです(呼吸は意識している人がいるかも知れませんが普段は意識しないでしょう)。
健康であれば特に動かそうとしなくてもうまく動いてくれています。逆に言えば自分の身体でありながら、自分で命令して動かせるものではありません。身体の諸器官は単にそれぞれの働きをするだけでなく密接に連携しているわけですが、話し合いをしてそう決めているわけでもないでしょう。しかし、どこかで働きを統括していなければまとまりがつきません。ということはどこかに私たちの理解を超えた「真君」が居なければ説明がつかない、と荘子は考えます。これは非常に説得力のある道の働きの説明ではないでしょうか。しかしながら、そんなことを考えようと考えまいと、私たちの身体が統一をなしているという事実には何の変りもないわけです。

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