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マーシャル諸島へ入った形跡
考古学者によるとマーシャルに人が入ってきた(住み始めた)形跡が見られるのは現在から2000年ほど溯った時代であります。 どのような形で人々が移ってきたかはまだはっきりとはされていないのですが、マーシャル人と関連するいくつかの証拠があるという点から南・南西にある東部メラネシアやキリバスのあたりから起源するのではないかという、おおよその見解で一致しています。
植民地としての歴史
マーシャル諸島は独自な植民地時代の歴史があり、それは初期に触れた西洋の文化やそれらの植民地政策によって作られた。 この植民地の歴史が今日のマーシャル諸島の礎を築いたというのは重要なポイントである。
スペイン人がヨーロッパ人としてはじめて太平洋開拓の航海に踏み出し、(1521年マゼランがグアム島に上陸)18世紀の後半スペインの船がマーシャル諸島を通った。 これが西洋文化との初めての出会いである。 これらの出会いを通じて、マーシャルは太平洋の島ののなかでも、早いうちに西洋の国とコンタクト・貿易を開始をしたひとつである。
1788年、イギリスのキャプテンマーシャルとギルバートが島々に入ってきた。 これが後にこの島々がマーシャル諸島と呼ばれるようになるきっかけであった。 また、イギリス船の1797年ブリタニア、1803年ローラ、1809年エリザベスが次々とやってきた。
イギリスに続いてロシア船ルリック(キャプテン−オット・ボン・コッザブー)が1816年から1823年にかけて訪れて、ルリック号の船員であるアーティスト:ルデュウィグ・クリス
と自然学者:アベルバート・ボン・チャミッソの指揮によりマーシャル諸島ではじめて水路学・植物学・動物行動学の研究が行われた。
また1800年代前半に捕鯨者もマーシャルを訪れたが、1850年ごろから灯油が普及し始めたと同時にクジラの油・捕鯨は廃れていった。
1857年最初の宣教師達がハワイからニューイングランドの宣教師達と一緒に到着した。 初めに彼らが布教を始めたのはエボン環礁だった。 使者たちは徐々に活動範囲を広め、19世紀の終わり頃にはすべての環礁に教会を設立した。
今日、キリスト教と西洋文化がマーシャルの社会の重要な部分となっている。
1850年代にドイツもまたマーシャルに入ってきた。 アドルフ・キャペレはドイツ人商人で1859年にサモアからエボン環礁にたどり着いた。 キャペレはポルトガル人ジョー・ディブラムと提携しマーシャルで始めて貿易会社を作り、また始めてのヨーロッピアン家族の移民となった。 彼らが1885年に設立したジャルートカンパニーは貿易会社と植民地管理局という二つの仕事をこなしていた。 ジャルートカンパニーの発展につれ、ついにドイツがマーシャルの保護国と宣言し、首都をジャルート環礁のジャボールに置いた。
第一次世界大戦で敗戦することにより、ドイツの支配は29年で終えた。 大戦中、マーシャルに軍隊を送り込み、島々を占拠して行った日本が1914年10月から統治を行った。 日本は人口の増えていたジャルートとマジュロを拠点とし、ジャルートカンパニーを南洋貿易会社と改名して運営を続けた。

1922年、日本は国際連盟からクラスCという称号を(マーシャル諸島を含む)ミクロネシアに与えられた。 しかし、1933年日本は国際連盟から脱退し、1930年代いくつかの環礁で軍備を固め始めた。
太平洋やマーシャルでの激戦の末、日本は第二次世界大戦に敗れ、1945年マーシャルはアメリカの支配下に置かれた。 国際連合によりマーシャル諸島(他に北マリアナ諸島、パラオ、ヤップ、トラック、そしてポンペイも)は1947年にアメリカ軍の信託統治領とされる。 1951年にマーシャルの所有権は、アメリカ軍から内務省へと移行される。
1970年代中期から後期、まだアメリカの信託領であったが、マーシャル国内から独立に向けての動きが強まってきた。
そしてついに1986年アメリカとの関係を自由連合と改めマーシャル諸島共和国へと国家を築き上げたのでありました。
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