言語帝国主義論分類試論

(不老町だより第1号掲載)

ヤマダカント

1.はじめに

 本論は、これまでに提出されてきた言語帝国主義論(提出者本人がそのように自覚しているかどうかは問題にしない)を大まかに分類することを目的としている。この作業は、例えば英語帝国主義に対する反論はこういうものだという画一的な先入観を見直す助けともなる。

 言語帝国主義論は実に多様であり、その分類には慎重な研究態度が望まれる。しかし、ここではあくまで「大まかに」というところに重点がある。そのためにずいぶんいい加減なものになっているが、今後の研究の指針を示すという意味では重要な役割を果たしうると信じている。 

2.言語帝国主義論分類の枠組み

 「言語強者」への視点、「言語弱者」への視点という二本の軸によって分割される四つの象限を用いて言語帝国主義論を分類する。


 まず「言語強者」「言語弱者」という用語の定義であるがこれが難しい。とりあえずここでは、ある程度あいまいになってしまうことを覚悟して次のように簡単に定義しておく。「社会制度的、文化的に」優位な立場を占めるものを「言語強者」、その反対を「言語弱者」とする。

 次に二本の軸について説明する。「言語強者」への視点の軸のプラス方向は「抵抗」、マイナス方向は「従属」とする。例えば日本語を母語とする者の視点として、英語を母語とする者が日本に来ても全て英語で押し通そうとすることに対して異議申し立てをするような考え方を「抵抗」、それに対して英語で答えなくてはならないと考えることを「従属」とよぶ。(この例では英語を母語とする者を「言語強者」としている)  「言語弱者」への視点の軸のプラス方向は「受容」、マイナス方向は「抑圧」とする。例えば日本語共通語をほぼ自由に使える者の視点として、方言も共通語も共に同等の価値をもつ言語として認める考え方を「受容」、方言を共通語に劣る汚いどうしようもない言語として抑圧する考え方を「抑圧」とよぶ。(この例では方言を使用する者を「言語弱者」としている)

 さて、最後にこの二本の軸によって分割された四つの象限を説明する。}には、「言語強者」に対しては「抵抗」しているにもかかわらず、「言語弱者」に対しては「抑圧」するという破廉恥な態度をもつ言語帝国主義論が位置する。ここに位置するものを「破廉恥」言語帝国主義論とよぶ。

 ~には、「言語強者」に対して「抵抗」するとともに、「言語弱者」に対しては「受容」するという一貫した態度をもつ言語帝国主義論が位置する。ここに位置するものを「真摯」言語帝国主義論とよぶ。

 には、「言語強者」に対して「従属」しているにもかかわらず、「言語弱者」に対しては「受容」するというあらゆる人々に対する寛容な態度をもつ言語帝国主義論が位置する。ここに位置するものを「お人好し」言語帝国主義論とよぶ。

 |には、「言語強者」に対しては「従属」し、「言語弱者」に対しては「抑圧」するという植民地エリートのような態度をもつ言語帝国主義論が位置する。ここに位置するものを「骨抜き」言語帝国主義論とよぶ。

3.考察

3.1 鈴木孝夫

まず、『武器としてのことば』などの著書がある自称言語社会学者の鈴木孝夫をとりあげてみよう。鈴木は「日本人にとっての英語」を「武器」にみたてて、その「武器」を用いて英語話者に対抗するべきだと説いている(『武器としてのことば』1985:122 〜127頁)

 この論は、英語話者に対抗するという意味では「抵抗」ともとれる。また英語話者に「抵抗」する手段として「英語」そのもの(ここでいう「英語」そのものについて、鈴木は相手にあわせたイギリス英語やアメリカ英語ではなく自分式の英語(「イングリック」)でよいとしている)を使うという点で「従属」ともよべる。

 また、鈴木は「或る種の性格を持った英語ならば、大多数の日本人にとっては、もはや全く不要であるが、別の性格をそなえた英語ならば、日本の知識人にとって、それが自由に運用出来ることが極めて望ましいということになる。」(同126頁)と述べ、英語は必要である場合もあり、そうでない場合もあると表現している。しかしながら全体の論の流れから判断すれば、後者に重点が置かれていることは明らかである。このことから彼の「言語強者」に対する態度は「抵抗」ではなく、完全な「従属」とは言えないがどちらかといえば「従属」の範疇に入るということになる。

