頑張れ!阪神タイガース

心に残る名選手
(あくまで僕の心に残る選手です)

投手
江夏豊


僕が意識して阪神のファンになってからのベスト1投手といえばなんと言っても江夏です。
取りたいときにいつでもどんな相手からも三振がとれる投手というのは僕は他には知りません。
通算1000奪三振、1500奪三振などメモリアル奪三振は王選手から取ると決めたらその前の選手からは絶対に三振を取らず打たせてアウトにしておいて王が打席に回ってきた時に見事に三振を奪うなどという離れ業をやれる投手でした。

オールスターでの規定の3イニングに対戦した9人のバッターを全員三振でアウトにするという記録も作りました。8人まで三振に取ったあとの9人目の打者がキャッチャへのファールフライを打ち上げた時にマウンドから大声で捕手の田淵にむかって「とるな!」と叫んだのは有名な話です。必ず三振に取る自信が無ければ言える言葉ではありません。
後に巨人の江川が似たような記録を作り掛けましたが江夏のときの対戦相手とは打線の迫力が全然違う。
江川が記録を作ったとしても江夏の記録がいささかも色あせることはありません。

延長戦のノーヒット・ノーランというのもありました。
9回を終了した時点でノーヒット・ノーランなのですが、残念ながら味方打線も得点できないで試合が終わらず0−0のまま延長戦に突入。はらはらする中を延長11回の裏、みずからのサヨナラホームランで試合を終了させノーヒット・ノーランを完成させました。
このときの豪快なひとこと「野球はひとりでもできる」というのも有名な話です。

江夏2世と言われた投手は何人か現れましたが、江夏の後に江夏なしです。
背番号「28」が永久欠番にならないのは彼が阪神でその選手生命を終えなかったからの理由にほかありません。

余談ですが僕は江夏と同じ中学校の卒業生です。
住まいも当時の江夏の実家の近所で、少年時代はよく銭湯で江夏と会いました。
江夏は中学時代にはもちろん野球部のエースでしたが、それとは別に陸上競技の砲丸投げの中学生日本記録を持っており母校にはその栄誉をたたえた感状が長く掲示されてあったと記憶しています。



村山実 江夏ときたら次は村山でしょう。 
僕よりもう少し年輩のファンなら江夏より村山を先に持ってくるところでしょうけど、残念ながら僕が本格的にプロ野球を見始めた頃はすでに村山の晩年で、最盛期のころを知りません。
それでも打倒巨人の気概の凄まじさは記憶に残っています。激しい情熱で阪神を愛した人です。
特に永遠の好敵手長島茂男との対戦時の闘志のすごさは言葉で表せるようなものではありませんでした。
「ザトペック投法」といわれる豪快な投球フォームから投げ降ろす村山の姿はまさに鬼神のごとしでした。

フォーク全盛の昨今ですが村山の代名詞ともいえる彼のフォークボールは別格で、まさに「魔球」と呼ぶにふさわしいものでした。1970年に記録した年間防御率0・98という驚異的な数字が村山の凄さを何よりも物語っていると思います。

阪神の監督も2度つとめましたが、1998年8月、享年61歳で惜しくもこの世を去りました。
背番号「11」は永久欠番。



G.バッキー 阪神へ来た外国人選手で投手のNo.1はと言えば当然バッキーでしょう。
独特のグニャグニャした投球フォームから投げ込む速球は相手打者にはさぞ打ちにくかったことと思います。

バッキーも一度ノーヒット・ノーランを記録してますが、その対戦相手があのONを擁した巨人だったことは特筆されるべきことでしょう。いかに凄い投手であったかを証明するものです。

阪神に在籍7年間で100勝を挙げましたがこれは南海のスタンカと並んで外国人投手通算最多記録です。
あと一勝で単独最多記録となるところでしたが、1965年の巨人戦で王へのきわどい投球がきっかけで阪神巨人の両軍大乱闘となりその際にバッキ―は巨人の荒川コーチとの殴り合いが原因で右手親指を骨折するという不幸なアクシデントがありました。このためその年の後半を休場した上、近鉄へと移籍しましたが近鉄捕手との相性の問題などもありついに一勝も挙げることなく引退しました。100勝目を達成した段階でもまだまだ充分に力を発揮する、いわば最盛期といえるような状態だったので新記録は時間の問題と目されていただけに非常に残念な事件というほかありません。

