日本のフィリピン占領

日本軍の上陸・・・

日米戦争は1941年12月8日に始まりました。開戦と同時にフィリピンも巻き込まれ、日本
軍はバギオ・ダバオ、そしてクラークフィールドを空襲し、また北部ルソンへ上陸しまし
た。

フィリピンの防衛はまだ十分に準備されていず、志願兵こそ不足していませんでしたが、
装備・訓練そして将校が足りませんでした。日本軍の主力は、12月22日に上陸し、比米
軍をバターンまで後退させました。

一方、マニラは1942年1月2日、日本軍によって占領されました。日本軍は直ちに軍政を
布告しましたが、バターンとコレヒドールの比米軍はまだ持ちこたえていました。しかし、
バターンは4月9日に陥落、ついでコレヒドールの比米軍は5月6日に降伏しました。

日本軍政の主な目的は、治安の回復・重要国防資源のすみやかな獲得、および作戦軍
の自活の確保にありました。こうした目的を達成するために、現地の習慣に従い、戦前
期の組織構成から逸脱しない範囲で、軍の意図に沿って既存の政治組織を利用しまし
た。が、日本軍当局がフィリピンで自活するための経済的苦難は、フィリピン人に耐え忍
ばせるものとしました。

傀儡政権の成立・・・

司令部によって示された政治政策を実行に移すために、日本軍は軍政部を設立し、戦
前のフィリピンの政治指導者を説得して其々の地位に復帰させました。しかし、全ての指
導者が日本軍政部の説得に応じたわけではありませんでした。たとえば、説得に応じな
かった最高裁長官のホセ・アバド・サントスは、協力を拒否する者への警告として処刑さ
れました。

日本占領中にフィリピン人によって運営されていた全国レベルの政治組織を比島行政
府と呼ばれましたが、それはまさに見せかけだけの物で、比島行政府の発する命令は
全て日本軍政部によって与えられたか、あるいは承認されたものでした。

フィリピン人の忠誠を勝ち取るために、日本はフィリピン人が心から協力する事を示せ
ば、フィリピンの独立を認めると約束しました。これは十分に宣伝され、やがて1943年10
月14日、ホセ・P・ラウレルを大統領とする共和国政府の設立という形で独立が認められ
ました。独立と新憲法の公布とともに日本軍政部は公式には消滅しました。しかし、日本
は依然としてフィリピンに留まっており、共和国の最初の仕事は日本との同盟条約に署
名する事でした。軍政部は消滅しましたが、日本軍とラウレル政府との間の連絡機関と
して地方連絡官事務所が設立されました。フィリピン共和国の主権とは名ばかりのもの
だったわけです。

この時期に戦前の政治団体はすべて廃止され、政党はカリバビ「新比島奉仕団)と呼ば
れる社会政治組織に取って代えられました。

政府内の顧問、そしてカリバビを通じての政治分野の支配とは別に、日本は日本の慣
習を地域レベルにまで植えつけていきました。これが隣組組織であり、配給・治安の点
検はこの制度を通じてなされました。配給品を受け取るためには誰もが隣組に登録しな
ければならず、それゆえに、隣組は住民をチェックし、地下の抵抗運動を抑制する方法
としても役立ちました。

占領政策・・・

フィリピンを日本の大東亜共栄圏構想に組み込むために、アジアの国としてそれにふさ
わしい文化を保持する事に加え、有益な経済的役割は日本の防衛に必要であるとされ
ました。日本兵に食料その他の物質を供給し、すみやかに日本に輸送する事が求めら
れたのでした。

さらに土地は日本兵の衣服の需要を満たすために綿作のプランテーションに指定されま
した。後に他の地域はサツマイモ、その他の作物用に指定され、作物の中には飛行機
の燃料用としても利用されました。これらの農園の組織と鉱山経営は、日本の商社に委
託されました。

