12章 読者からの質問について。



    この章では、輸血関連の見解の変更について良く用いられる、ものみの塔誌の「読者からの質問」や

ものみの塔誌の研究記事を中心に記事を抜粋していきたいと思います。特になにも書いてない場合、「読者

からの質問」からの抜粋です。



●1960/5/15 P200 

  「献身したクリスチャンが手術を受けるときに、自分の血のいくらかを取ってから、また体内に戻すことは
   許されますか?」

  手術のときに出血するなら、そして何らかの手段によってその血が体内に戻されるなら、それは差し支え

  ありません。・・・・、なぜならば血は器具を通して、再び体内に戻っていくからです。一方、僅かな時間にせ

  よ血を蓄えるなら、それは聖書に反する事です。

・循環していれば血を体内に戻しても良い、および、血の貯蔵の禁止の見解が示された。



●1960/10/15 P400

  「血清あるいはガンマグロブリンのごとき血液の成分を注射することは、血を飲むこと、あるいは輸血によ
   って血液また血漿を体内に取り入れることと同様にみなすべきですか?」

   そうではありません。以前の考えとは異なって、この2つを同じ部類のものと考える必要はないようです。

   ・・・・、血清を媒体として抗体を血液中に注射すること、あるいは抗体を作るために血液の要素を用いる

   ことは、体の活力を養うために口を通じ、また輸血によって血を滋養物として取ることとは異なります。・・

   ・・、従ってこのような種類の治療を受けるかどうかは各個人の判断すべき事柄と考えます。

・分画なら各個人が判断して良いが、血液成分はNGであるという見解が示された。ちなみにこの年代ではま

だ血液=滋養物、という考えかたを協会は示している。



●1961/5/1 P287

  「献身して洗礼を受けた者が輸血を受け、この点で聖書に背いた場合、その人はクリスチャン会衆から
  排斥されますか?」

   ・・・・。したがって、意識して輸血を受けて血を避けないクリスチャンは霊的に栄えないでしょう。・・・・・、

   輸血を受ける者は、排斥によって神の民から切り離されなければなりません。 

・輸血を意図的に受けた人は排斥されるという見解が示された。同じ記事では、輸血を受けた後、悔い改め

 を示したならば排斥する必要がないことも合わせて述べている。



●1961/9/1 P543

  「生きた人に移植するために眼球を与える(死んだ後に)ことを聖書は反対しますか」

   これは聖書のどの原則も律法も関係していないように思われます。ですからこれは個人で決定しなけれ

   ばならない事柄です。・・・・・、だれもそのことを批判すべきではありません。



●1961/12/15 P749〜 研究記事 「血の神聖さを尊敬する」

   12節〜14節 食料品や薬の中に含まれる血液成分に注意すべき(ウインナーやハンバーグなど)

   15節〜20節 輸血に関しての注意

   15、16節 医者たちは全部の血と血漿を使用するだけでなく、必要に応じて血漿とは別の赤血球と、い

   ろいろの血漿蛋白質を利用します。血をそのように医学的に使用するなら神の律法は破られますか?

   血あるいは血漿あるいは赤血球またはいろいろな血の成分を注入して生命を支えるのは悪いことです

   か? そうです!神がノアに与えた律法・・・によると滋養を与えて生命を保つために血を食べる、すなわ

   ち、他の生物の血を用いることは悪いことです。

   19節 しかし、それが血の全部であろうと一部であろうと、その血が自分自身の体から取られたものでも

   他人の体から取られたものであろうと・・・・、その血を使用すべきではありません。

・1960/10/15の記事と矛盾してるような気がしますが・・・?