陽気でユーモラスないかにも「ヤンキー」という言葉が似合う投手で僕は好きでした。

江夏、村山、バッキーのどのひとりが今の阪神に来ても群を抜くエースになると思われる存在で、この三人が同時に在籍した期間の阪神タイガースが「投手王国」と称されたのは極めて当然のことでしょう。

捕手
田淵幸一
1968年のドラフトで法政大学のスラッガー田淵幸一を阪神タイガースが指名したときは驚きました。
田淵は熱狂的な巨人びいきでドラフト前から巨人以外には絶対に入団しないと明言しており、田淵の巨人入りは世間の周知とされていたからです。予想どおり阪神の交渉は難航しましたが年を越した翌1969年ついに交渉に成功した阪神は田淵を入団させました。

6大学時代に通算22ホームランとそれまでの長島茂男の持つ通算8ホームランを大きく上回る記録を達成して阪神入りした田淵でしたが、入団一年目のオープン戦の成績はさんざんなものでなかなかヒットが出ないような不調が続いたまま公式戦に突入しました。しかし公式戦に初登場するや、いきなり初打席で大ホームランをレフトスタンドに放り込みファンを驚かせた思うと続く第二打席目も連続ホームランを放ち天才ホームラン打者の野球人生をスタートさせました。結局この入団の年には背番号と同じ数の22本塁打を記録してセリーグの新人王を獲得しました。
この年の新人には中日・星野仙一、広島・山本浩司、ヤクルト・藤原某(一年目だけ凄かった)などがおり、彼らと競っての新人王には非常に価値がありました。

田淵は「史上最高に美しいホームランを打つ男」と言われ、その大きく高く弧を描いて飛んでいくホームランには気品さえ感じました。解説者・青田昇に「もし甲子園で場外ホームランが出るとしたらそれは田淵の最高に気合の入ったときのもの以外は考えられない」と言われましたが、さすがにそれは実現しませんでした。

入団当時のエース江夏豊とのコンビは「黄金のバッテリー」と称されましたが彼ら以後この大型バッテリーをしのぐコンビはどの球団にも出現していません。もしかすると奇跡と言えるかもしれないバッテリーでした。

一塁手
ランディ・
バース
いわずと知れた、「神様、仏様、バース様」です。
この選手なくして1985年の優勝は無かったでしょう。
日本にやって来た全ての外国人選手の中でおそらく最高の打者だろうと僕は思います。

おおげさに言うならバースはいつも打ちました。
打席に立ったらいつもヒットを放ち、途切れることなくホームランを打ったという印象を強く残したバッターです。
バースが打席に立つ時には全ての阪神ファンは彼の痛打を確信してました。それはもう「期待」と言うものを通り越して明らかに「確信」でした。そしてほとんどの打席でバースはおおかたの確信通り見事な痛打を放ったものです。(とは言っても10回の打席のうち6回ちょいは凡打に終わったはずなのだからいつもいつも打ってるはずはないんだけど、とにかくいつも打ったような印象が残るくらいバースは凄かった!)
85,86年と2年続けて三冠王を取りましたが、そのことに別段驚異を感じることもなくまあ当然のことと思わせるほどの打者でした。

88年のシーズン途中に息子が難病に掛かったことなどが原因して球団を去りましたが、まだその力が衰えをみせてなかった時だったのが残念です。もしそれ以後も選手を続けていたとしたらどれほどの記録を作り上げたか見当もつかないほどの選手だったと思います。

85年の巨人戦で、掛布、岡田とのクリーンアップが槙原投手から放った「バックスクリーンへの3連続ホームラン」はあまりにも有名です。この試合がきっかけで阪神はこの年優勝に驀進しました。