1943年の台風と戦争の惨害、日本軍による徴収、そして不安定な輸送状況により食糧
生産が下落し、この年の末よりフィリピンは食糧危機に見舞われました。

財政面でもフィリピン経済は日本軍に統制されていました。外国銀行は閉鎖され、日本
の銀行だけが営業を許されました。預金の引き出しも制限され、個人の給料の一部は、
表向きは強制貯蓄として銀行に押さえられていましたが、預金者がそれを引き出す事は
できませんでした。日本は通し番号や裏づけのない軍票を発行しました。軍票の氾濫
は、食料その他の商品の欠乏と相まって、占領期の後半には深刻なインフレーションを
引き起こした。

1944年になると戦前の需給システムは崩壊寸前の状態であり、それに代わって物々交
換などのシステムができてしまっていました。犯罪や略奪、モラルの低下が蔓延し、フィ
リピンの人々はこの苦痛に終止符を打つものとしてアメリカ軍の帰還を待ち望むように
なりました。

ただ、一部のビジネスマンや商人は、日本軍の戦時物資の必要性に目をつけ利益を得
ました。

フィリピン文化の否定・・・

政治・経済に加え、日本軍はフィリピン文化を次のような理由から再編する事を試みまし
た。つまり、フィリピン文化を日本側に引き寄せ、親日に向かうようにナショナリズムを再
燃させ、フィリピン人をアメリカやその同盟国から引き離そうという考えでした。日本はア
ジアの指導者とし位置させ、アジアの国のひとつであるフィリピンもそのアジアの指導者
たる日本文化を見習うようにという思想でした。アメリカとその同盟国は利己的で浅薄な
帝国主義者というイメージを植えつけようとしました。

宣伝はあらゆるメディアを通じてなされました。例えば、ラジオと新聞は統制化に置か
れ、ポスターが貼られ、劇場は厳しく監督・監視され、日本人芸術家達がフィリピンを訪
れるようになりました。

あらゆる新聞・雑誌は検閲・登録手続きをとらされました。ラジオ受信機は連合国短波
放送が受信できないように改造しなくてはいけなくなりました。さらに、タイプライターや謄
写版印刷機なども登録制となりました

日本の宣伝班は日本映画を上映し、番組を流し、新聞・ラジオを検閲しました。この時期
報道部の後援で3本の映画が製作されています。バターン・コレヒドール戦のドキュメント
「東洋の凱歌」、同じくバターン・コレヒドール戦を取り上げ、アメリカ人の残虐性と日本
人の友情を強調した「あの旗を撃て」、そして、アメリカによって作られたフィリピンの都
会生活の弊害とそれに反したのどかな地方での生活を強調した「三人のマリア」がそれ
です。

日本の意図に沿った文筆・文化活動をより盛んにするために、エッセイや小説・歌・絵画
等のコンテストがマニラ新聞社の肝煎りで幾度となく開かれました。しかしその一方で、
ラウレル政権(日本軍の傀儡ですが)が誕生するまではフィリピン国家の斉唱と国旗の
掲揚は禁止されていました。

日本はまた、教会を述懐して日本の目的をフィリピン国民に広めるために派遣した宗教
班を通じて、宗教の理由にも努めました。

ナショナリズムと親日思想をたかめるために、タガログ語と日本語が公用語とされまし
た。他方、英語は当分の間の仕様は認めましたが、いずれ廃止されることになっていま
した。

教育もまた統制されました。アメリカとコモンウェルス政府を発想または関連付けてしま
う社会学科と文学は、無視または抹消するしかありませんでした。が、科学と数学につ
いては従来どおり行われました。日本語の授業は必修とされました。日本とアジアの歴
史を教える新しいカリキュラムが開発され、職業教育が重視されました。従来の教科書
には、問題があると思われるところは削除されたり、細長い紙切れが貼られる等の検閲
を受けました。

新しい「東洋精神を植え付けられた」フィリピンの指導者を養成するために、特別な教育
施設も開校されました。政府職員のための学校や、将来の指導者として嘱望されている
青年・少年のために学校も作られました。かつて日本軍と戦って捕虜となっている者に
も、釈放される前に軍事教練所において東洋的精神を植え付けされました。若者の中に
は、勉学の為に日本に派遣される者もありました。