●1961/12/15 P755〜 研究記事 「生命を神の御心と一致して用いる」

   6節 隣人を愛するために生命を与えなければならないと論じるのも正しくありません。隣人と共同で神

   の律法を破ることは隣人愛ではありません。輸血は悪いと神の御言葉は示しています。したがって、輸

   血のために血を与えることも悪いのです。

・献血することも禁止という見解が示された。

   

●1962/2/1 P90

   「肉屋また他の場所で買った肉の血が正しく取り出されているかどうかはどうして分かりますか?また冷
   凍肉捏粉菓子または薬局で売られている調理品の中に血、および血の一部が入っていないことはどう
   して分かりますか?」

 肉を売る人に尋ねるように、製造物のレッテルを良く調べ、血の成分が含まれていないか調べるように、

 という説明がなされている。



●1962/2/1 P91

   「血を避けよとの聖書の戒めから判断するとき、魚と昆虫をどのように調理すれば食物として適当です
   か?」

   これらの生物の血は微量であるため、その血を注ぎ出すことは不可能です。・・・・、注ぎ出すほど十分な

   量がない場合には血を取り出すために極端な手段を取る必要はありません。



●1962/2/1 P91

   「クリスチャンは血清とワクチン注射の使用をどのようにみなすべきですか? 協会はこれについての見
   解を変えましたか?」

  輸血を受けること、あるいは輸血の代わりに血液の一部を体内に注入して生命を支えることは正しくあり

  ません。 

  ワクチン注射は現代社会の多くの場所において避けることのできないものであるし、ワクチンの使用は

  人体を養うものではない…人体組織を汚すものではないということを知るとき、クリスチャンは慰めを得る

  ことでしょう。

・血清にせよワクチンにせよ、血液の成分の1つを使って造られたものなんですが・・・・?。



●1964/5/15 P319

   「獣医が家畜に輸血するのを許すことは、聖書に逆らうことになりますか? 血を含んでいる動物のえさ
   や肥料を用いることはどうみなすべきですか?」

   動物にする場合でも、輸血を目的として血を用いることは正しくありません。

   動物のえさに関しても、血を含むえさを与えることは避けるべきこと。

   血を注ぎ出すという行為は肥料とすることを目的としていないため、これらを用いるべきではない



●1967/1/15 P61

   「協会の出版物の中で聖書の解釈が変化することが時々あります。私たちの信じていることは「真理」と
   考えられていますが、「真理」とは変化するものなのでしょうか?」

   箴言4:18には「正しき者の道は、夜明けの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる」とあるので、私

   たちはすべてを知り尽くしているわけではありません。・・・・、それで時々見解が変わってもそれは考えら

   ることです。私たちの基本的な信条は聖書の真理であっても、細かい点では依然完全に理解できなかっ

   た事柄があります。エホバの霊の助けにより、時がたつうちにこのような問題は明らかにされます。

・少なくとも輸血、および血液関係の扱いに関しては最初から正しい理解が与えられないのでしょうか?



●王国宣教 1967/3 P8

   「血の問題を考える時、クリスチャンがクジラの肉を食べるのは正しいことですか?」

   現在のところでは、これはクリスチャンの自分の良心に基づいて決定すべき事柄であるというのが、協

   会の見解です。そしてベテルではクジラの肉を用いていません。

・ということは、クジラの肉を食べることは良心の問題だったのですね。禁止事項と考えられていたのは何故?