非常に信じ難いことですが、バースは4回も盗塁してるそうです。



遠井吾郎 二番手はちょっと地味になりますが、僕はこの選手すきです。
「仏のゴロー」という愛称を持つほど温厚で物静かな選手で、決して派手な選手ではありませんでした。
華々しいホームランを打つわけでもないし、3割は打たないし、守備はとにかく下手だし、足は格別遅いし、ドンくさ〜いイメージいっぱいの選手でした。

おそらくほとんどのファンがこの人を歴代ベストナインには選ばないだろうと思えるほどの平凡な選手ですが、僕はこの遠井が好きなんですねえ。
極端な貧打線の時代の阪神の4番打者でしたが、ときおり「やっぱり4番やなあ〜」というタイムリーヒットを打って試合を逆転したりすることがあり、そのあまり数多くない場面が極めて痛烈に印象に残っています。

彼の鈍足ぶりはとても言葉で表現できるものではなく、走るときは両手を亀の前足のような格好でよちよち振って一生懸命走るんだけどとにかく遅い。遠井が二塁ランナーにいるときなどはあと2本のヒットがなければ点が入らんなあ・・・、などと思ったものです。

その鈍足遠井がオールスター戦でランニングホームランを打つという極めて珍しい記録を持っているのがなんとも皮肉です。ライト線への遠井の当りを追いかけた右翼主ロッテ・オリオンズのアルトマンが転倒失神しまうといアクシデントがあり、この間に遠井がホームインしたというものです。
彼らしいランニングホームランです。例によって亀さんみたいによちよちと懸命に走ってる遠井の姿が今も思い出されます。


二塁手
岡田彰布 岡田は決して「二塁手」の代表としてトップに選んだわけではありません。歴代二塁を守った人の中では出色の大打者ということで岡田をトップにしました。守備はどちらかというとあまり上手くなかったような印象があります。

鳴り物入りで阪神へ入団して来た「早稲田の4番」でしたが岡田の阪神でのデビューは決して華やかなものではありませんでした。当時の阪神の監督だったブレイザーは守備を好む人だったので打撃の新人岡田よりも監督自身が選んで連れてきた守備の上手い何たらとかいう外人選手(名前忘れた!)を好んで使ったため最初岡田には出場機会がありませんでした。当然、期待の新人を見たいと熱望するファンとの軋轢でブレイザー監督は極めて短期間で監督を辞めることとなり、その後は当然の成り行きのように岡田はレギュラー出場するようになり主力選手へと育っていきます。結局この年岡田は18ホームランを放ち阪神では田淵以来の新人王を取りました。

現役引退後は阪神の二軍監督としてその指導者としての手腕も高く評価されています。
2001年に野村が監督を辞めたあと星野新監督が決定されるまでに時期監督候補の一人として岡田も名前が上がりました。いずれ一軍監督になる日が来るのかもしれませんが、僕は岡田は二軍監督のほうが何となく似合うような気がします。彼はナンバー2の似合う人柄じゃないでしょうか。

岡田が藤山寛美に似てるとはよく言われることなんですが、僕個人の感想としては谷村信司に似てると思うんですけど・・・。



和田豊 いぶし銀の名内野手というのは決して巨人の川相のことではありません。その形容詞は和田にこそ与えられるべきです。あちらはただたくさん犠牲バントをしただけですが和田は犠牲バントのうまさも川相に匹敵する上に技巧的なヒットの打ち方がほんとにうまい選手でした。

85年の優勝の年にも阪神にいたことはいたのですがほとんど控えの存在であまり優勝に参加したという実感はありません。和田が本来の活躍をし始めた頃からチームが低迷を始め、せっかくの名二塁手、名二番打者が生かせ切れなかったのはまことにもってもったいない話だと思います。惜しまれて2001年のシーズン後現役を引退しましたが彼の引退した翌年2002年にタイガースは躍進を始め、和田だけがいい目をしなかったようでなんだか気の毒です。
またその年の好調著しいタイガース打線にあって2番打者だけが不在というのも皮肉なはなしです。この時こそ全盛期の和田があれば・・・・。

背番号「6」は僕にとっては大切な番号で、大好きな藤田平がいるために和田に代表される背番号とは言いにくいですけど、しかしそれでもまた和田も「6」番がほんとによく似合う選手でした。



