第六講 <明>を妨げるもの

 天下に始め有り。以って天下の母と為すべし。既に其の母を得て、その子を知る。既にその子を知り、其の母を守らば、身を没うるまで殆うからず。
其の兌(あな)を塞ぎ、その門を閉ざせば終身勤(つか)れず。其の兌を開き、其の門を開けば、終身救われず。
小を見るを明と曰い、柔を守るを強と曰う。その光を用いて、其の明に復帰すれば、身の殃(わざわい)を遺す無し。是を常に襲ると謂う。
(老子52章)

 最初のクダリは特に説明を要しないでしょう。ここでは道を万物を生み出した母としています。その子というのは万物で、当然その中には私たち人間も含まれます。前講との絡みでいえば、赤ん坊というのは生み出された直後の状態ですから、非常にお母さんに近い、不即不離の関係だといえるでしょう。だんだん大きくなるにつれて母親から離れていって、一人で生まれてきたような顔をしているわけです。けれども、みんなお母さんから生まれてきたわけですね。
「既に其の母を得て、その子を知る。既にその子を知り、其の母を守らば、身を没うるまで殆うからず」
 ですから、母のことがわかれば子のこともわかる。逆に子たる万物がわかれば母もわかるということです。つまり自分自身の中にある道を知ればいいということになります。そうすれば一生安泰であると。
 さて問題は、その後の「其の兌を塞ぎ、その門を閉ざせば」という部分です。私たちの身体の穴といえば耳目鼻口などの感覚器官ということになるでしょう。門というのは外界の状況によってコロコロ変る私たちの心です。そういったものに振り回されていれば道はわからず、救われない運命を辿ることになると警告しています。
「其の兌を塞ぎ」というと、何も見ない、何も聞かない、なんの臭いも嗅がない……ということかと思うかも知れませんが、実際はそんなことはできませんから、要するにとらわれなければいいわけです。
 そこで気になるのは「小を見るを明と曰う」というところです。25章では道を「大」としていました。だとすれば「大を見る」のが明ということになるのではないか、と思うのは、大小を相対的な意味で捉えているからです。大というのが絶対的な大を意味したように、ここでいう小も絶対的な小です。では、絶対的な小とは何か。物を細かく分解していけば粒子になりますが、そういうことではなく、ここで問題にしているのは物事を判断している主体です。つまり、自分の外側にはどんどん大きく世界が広がっていきますが、それに対しての小というのは他ならぬ自分自身ということになります。

自らを知るものは明なり。(老子33章)

 そういうことで全部自分に帰ってくるわけです。そのために「其の兌を塞ぎ、その門を閉ざ」すことが必要なのであって、これは表面的なことに左右されずに本質を掴むというようなイメージで考えればいいと思います。
 別のところで老子は次のように戒めています。

五色(ごしき)は人の目をして盲ならしむ。五音(ごいん)は人の耳をして聾ならしむ。五味は人の口をして爽(たが)わしむ。馳騁畋猟は人の心をして狂を発せしむる。得難きの貨は、人の行いを妨げしむ。(老子12章)


 五色というのは、白・黒・青・赤・黄の五つの色とされていますが、要するに彩り鮮やかな賢覧豪華な様子をいったもので、五音、五味については詳しい説明は省きますが、いわゆる五感に及ぼす官能的な刺激が人を麻痺させるということです。つまりは過ぎたる欲望を戒めているわけで、「其の兌を開き、其の門を開けば、終身救われず」というわけです。当時の上流階級の暮らしぶりを批判したものだという説もありますが、私たちもそれぞれのレベルで、こうした欲望には弱いものです。まあ、これは道を知る以前の話かも知れませんが。
 人間の欲望にはさまざまな種類がありますが、特に老子が注意を促しているのが権力欲です。「老子」というのは実に政治の話が多い。つまりは、一般庶民向けに書かれたものではなく為政者のために書かれたものなのですね。個々人の生き方もそれぞれに大切ですが、為政者が欲に目が眩んで政治を誤ると国を危くします。すると国民みんなが不幸になりますから、やはり為政者にこそ道を知ってほしい。文字通りの聖人君子になってもらいたい、と老子は願ったのだ思います。そういうことで、特に権力欲を戒めています。
 政治の話はまた後で考えていきたいと思いますが、ここでは一つだけ戦争に関わる老子の言葉を読んでおきましょう。

道を以って人主を佐(たす)くる者は、兵を以って天下に強いず。其の事は還(かえ)るを好む。師の処(お)る所は、荊棘(けいきょく)焉(ここ)に生じ、大軍の後は必ず凶年あり。
善者は果(か)つのみ。以って強いるを取らず。果ちて矜(ほこ)ること勿(な)く、果ちて已むを得ずとす。是を果ちて強いる勿しと謂う。
物は壮(さか)んなれば則ち老(お)ゆ。是を不道と謂う。不道は早く已(や)む。
(老子30章)

 意味はだいたい分かると思いますが、軍事をもって力を示そうとすれば逆の結果を招くことになるということです。軍隊が駐留すれば田畑が荒れて、いばらの土地と化し、大きな戦争の後には必ず凶年が来るといいます。
「善者は果つのみ」以降のところは解釈が分かれるところですが、老子をまったくの非戦論者と決め付けるのは無理があるように思います。当時の中国の時代状況を考えても、あるいは現在の世界情勢を見ても、戦争状態になるのは不可避な場合もあるでしょう。老子は確かに理想を説いている部分がありますが、決して絵に描いたモチのようなことは言っていません。むしろ、極めて現実主義的であり、いわゆる処世の術と受け止められかねない表現も多い。ここのクダリは、やはり最小限の戦闘に留めるべきと言っているように思います。
 これは非常に大切なところで、道というのは根本原理であって、それがそのままの形で現実に反映するわけではありません。すべては道から生み出されたものですから根源的には是非はないわけですが、人間の判断によってやはり現実レベルではいろいろ争いも生じるわけです。それに対処することが、つまりは私たちが「生きる」ということなのであって、その中に道を知り生かしていかなければならない。一人山中で瞑想しているというようなイメージは、後の道教ないし神仙思想の中で神格化されたものでしょう。あくまで地に足をつけたところで、老子は道を語っているのです。

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