 次に鈴木の「言語弱者」に対する態度をみてみよう。彼の日本語論について極簡単にまとめれば、「日本は経済的政治的にも力をつけてきたので、日本語を海外に普及する必要がある。」というものである。彼は「現地の固有言語を抹殺して、自国の言語を押しつける形の、言語同化政策的なものを考えているわけではない。」(『日本語は国際語となりうるか』1995:22頁)と述べ、自説が日本語帝国主義論ではないことを訴えているが、その直後に「(そのような政策は)現在では、たとえしたくとも出来ない相談である。」(同)と本心を露呈している。さらに「今や西欧世界も、ある程度、日本の影響で社会が日本化することは避けられない。」(同23頁)として日本語普及を正当化している。

 結局、鈴木は|の「骨抜き」論ということになる。このタイプの論者は「強いものには弱く、弱いものには強く」という力の論理を支持しており、論理としては首尾一貫しているために自説に過度の自信をもちやすい。

3.2 津田幸男

 津田幸男は、その著書『英語支配の構造』(1980年)から一貫して「英語帝国主義論」に徹底的な抵抗をするべきだと説いてきた。この点で彼の「言語強者」に対する態度は「抵抗」に分類することに問題はないだろう。

次に「言語弱者」に対する態度である。近著『侵略する英語 反撃する日本語』1996において彼は英語帝国主義という「言語強者」に対抗する手段として「美しい日本語」(同193 〜196頁)をあげている。彼のいう「美しい日本語」とは「「あんな日本語で話してみたいなあ」と多くの人の憧れのまとになるような」(同196頁)ものである。この「美しい日本語」を訴えるために彼は「若者ことば」を「乱暴なことばづかい、外来語の濫用、流行にのったことばづかいなど」としてやりだまにあげている。「若者ことば」とはまさに「言語弱者」のことばであるが、「美しい日本語」という言語エリート的な発想(田中克彦『ことばと国家』72〜7頁参照)によって「若者ことば」という「言語弱者」を抑圧している。結局彼の「言語弱者」に対する態度は「抑圧」そのものということになる。

津田は分類}の「破廉恥」論に位置することになる。このタイプの論者は「強いものには強く、弱いものにも強く」という倒錯した論理をもっており、この論理をもちつづけることによって自説の矛盾点に気づきにくくなるという特徴がある。

3.3 田中克彦

 田中は多くの著作において、様々な観点から「言語強者」に対する「抵抗」、「言語弱者」に対する「受容」を表現している。

 田中は分類~の「真摯」論に位置することになる。このタイプの論者は「強いものには強く、弱いものには弱く」という論理で一貫しており、積極的に差別の解消へと向かっている。

3.4 「お人好し」言語帝国主義論

 筆者は、この分類に入る論者をまだ知らない。ただ、一般的にこのようなタイプの人は少なくない。このタイプの人は、相手が「言語強者」であるか「言語弱者」であるかということを問題にせずただ「ことばの通じない」「困っている」人と認識し、親切心でその人に合わせてあげようとする。

このような態度は一見何の問題もない親切な態度ではあるが、それは言語の上下関係(「言語強者」と「言語弱者」の定義を参照)がある程度解消されている状態においての話である。そうでない状態において、言語の上下関係を頭に入れて行動しないと差別の助長につながる危険性もある。

このタイプの人は、「誰にでも親切に」という一見すると一貫した論理をもっているが、その場合「言語強者」の傲慢な態度を助長する危険性を孕んでいる。

4.おわりに

 本論はあくまで試論であって、2.で紹介したモデル自体も問題点を多く含むものであるし、3.でとりあげた三人の論者も筆者の恣意的な考えによって選びだしたに過ぎない。今後はこのモデルを修正し、様々な論者をとりあげ正確にその論点を分類していく作業が必要になる。

 このような作業を通じて、一見したところ似たような言語帝国主義論であってもその内容や指向しているものが全く異なるのだということが一般に理解されやすくなるものと思われる。


不老町だより