鎌田実 この人の選手時代はほとんど記憶に無いのですが歴代のニ塁手では最高に守備の上手い人でしょう。
二塁守備ということに徹底的にこだわりを持っており独自の守備形体を確立しました。

守備に関する理論は今でも非常に卓越したものを持っており、サンTVでは「さすがやなあ〜」と感心させられるきめの細かい解説を聞くことができます。この人の解説は大好きです。たくさん喋るわりには内容のさっぱり伴わない日テレの解説者とはえらい違いです。

ショート吉田、サード三宅との3人で構成する鉄壁の内野陣は日本プロ野球史上最高のもので、阪神は内野の守備練習だけで金が取れると言われた・・・らしいが、残念ながら僕は名人サード三宅の現役時代を知りません。


三塁手
掛布雅之 僕の知ってる阪神での最高の日本人選手はなんと言っても掛布です。
もう僕の人生そのものです。

テスト生同然の境遇からその類い稀な野球の才能と人一倍の努力でミスタータイガースの地位を獲得した名選手です。「名選手」とはほとんどこの人のためだけにある言葉だと僕は思います。

掛布はチャンスに弱いとよく言われますけど、え〜〜!!そうかなあ・・・と思ってしまう。
掛布がチャンスに弱いですか・・・。そんなイメージは全然ありません。掛布というのは僕にとってはスーパーヒーローそのもので彼がどれほど阪神を勝利に導いたことでしょうか。僕にとって掛布は「強い人」と言う代名詞そのもので当時はロールプレーイングゲームの主人公の一人に必ず「カケフ」という名前をつけて連れて歩きました。戦闘シーンになって「カケフの会心の一撃!」なんてのが出るとさすがはカケフやなあ、などと見当はずれに大喜びしたもんです。
いつも僕と共に歩んで来た頼もしい男、必ず期待に応える頼もしい選手、それが掛布雅之でした。

掛布が現役選手を引退したときはほんとに胸にぽっかりと穴があいたような気がして何もかも無くしてしまったような虚無感におそわれたものです。ああこれで僕の野球人生も終わったなあ・・なんて本気で思っていました。

掛布を語るときには彼のホームランがどうとか打率がどうとか言う話はあんまりしたいような気がしません。
言い出したらきりがないし、彼をそんなふうな他の選手を語るのと同じような種類の話題で語りたい気がしません。
掛布は僕には特別に特別な選手で僕の人生そのものでした。

お願いですから、ハゲのCMに出たり、たくさん喋るわりには何を言ってるのかよくわからん解説者になったりするのをやめてくれませんか。僕にとっての永遠のスーパーヒーローのイメージがポロポロ崩れます。

それにしても背番号「31」はどうして永久欠番にならないんでしょうか・・・。

遊撃手
吉田義男

言わずと知れた名遊撃手中の名遊撃手で、「空前絶後の遊撃手」と言われた人です。
吉田は阪神球団歴史の中だけにとどまらず全プロ野球の歴史に燦然と輝いています。
同時期の巨人のショートに名手広岡がおり吉田と好ライバルとされましたが、もちろん超一流だった広岡の守備でさえ吉田の比ではありませんでした。というより吉田と比較できるような遊撃手は他に存在しません。おそらく日本プロ野球史上で最高の遊撃手です。

吉田が阪神入団の一年目に、当時の岡田コーチが吉田に向けて右へ左への難ゴロをノックしてみるのですが新人遊撃手吉田は変幻自在の動きをみせて岡田コーチのノック球を難なくさばいていく。これを見た岡田コーチが「まるで牛若丸のよう」と驚嘆したと言われ、以後「牛若丸」は吉田の動かぬニックネームとなりました・・・と言う話を物の本で読んだことがあります。

と言うことなんですが、実は吉田も僕が野球を本格的に見始めた頃はもはやその選手生命の晩年で、決して彼の最盛期を見たわけではありません。ありませんが、その時期の吉田でさえその卓越した守備は痛く少年期の僕の印象に残るほど素晴らしいものでした。何と言ってもゴロを捕球してから一塁へ投球する一連の動作が素早く、文字通り「目にもとまらぬ速さ」でした。今でもときおりOB戦などでその名守備の片鱗を垣間見ることが出来ます。