●1968/4/1 P222

   「医学研究のために遺体を提供すること、あるいは臓器の移植を受けることには、聖書の見地からさし
    つかえありますか。」

   人肉を食べること、生体、死体を問わず別の人間の体、または体の部分によって自分の命を支えること

   は・・・・、それはすべての文明人が忌み嫌う人食いの行為です。・・・・。この種の手術を受ける人は他の

   人の肉によって生きることになり、それは人食い的です。・・・・。死後における体の切断を許すことは、神

   の創造に対して敬意と認識を示す道でしょうか。検死解剖のような場合を除き、クリスチャンは不必要な

   体の切断またなんらかの遺体の使用を避ける決定を下します。

・1961/9/1の見解が変更され、臓器移植は人食いであるとの見解が示された。



●1972/5/1 P286

   「骨の赤い髄の部分を含むビタミン剤や乾燥させた肝臓その他、同様の臓器を含む成分を用いることに
    はなにか問題があるでしょうか?」

   動物の血が正しく抜かれている限り、その動物はどの部分であれ食物として、用いてもかまいません。

   骨の赤い部分は造血作用の面で肝要な役割を果たしていますが、そうだからといって、髄は食用に供す

   るのはふさわしくないというわけではありません(イザヤ25:6) これは血に関する神の律法が守られて

   いる限り、動物を原料にした製品の使用には差し支えがないことを示しています。



●1973/8/15 P510

   「魚を食べる前に血を抜くことは必要ですか?」

   聖書には、魚の血を抜くことについては特別に述べられていません。・・・・。血を除く為に肉を絞るかまた

   は水に浸しなさいという規定が聖書にない以上、魚の血を抜く為に極端なことをする義務はありません。



●1974/12/15 P765

   「血液から精製された血清を用いる治療を受けることはクリスチャンにとって正しいことですか?」

   血清、または抗毒素は、その病気に対する抗体を持つ人や動物の血液から得られます。血は処理され

   抗体を含む血の部分(ガンマグロブリン)が分離されて血清とされます。これが患者に注射されると一時

   な受動免疫が作り出されます。これは一時的なものです。抗体が永久的にその人の血液の成分にな

   るわけではないからです。・・・・。それでは血の成分をごく少量含むに過ぎず、伝染病に対する補助的な

   保護を目的として用いられる血清についてはどうでしょうか。私たちはこの点に関しては各クリスチャン

   の良心によって決定すべきと考えています。

・血の成分がごく一部、また、一時的なものであるという点を強調し、血清を良心の問題としている。あえて言

 わせていただくなら、人体の組織に永久的なものなのなく、古い細胞は新しいものと入れ替わっていること

 協会も良く知っているはずです。血液もその一つであることをあえて表記せず、抗体が永久的にその人の

 成分となるわけではないという理屈を持ち出してくるのは不可思議です。いかがでしょうか?



●1974/1/15 P62

   「輸血を受けないという自分の意思に反した法定命令を受けて輸血される場合、その人は血の神聖さに
    関する神の律法を破った罪に問われないでしょうか?」

   あらゆる努力を払ったにも関わらず、輸血が強要されるのであれば、その人はエホバの憐れみを信じつ

   つ問題をエホバのみ手に委ねるべきです。このような場合、その人の置かれている立場は、絶えず叫び

   声を上げ、力の限り暴漢に抵抗しているにも関わらず犯されている婦人の立場に似ています。モーセの

   律法によるとそのような人には罪がありませんでした。・・・・。したがって神は、今日のクリスチャンが血

   に関するご自分の律法の違反に荷担することのないよう、可能な手段を講じることを望んでおられます。

・ここで初めて、自分の意思に沿わない輸血=強姦という喩えが使われている。



●1978/9/15 P29〜30

   「ある医師は、万一手術中に輸血が必要になった場合に備え、手術に先だって患者が自分の血液をいく
    らか採血し。貯蔵しておくことができるといいました。クリスチャンはそのような仕方で自分の血液を用
    いることをどのようにみなすべきでしょうか?」