ラジオ体操制度も導入され、この制度を通じて秩序と服従が広まる事を期待し、誰もが
参加するように要請されました。

自由への願い・・・

これらいろいろな政策にもかかわらず、大半のフィリピン人は日本占領が一時的なもの
であると考え(近いうちに必ずアメリカが戻ってくるという期待感から)、こうした変化を深
刻なものと受け止める者は少なかったようです。おもてだって日本の政策を受け入れる
ふりをしていた人はいたけれど、心からそうに信じる者はほとんどいませんでした。

日本がこの時期行った政策の中で、フィリピンに肯定的で永続的な影響を与えたものも
あったかもしれませんが、大半にフィリピン人が感じていたのは日本占領の厳しい現実
でした。第一に、日本は侵略者であり、独立への過渡期にあったフィリピンを混乱させた
張本人でした。多くのフィリピン人家族にバターン・コレヒドール、その他の戦いで日本軍
に捕らえられたり殺された身内がいました。第二には、街角の日本兵の態度は、フィリピ
ン人に対してとても横暴でした。きちんとお辞儀ができなかったり、命令が理解できなか
ったフィリピン人に対し、しばしばびんたをはっていたようです。フィリピン社会ではびん
たは激しい侮辱行為でした。

また、スペインやアメリカ統治時代にあっても、フィリピン人社会ではそれなりに自由を
謳歌させていました。ところが、日本軍のあまりに厳しい統制に、どんなに日本がこうに
やれと言っても心から受け入れる気にはならなかったのでしょう。

抵抗運動と報復・・・

戦争と日本軍の徴発による経済体制の崩壊は、フィリピン人を日本の統治、あるいはラ
ウレル政権から離反させ、生き残りの方法を模索させるようになっていました。彼らはか
つての旧き良き時代を想い、それはアメリカがフィリピン人を日本の支配から開放しては
じめて戻ってくるものと考えました。

ほとんどのフィリピン人は日本軍との対比からアメリカに対する忠誠心を持ち続けてお
り、地下のラジオや新聞からのニュースを得るためだけにすら、あらゆる危険を冒しまし
た。多くのフィリピン人が山中における日本への抵抗運動に参加し、日本軍と直接戦い
ました。そうした運動に加わる事のない者も、日本人の命令に従わないように抵抗した
り、日本人をからかったりするなどのレジスタンスを示すようになってきました。

抵抗運動は日本軍にとって徐々に脅威となりつつあり、それが大衆的な支援を受けてい
たので、ついには日本軍将校にフィリピン人への思い切った対策を採らせることとなりま
した。ゲリラ活動が広まるにつれ、「村の焼き討ち」「ゲリラ容疑者への拷問」「集団虐
殺」と日本軍のフィリピン人レジスタンスへの対策は熾烈を極めて行きました。このこと
が、さらにフィリピン人を日本軍から遠ざける要因となりました。

1944〜45年にアメリカ軍が再上陸する頃には、フィリピン経済は疲弊していました。フィ
リピン人はかつての宗主国アメリカ軍を諸手を挙げて歓迎しましたが、このとき日本軍
の報復行為は頂点に達していました。日本軍によるもっとも過酷な残虐行為・・・大量虐
殺・婦女暴行・破壊行為が起きてしまったのは戦争末期のことでした。

占領の日々から、すでに60年近くが過ぎようとしています。その当時の人も(日本人・フィ
リピン人共に)生存している人のほうが少なくなり、歴史の一部として語られる事の方が
多くなってきていますが「こういう事実があるから、やっぱり日本人はダメだ」とかそういう
短絡的な感想・思想だけではなく、こういった事実から未来につなげていくためには、謝
るとかそういうことだけではない何かを、フィリピンに関係しながら生きているわたし達
は、考えなくてはいけないのではないかと思っています。


            (参照文献 アジア読本フィリピン 「占領の日々」)



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