また吉田は俊足好打のバッターとしても一流でバットを短く持つ独特の打撃フォームでコツコツと巧打を生みました。日本一の大投手、金田正一が最も苦手とした打者がこの吉田で、「牛若丸」吉田にてこずる「弁慶」金田とたとえられました。
盗塁王を2度獲得しましたが、この吉田以後阪神から盗塁王は出ていません。

フランスで野球指導をして「ムッシュ」のあだ名も持っていますが、日本では決して阪神以外のユニフォームを着ようとはしなかった吉田もまた強く阪神タイガースを愛した人です。
阪神の監督を3回もやったのは吉田だけで(合計年数8年)、85年にはチーム優勝を果たした上、この年パリーグの優勝チーム西武ライオンズをも破って阪神タイガースをただ一度日本一に導きました。

背番号「23」は当然ながら永久欠番です。



藤田平 掛布が僕の人生そのものなら、藤田平は僕の青春そのものでした。
掛布が出現するまでの僕が一番好きな選手というのがこの藤田平で、今でも実は掛布と藤田のどちらがより強く好きかは自分でも決められません。

実は僕にとって阪神のショートというのは名人吉田ではなく、この藤田平です。
僕が本格的に野球を見出した年代と藤田が正遊撃手として確立されたころとがほとんど同時期で、以来僕が「お兄ちゃん」から「おっちゃん」へと呼び名が変わりだすころまでずっとショートを守りつづけました。

よく名手吉田を二塁に追いやった遊撃手などと紹介されますが遊撃手としての力量が吉田を上回るものではありません。もちろん凡庸なショートではなく彼もまた一流の守備人でしたが吉田と交代したのは単に吉田の年齢的衰退による理由だけです。彼を語るにはその守備力ではなくもちろんその極めて卓越した打撃技術でなくてはなりません。
3番打者として藤田はホームランも多く打ちましたが彼は決してパワーヒッターではなく典型的なミートバッティングを目指し、その芸術的ともいえる広角打法はまさに至芸の職人わざでした。世に「打撃の職人」は多く存在しますが僕は藤田こそが本物の「打撃の職人」だと思います。
入団二年目の67年に二塁打王、三塁打王を含む安打王となり(首位打者ではない)、その天才性を発揮して以来常に安定してヒットを打ち続けました。
また藤田は208打席連続無三振というセリーグ記録も持っています。

79年のシーズン中に左脚の筋肉の断裂いう大きな負傷をおい選手生命を危うくしましたが大手術に成功して現役復帰を果たした彼は81年に巨人の篠塚利夫と激しい競争の末、ついに悲願の首位打者を獲得しました。

64年のチーム優勝より2年遅れて入団し、85年の優勝の1年前に引退した藤田は、その19年間という長きに渡る現役生活の中でついに一度も優勝を経験することがありませんでした。

藤田、和田と続いた背番号「6」番は僕が一番好きな番号です。
できれば大切に取り扱って、軽妙の守備で打撃の巧みな職人技の選手に受け継がせてほしいと願います。

藤田は阪神の中ではただ一人2000本安打を記録した「名球会」選手です。



真弓明信 真弓を遊撃手とするか外野手とするかは判断に迷うところですが、やはり遊撃手とするほうが彼らしいと感じます。

阪神の看板選手だった田淵幸一との交換トレードで真弓が捕手の若菜嘉晴らとともにクラウンライター・ライオンズから移籍して来たときは、なんとも女の子の名前みたいな選手たちが来たもんだくらいの印象しかありませんでしたが阪神に移籍後の真弓の成長振りは目覚しく、シュアーで力強い打撃力を発揮し始めてすぐに阪神の主力打者の一員となりました。

真弓がその威力を最大に発揮したのはやはりなんといっても85年の優勝の年で、ホームランの打てるトップバッターとしてチームを牽引したときでしょう。クリーンアップトリオ(バース、掛布、岡田)とトップバッターの四人がそろって3割30HRというのはやっぱり凄い打線でしょう。もしクリーンアップの3人のうちの誰かがいなかったとしたら真弓は間違いなくクリーンアップを打った選手だったろうと思います。

