17章 ヴァーチャル・チルドレン



 ヴァーチャル・チルドレンという概念が現実のものとなったのは、1990年4月19日、「ネイチャー」誌に、遺伝情報にもとづいて選択された胚によって妊娠が成立した二つの事例に関する報告が発表されたときである。「胚生検」あるいは「着床前遺伝子診断(PGD)」と呼ばれる初の臨床試験の実験台として名乗りを上げた女性たちは、男児にのみ発症の可能性がある重度の遺伝性疾患の保因者である。従って、生まれてくる子供が女児であることさえわかれば、その危険性がないことを確かめることができる。

遺伝子診断技術が最初に利用されたときは、それぞれの胚のY染色体のDNA配列を確認するだけで良かった。そのDNAがあれば、胎児は男であり、なければ女であることを意味する。そして、女児であることが確認された胚だけが、子宮に戻される。9ヶ月後、母親たちは、遺伝性疾患とは無縁の女の赤ん坊を出産する。
 
 1997年現在、それぞれの胎児の数千の遺伝子を選別し、将来生まれてくる子供たちのさまざまな個性を決定することが可能になった。遺伝子の選別が意味することを正しく理解するためには、まず、それぞれの人間に、どのような遺伝的な違いがあるか理解しなければならない。

 よく、「鎌状赤血球の遺伝子を持っている」とか、「赤毛の遺伝子」、「乳癌の遺伝子」というような言い方がされているが、こういった表現は、遺伝子レベルで起きている現象を正確には表していない。

 実際には、私たち人間は、23対の染色体上にある10万種類の遺伝子を共有している。これらの染色体の遺伝情報全体が「ヒト・ゲノム」と呼ばれている。そこには、鎌状赤血球の遺伝子も、赤毛の遺伝子も、乳癌の遺伝子もない。あるのは、私たちが共有している代替可能な遺伝子の組み合わせだけだ。別々の遺伝子というより、組み合わせの異なる遺伝子が、私たちの個性を作り上げる。

 代替可能な遺伝子の組み合わせを、対立遺伝子という。一つの遺伝子座にある対立遺伝子の大半は、塩基と呼ばれるDNAを構成する単位のレベルでわずかに異なっている。DNAの塩基は、コンピューター情報の基本単位のビットのようなものだ。コンピュータのファイルがビットの組み合わせ(バイト)によって構成されるように、それぞれの遺伝子は、数百、数千の塩基の組み合わせによって構成されている。だが、ある遺伝子のたった一つの塩基が違うだけで、とんでもない事態になる可能性がある。私たちが持っている遺伝子の一つに、ベータ・グロブリンがある。この遺伝子のある塩基が変化すると、ヘモグロビンのタンパク質の構造が変わり、鎌状赤血球症という重病を引き起こす。

 突然変異(塩基配列の変化によって新たな対立遺伝子ができること)は、必ずしも悪いこととは限らない。私たちは皆、突然変異体である。実際、私たちの遺伝子はどれも、次々に起こる突然変異を含んだ進化のプロセスをたどってつくられてきた。突然変異という言葉に、ネガティブな意味合いがあるので、つい否定したくなるのだが、これは事実である。

 それぞれに異なる対立遺伝子が確認されると、胎児の体内にそれらがあるか否か検査できるようになる。一つの遺伝子座にある二つの対立遺伝子のDNAの違いが認められれば、その違いを、分子生物学の先端技術によって分析することができる。

 最後に、着床前遺伝子診断の全過程を、現在、研究されている範囲で、最初から最後まで追ってみることにしよう。まず、ある女性がホルモン投与を受け、多数の卵子を排泄する。これらの成熟した卵子は、卵巣から採取され、シャーレで精子と共に培養され、受精に至る。新しくできた胚はそれから二日半のあいだ、六細胞期から十細胞期に至るまで孵卵器のなかで培養される。ケミカルドリンクでそれぞれの胚を取り巻く透明帯に小さな穴をあけ、顕微鏡手術用の針をその穴に通し、一つか二つの胚細胞を採取する。これらの細胞とそこに含まれるDNA分子はある溶液中で溶かされ、すでに決定されたゲノムの一部が、PCR法によって十億、あるいはそれ以上に増幅される。これとは別に分子生物学の技術によって、DNAの対立遺伝子が明らかにされ、そこで得られた遺伝情報をもとに、女性の生殖器官に戻される胚が選別される。

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