   古代イスラエル人が、体外に出された血は神のものであり、地上の生物の命を支えるものではないこと

   を示すため、「水のように注ぐ」べきであると告げられていた点を指摘できるでしょう。・・・・、この点から

   考えるなら、クリスチャンは後日自分または他人に輸血する目的で自分の血が血液銀行に入れられる

   のをどうして許すことができるでしょうか。



●1978/9/15 P30

   「人工心肺や透析装置などについて、クリスチャンはそのようなものを使用できますか」

   乳酸ナトリウム加リンゲル液のような、血とは無関係の液体でその装置を始動させることを前提に認め

   る人たちもいる。血液は継続的に流れており、体外の循環は循環系の延長とみなせると良心的に考え

   た人たちもいる。・・・・、神の前で明らかな良心を抱けるような決定を下すことができる。



●1978/9/15 P31

   「血清注射はクリスチャンの良心に反するものではありませんか。」

   血清注射を受けることは”灰色の領域”に入るものと考えられます。クリスチャンの中には治療の目的で

   血液の誘導体を少量取り入れることは不敬の念の表れではないと考えます。しかし、他のクリスチャン

   は、血清には少量ではあっても血が含まれているので、良心的にそれを拒否せざるを得ないと感じます。

   ですから当誌は、この問題は各人が個人的に解決しなければならない問題であるという立場をとってき

   ました。

・おそらく’74の読者からの質問の説明では納得がいかなかった人が大勢いたのではなかろうか? そのた

めの繰り返しの説明と思われる。



●1980/6/15 P31

   「角膜や腎臓など、人体の一部の移植を受けた場合、会衆はなんらかの措置をとるべきですか。」

   一人の人間から別の人間へ人体の組織や骨を移植するかどうかは、エホバの証人各自が良心的に決

   定すべき事柄です。・・・・。聖書は特に血を食べることを禁じていますが、他の人間の組織を受け入れる

   ことをはっきりと禁じている聖書の命令はありません。・・・・。ある人が臓器の移植を受けたとしても会衆

   の審理委員会は懲戒措置を取らないでしょう。

・1968年4月から、約12年続いた「臓器移植は人食いである」という考え方に変更が加えられた。というより

 1961年の9/1のも誌の質問箱で書かれていた見解に逆戻りしたと言っても良いのではなかろうか?