移籍当初、「もし自分が何かタイトルを獲るとするならそれは盗塁王しかないでしょう」と言ってた真弓でしたが、むしろ重量級の打者としての印象を強く残し、首位打者も一度獲得しました。
僕の知ってる範囲では最強のトップバッターです。

外野手
ウィリー・
カークランド
僕を外国人選手好きにさせてくれたのがこの陽気な黒人選手、カークランドです。
それまでの外国人選手打者に僕はあまり深い親しみを感じることがありませんでしたが(というか僕がカークランドあたりの時代から本格的に野球を見る年頃になってそれ以前のことはあまり印象がないだけのことかもしれません。)、とにかくこの選手が好きで、この選手を目的によく甲子園へ通ったりもしました。
特製の長い爪楊枝がカークランドのトレードマークで、打席に立つ時も守備につくときも常にこの長い爪楊枝を口から離すことがない選手でした。

カークランドの魅力はなんといってもその長打力で、カークランドと言えばホームランという印象が付き纏います。
当時の監督藤本定義に「これがほんまもんの大リーガーや!」と言わせた強力スラッガーで、1968年の来日一年目にチーム内最多の37HRを放ち強烈な印象を与えました。
3打席連続ホームランや、1イニング2ホームランなども鮮烈な記憶として残っています。
ただしホームラン打者にありがちな三振もまた極めて多い選手で決して安定した打率を残すタイプの打者ではなく年間最多三振記録も作りました。

僕は黒人選手と言うだけのことにそれなりの「いかつさ」を感じるような年頃でしたが、一度意を決してサインを貰いに行ったことがあります。
例のびっくりしたような眼差しで見つめられた瞬間はどうしようと躊躇したもんですが、それでも実に丁寧な筆使いでゆっくりとサインしてくれたあと、それを僕に手渡しながら「アリガト」と言ってくれた言葉が実に優しげで永く耳に残りました。今もはっきりと覚えています。
吉田義男のサインボールと共に今も大事な宝ものです。

僕の大好きな思い出の選手で、それほど際立った選手ではないにもかかわらず歴代選手のベストナインなどというアンケートの機会があるたびに僕は必ず外野手のトップにカークランドと記入します。

背番号「31」と言えばほとんど全員の阪神ファンが(僕も含めて)まず掛布を連想しますが、僕はときおり掛布をさしおいてカークランドをふと思い浮かべてしまうことがあります。



北村照文 なんとまあ地味な選手を選ぶと思われそうですが、北村の印象は鮮烈に僕の記憶に残っています。

北村を語るにはもちろんの事ながら彼の外野守備の猛烈さを語るに尽きるでしょう。
うまい外野手かと問われると、もちろんへたではないが果たしてうまいのかどうかは僕には判断がつきかねます。しかしながらあの猛烈果敢な守備は他の外野手に例を見ません。

明らかに外野を抜けるライナーの打球や守備位置のはるか前方のヒット性の打球に対して、自分の身体を地面と全く水平の状態にして思い切り空中を飛行しながら捕球するあの外野守備を何というふうに言葉で説明すればいいのかほんとは分かりません。
とにかく飛んできた打球に対して俊足を飛ばして向かって行き、いよいよ追いつかないと判断するとき北村は飛びました。身体を一直線に伸ばしきり、両手を打球に向けて最大限に伸ばしたまま彼は飛びます。それはスーパーマンかウルトラマンが掌を上向きにして飛ぶというスタイルです。
そして見事その捕球不可能とも思える打球をキャッチすると(キャッチしないこともあるけど)そのままのスタイルで地面に着地します。それはまるで車輪の出ない飛行機の胴体着陸を連想させるもので、決して手や足を先に地面に着けるものではありません。そしてそのまま芝生の上を5,6mもすべったところでやっと北村の体が停止するというものでした。ダイビングキャッチというものはまさに北村のやったものを指す言葉です。
その時期の同僚の吉竹春樹や後の亀山努なんかも似たようなダイビングキャッチをやりましたがとても北村に及ぶものではありませんでした。

打者としての北村も僕個人としては好きでしたし俊足を生かしての二塁打などもよく目にしましたが、やはり非力な打者のイメージは残るでしょうか。

僕はこの俊敏な外野手が好きで背番号「5」と言えば真っ先に北村が浮かびます。世間では5番というと新庄剛志などのイメージが強いかも知れませんが、僕の中では5番は北村のものです。



佐野仙好 佐野は重厚な印象のある選手でレギュラー外野手としての地位も保ち続けましたが、地味さだけを取り上げると北村と同じくらい地味な印象が僕にはあります。
その勝負強いバッティングは定評のあるところで長く不動の5番打者だったのになんであんなに地味な印象があるのでしょうかね。

佐野は三塁手不在の時期の阪神にドラフト一位指名された期待の三塁手でしたがまもなく台頭し始めた掛布にそのポジションを譲るとレフトへコンバートされて行きます。中央大学のスターだった佐野が無名の高校生だった掛布にポジションをあけ渡すにはそれなりの屈辱感があったかとも思われますが、それでも不屈の闘志を内に秘めた佐野は外野手としての道を目指します。

あるシーズン(何年か忘れた)の開幕まもない大洋戦でレフトを襲う大飛球を背走して追いかけた佐野はみごと打球は捕らえたもののそのまま外野の壁に激突してしまい頭蓋骨を骨折するという大アクシデントに見舞われたことがあります。もちろん佐野本人にはすでに意識もなく頭部から溢れるほどの出血が激しくそのまま担架で退場しましたがそんな状況下でもなお捕らえた球はしっかりと握ったまま放さなかったというのはあまりにも有名なエピソードです。佐野はそのまま病院に運ばれましたが一時は生命さえ危ぶまれるような大怪我でした。

余談ですが、その時の大洋の一塁ランナーが佐野の返球不能を見るや、次々と塁を回ってホームインしようとしました。そのときセンターを守っていた池辺巌はレフトの佐野のところへ掛け寄り佐野が捕球した球を内野に返球しようともせず佐野を介抱したため、このランナーは生還してしまいました。(この一点が決勝点だったと記憶していますが確かではありません。)この池辺の行為を外野手として失格だとする声と、「そんな一点と佐野の命とどちらが大切か!」と言い放った池辺の人間性を称える声とで賛否様々でした。

それほどの重症からも立ちなった佐野は1981年に設立された「勝利打点」というタイトルをみごと獲得し初代の勝利打点王となりました。「勝利打点」という制度は今はなくなったようですが、勝利投手に対して勝利打者などというふうにも言われ価値の高いものでした。このタイトルを獲得することからも佐野がいかに勝負強い打者であったかがわかります。



桧山進次郎 実は阪神タイガースの外野手でタイトルに関係するほどの大物スラッガーという選手が僕個人の記憶にはありません。上記三選手も僕個人としては好きな選手たちですが、残念ながら一流大スターというにはちょっと遠い感じがします。

もし阪神の外野手から一流スター選手が生まれるとするならそれは桧山進次郎でしょうか。
桧山は最初大振りのめだつ荒削りの打者で一発長打の魅力は秘めながらも非常に安定性に欠ける選手でした。それでも一時期4番を打たされるなどしましたが当時はいかにも人材不足の時代で非力な打線だったために止む無く桧山かあるいは当時在籍した新庄剛志などに交互に4番の席が回って来たという程度のものでした。

ところがある年、2001年のシーズンに突然、まったく突然に桧山は変わったような気がします。
彼の打撃には極めて安定感が備わってきた上、なにより本人が自分の打撃に強い自信を持つようになったのではないかと思われます。このところの桧山は非常に安心して見ていられる打者となりました。
2001年以後の桧山はそれ以前の桧山とはまったく別人のような感があります。
常時首位打者を争えるような大選手になっていくのではないかと思われますがそうなったときにこそ真に心に残る選手ということになるのでしょう。

今、大きな期待感を持って彼を見つづけています

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