●1984/8/1 P31

   「血液が骨髄で作られることからすると、クリスチャンは骨髄移植を受けることができますか」

   人間の骨髄移植に用いられる骨髄は生きた提供者からのもので、採取された骨髄には幾らかの血が

   含まれているかもしれません。ですからクリスチャンは移植用の骨髄が-自分にとって-単なる肉片に相

   当するか、あるいは血の抜かれていない組織にあたるかを自ら決定しなければならないでしょう。

・骨髄に幾らかの血が含まれている・・・、これは表現として適当ではないと思われる。なぜならば骨髄成分の

 内訳は、造血幹細胞1.7%、血液成分が98.3%であるからです。そのことを知っているならば「幾らかの血が

 含まれている」という表現はしないのではないでしょうか? 医学的に見て骨髄は血液とは別の組織である

 と私も考えますが・・・・。



●1989/3/1 P30〜31

   「エホバの証人は、自分の血を蓄えておいてもらい、それを跡に自分の体内に戻すといった、自己血の

   使用(自己輸血法)を許しますか。」

   自己血の一般的な一つの使用法、つまり患者の血を手術に先立って貯蔵し、後になって注入することは

   明らかに排除されます。・・・、エホバの証人はこの処置を受け入れません。

   誘導血液希釈についてはどうでしょうか?・・・・、この場合もやはり血液希釈回路を迂回する血液を人工

   心肺装置を流れる血液と同じようにみなすか、自分から離れた血液であるから処分されるべきとみなす

   か各個人が決定しなければなりません。

   最後の例は手術中に血液を回収して再使用することに関係しています。傷口から流れる血液を吸引し、

   ポンプで送ってフィルターや遠心分離機を通し、その後に患者に戻す装置が用いられています。・・・・、

   ご承知のとおり、自己血の関係した装置や技術の種類は増えています。・・・、クリスチャンはこうした分

   野で問題に直面したら、各自が医療関係者から詳しい情報を得た上で自分で決定する必要があります。

・貯血式(貯蔵式)自己血輸血がふさわしくないこと、希釈式自己血輸血が閉鎖回路にあって循環しているこ

 と、またセルセーバーを用いることは、自分の良心の判断で決定するよう勧めています。



●1990/6/1 P30〜31

   「エホバの証人は、免疫グロブリンやアルブミンなど、血液分画の注射を受けますか。」

   受ける人もいます。それらの人は、聖書は血液から抽出された微小な分画もしくは成分の注射を受ける

   ことを明確には禁じていないと考えています。・・・・、これは各自が神の御前で個人的に決定しなければ

   ならない問題です。

・血漿中のアルブミンやグロブリンが母親の胎盤を通過し、胎児に移動するということを根拠として、それらを

 受け入れるかどうかを考慮する判断材料にすることができるという点がこの記事によって大きくクローズアッ

 プされました。しかし、これは一つの例であり、実際には分画よりも、もっと大きな成分(例えば赤血球)も

 胎盤を移動しているという学説もあるようなのですが・・・。



●1992/10/15 P30〜31

   「クリスチャンは、乾燥血漿などの血液成分が食品に加えられているかもしれないということをどの程度
    気にかけるべきでしょうか?」

   血液の成分が多方面(代用肉、パンや挽肉のつなぎ、など)に用いられているケースが報告されている

   のでクリスチャンは食品の表示(ラベル)などに注意し、気をつけるべきことが書かれている。しかし、こ

   の点を調べるために過度に神経質になる必要はない。確かな根拠がないなら単なる可能性やうわさに

   よって動揺すべきではないでしょう。<筆者による要約。



●1994/10/1 P30

   「人間の血液から抽出されたアルブミンを含むワクチン、あるいは同様の他の注射を受けるのは正しい
    ことでしょうか。」

   率直に言って、クリスチャンはこのことに関し、各自が個人的に決定しなければなりません。・・・・、一部

   のワクチンには調製の際に諸成分を安定させるために比較的少量の血漿アルブミンが含まれているか

   もしれないからです。現在では合成ホルモンであるEPO(エリスロポエチン)の注射液にも少量のアルブ

   ミンが使われているからです。



●2000/6/15 P29〜31

   「エホバの証人は、血液に由来する医薬品を受け入れますか。」

   第二次世界大戦後に全血の輸血が普通に行なわれるようになったとき,エホパの証人は,それが神
の律法に反していることを理解しました。今でもそう考えています。しかし,時と共に医療は変化してきました。
今日,ほとんどの輸血は,全血ではなく,血の主要成分の一つを用いて行なわれます。主要成分とは,(1)赤
血球,(2)白血球,(3)血小板,そして(4)血漿と呼ばれる液体成分のことです。

医は患者の容体に応じて,赤血球,白血球,血小板あるいは血漿を投与する場合があります。それら主な
成分を注入することにより,血液1単位を,より多くの患者に分配できるようになります。エホパの証人は,全
血を受け入れることも,それら四つの主要成分のいずれかを受け入れることも,神の律法に背く行為であると
みなします。

しかし,血液のそれら主要な成分はさらに細かく処理できるため,主要な血液成分に由来する分画について
質問が生じます。そのような分画はどのように用いられるのでしょうか。クリスチャンは,それらについて決定
を下す際,どんな点を考慮すべきでしょうか。

血液は複雑です。90%が水である血漿にさえ,多種多様なホルモン,無機塩類,酵素,またミネラルや糖など
の栄養素が含まれています。さらに血漿には,アルブミン,凝固因子,疾病と闘う抗体など,種々のたんばく
質も含まれています。専門家は幾種類もの血奨たんばくを分離して用いています。例えば,凝固第VIII因子は,
出血を起こしやすい血友病患者に投与されてきました。また,ある種の病気に感染した人に,医師は,すでに
免疫のある人の血漿から抽出したガンマクロプリンを注射するよう指示する場合もあります。医療に用いられ
る血漿たんばくはほかにもありますが,上記の例は,一つの主要な血液成分(血漿)を処理すれば何種類か
の分画が得られるということを示しています。*

血漿から様々な分画を取り出せるのと同じように,他の主要成分(赤血球,白血球,血小板)も,処理すれば,
さらに細かい要素を分離することができます。例えば,白血球細胞からは,ある種のウイルス感染やがんの
治療に用いるインターフェロンやインターロイキンを取り出せます。血小板は,処理すれば,傷をいやす因子
が抽出されます。また,血液成分からの抽出物を(少なくとも最初は)含む薬も登場しようとしています。その
ような療法は,血液の主要成分を注入するものではありません。たいていは,主要成分の要素もしくは分画
が関係したものです。クリスチャンは治療を受ける際,それらの分画を受け入れてもよいでしょうか。はっきり
したことは言えません。聖書は細かなことを述べていないので,クリスチャンは神のみ前で自分の良心に従っ
て決定しなければなりません。

一方,それとは異なった決定をするクリスチャンもいます。その人たちも,全血,赤血球,白血球,血小板,
血漿の輸血は拒否します。しかし,主要成分から抽出した分画を用いた治療なら受け入れるかもしれませ
ん。もっとも,この場合でも,決定は異なる可能性があります。あるクリスチャンは,ガンマクロプリンの注射は
受け入れても,赤血球や白血球からの抽出物を含む注射には同意しないかもしれません。しかし,包括的に
見て,血液分画は受け入れてもよいという結論を下すクリスチャンがいるのはなぜでしょうか。

「ものみの塔」誌,1990年6月1日号の「読者からの質問」は,血漿たんばく(分画)が妊婦の血流から,独立し
た胎児の循環系へ移動することに注目しました。母親はそのようにして免疫グロプリンを自分の子に渡し,貴
重な免疫を与えるのです。一方,胎児の赤血球が通常の寿命を全うすると,それに含まれる,酸素を運ぶ部
分は処理されます。その一部はピリルピンとなり,それは胎盤を通過して母体に入り,母体の老廃物と共に排
せつされます。それで,クリスチャンの中には,血液分画はこうした自然の営みの中で別の人間へ移動するの
だから,血漿や血液細胞に由来する血夜分画は受け入れることができる,と結論する人もいることでしょう。

人によって意見も,良心に基づく決定も異なるのであれば,これは取るに足りない問題なのでしょうか。そうでは
ありません。重大な問題です。とはいえ,根本的な点は簡単明瞭です。上記の資料が示しているように,エホ
パの証人は全血や主要な血液成分の輸血を拒否します。聖書はクリスチャンに,「偶像に犠牲としてささげら
れた物と血と……淫行を避け(る)」よう命じています。(使徒15:29)それより細かな事柄,つまり主要成分のど
れにせよ,それから取った分画については,各々のクリスチャンが,祈りながら注意深く熟考した後に良心に
従って自分で決定しなければなりません。

多くの人々は,血液製剤を用いる場合のように,周知の健康上の危険をはらんだ療法であっても,当面の益
になると思える療法なら何でも喜んで受け入れることでしょう。誠実なクリスチャンは,身体的な面にとどまらす,
より広い,より平衡の取れた見方をするよう努めます。エホパの証人は,質の高い医療を施そうとする努力に
感謝すると共に,どんな治療にせよ,それに伴う危険と益の割合を比較考量します。しかし,血液から抽出され
た製品に関しては,神の述べておられる事柄を,また命の与え主と自分との個人的な関係を注意深く考量しま
す。―詩編36:9。

  *「ものみの塔」誌,1978年9月15日号と1994年10月1日号の「読者からの質問」をご覧ください。製薬会社は,

遺伝子組み換えによる数々の製品を開発しました。それらは血液から採ったものではなく,以前に用いられて

いた幾つかの血液分画の代わりに処方することができるかもしれません。

・この記事が出るまではごく限られた分画しか用いることが出来ませんでしたが、この記事を注意深く読むな

 らば、血液を分画の状態にすれば、エホバの証人は良心が咎めない限り、すべての分画を治療に用いる

ことができるようになったことが分かります。



●2000/10/15 P30〜31

   「血の正しい用い方に関する聖書の命令に照らして、エホバの証人は自分の血液を用いる医療処置を
    どうみなすべきですか。」

    自己血を用いる処置や検査の中には、明文化された神の原則に反しているとは断言できないものもあ

    ります。(血液希釈やセルセーバー、心肺装置などの例が出されている) ・・・・、クリスチャンは自分

    の血液が外科的処置、医療検査、および現行の治療においてどのように扱われるべきかを、自分で

    決定しなければなりません。

 

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