3章 受精卵に人権はあるか


 私たちは赤ん坊がどの様にして生まれてくるか、おおよそのことは理解している。しかし、ここで受精卵発生の直前、直後に起こる変化に関わる「生命の事実」について、詳しく述べる価値があるだろう。現在私たちが手にしている科学的情報から、この本で検討するあらゆる生殖技術に関する、ある重大な倫理的問題をいずれ判断しなければならなくなるはずだ。それは人間の受精卵の倫理的な位置づけである。



精子と卵子

 受精は、精子と卵子が合体して、もともと二つだった細胞が新しい一つの細胞になるときに起こる。受精の過程をよく知るためには、まず精子と卵子が持つ、ほかの細胞とは違った性質を理解しておく必要がある。
 
一人の人間が体内にあるほかの細胞はすべて同じ遺伝子を持ち、その遺伝子は23対の染色体に乗っている23本のDNA分子に振り分けられている一対の染色体のうち、一本は母から、もう一本は父から引き継いでいる。対になった染色体はどれも、互いに99.9%同質である(性染色体の一部は除く)。



受胎

 女性の卵巣には、何百万もの未成熟卵ー卵原細胞ーが蓄えられている。女性の一生のうち、妊娠可能な期間には、ホルモン信号によって、ほぼ一ヶ月に一度の割合で卵原細胞が成熟し、受精のできる卵子となる。完全に成熟すると、卵子は卵巣から排出されるが、これを排卵という。卵巣を出た卵子は、卵管をゆっくりと下りていって、そこに約20時間とどまって精子を待つ。この短時間の機会を逃してしまうと、卵子は変質して卵管から子宮へ送られ、月経時に子宮の内膜とともに体外へ排出される。
 
排卵の前後1日の間に性行為があると、精子は卵子を求めて卵管を進んでいく。人間の精子には、実際に卵子を探り当てる能力はないと思われる。たった一つを除けば死ぬ運命にあるのに、一回に数億もの精子が射精されるのはこのためである。単純に数の力によって、一部の精子がたまたま卵子にたどり着く。
 
卵子と精子の融合により受精卵はゆっくりと、しかし確実に、発達の道筋をたどり始める。卵子の最初の仕事は、母方の遺伝物質を半分に減らすことである。
 
一方、精子の頭の中に圧縮されていた核はゆっくりと膨張し、卵子の核と同じ大きさになる。この二つの核は、通常の体細胞の半分しか遺伝物質を持たないため、科学者は「前核」と呼んでいる。つまり完全な核でなく、その前駆物質にすぎないということである。
 
その後、二つの前核は別々に複製され、それぞれのコピーが最初の細胞分裂が起こった「あと」核の中で一緒になる。二つに分かれた細胞のそれぞれの核の中で、染色体は46本がはじめてそろう。これで受精が完了する。
 
動物生物学者は、単細胞期から二細胞期を含めて、手足や顔が現れてくる受精後6-8週までの細胞に対して「胚」という用語を使っている。その後の時期から出産までは「胎児」となる。

最近人間の生殖を研究している専門家から、受精後二週間までの、成長を続けている状態の細胞に「胚」という語を使うのはやめようという声が多く上がっている。かわりに「前期胚子」という語を使うことが提案された。今後「胚」といえば、妊娠14日くらいから現れ、胎盤ではなく胎児に成長する細胞群のことだけを指す。
 
なぜ用語の変更があったのか。その秘密を教えよう。前期胚子という語の使用を熱心に主張しているのは、体外受精をおこなう開業医だが、その理由は科学的なものでなく政治的なものである。つまり受精後6日の胚と受精後16日の胚には、根本的に違う何ががあるという幻想を抱かせるためである。

前期胚子という言葉は、政治的な場面ー初期段階の胚(つまり前期胚子)を使った実験が許されるかどうかなどを決定する時ーや、医師オフィスで体外受精を受けようとしている患者さんが感じる、道徳的な懸念を和らげたいときに役立つ。医師は「心配いりません。これは前期胚子だから、細工をしようが凍結しようが構わないんです。あなたの体内に戻さない限り本当の人間にならないのですから」



受精卵は人間の生命か

生命は、最初の細胞が発生してから途切れることなく続いてきたわけであるが、あなたという人間は、他の誰とも異なる独自の存在である。このような特性が現れるのはいつからだろうか。

この単純な問いと、それに対する様々な答えが、アメリカ社会を二分するほどの政治的論議を巻き起こした、この四半世紀最大ともいえる問題の本質なのである。その論議とはもちろん中絶の権利に関するもので、妊娠した女性の立場を主張するプロ・チョイス派と、受精卵(胚、胎児)の立場を主張するプロ・ライフ派のあいだで激しい論争が繰り広げられている。

論争の中心は、生命倫理学者が使う「胚の倫理的な地位」である。いずれ人間なる胚に対しての見解がまとまれば、その扱い方も決めることができる。もし胚に、子供と同じ保護が必要だということになれば、中絶だけでなく、実験室における胚の操作についても慎重な態度をとらなければならない。

多くの哲学者や科学者が胚の地位について書いているが、次の三つから大きくはずれる意見はあまりないようだ。論争の極にあるのが、胚は人間と同等の存在であるという考え方だろう。つまり、胚にも他の人間と同じ権利・保護を与え、尊重しなければならないという意見である。これは、カトリック教会と、政治的にプロ・ライフを自認する人々の多くが貫いている立場である。

その反対の極にあるのが、胚は細胞の集まりであり、特別な扱いは必要ないという意見である。最先端の生物学者のほとんどは、おそらくこの陣営にはいるだろう。

第三の見解は、この二極のいずれにもつきかねている立場で、著名な生殖倫理学者であり弁護士であるジョン・ロバートソンが簡潔にまとめた、次のような考え方に代表される。

「胚が人間になる可能性を持ち、多くの人々にとって象徴的な意味を持っていることを考慮すれば、他の組織よりも尊重されるべきである。だが、人間特有の性質がまだ発達しておらず…また生物学的な潜在能力が実現しないことも考えられるので、人間としては扱うべきではない。」ロバートソンが言うように、これが、世間の生命倫理学者からもっとも支持されている意見だろう。

だが、どんなことを言ったところで、人間の生命は受胎の瞬間から始まると信じている人々の考えを変えることはできないだろう。こう断言できるのは、胚の生命について考えてきた人々がその見解を持ち続けるのは、宗教的・精神的な理由からであって、科学的な理由からではないからである。自分の世界観が精神的なものに基づいていると認める人は少ないが、それは、私たちが住んでいるような科学を基礎とする高度技術が発達した社会において、信条のみを根拠とする意見はあまり信頼されないためである。体裁を繕うために科学的な説明が必要なのだ。

だが、1997年2月23日を境に、この考え方の根拠を科学に求めることはできなくなった。その日、成獣の細胞から生まれたクローン羊の存在と、同じ技術を人間のクローンに応用することも可能だという予測が発表された。

人間のクローンについては、さまざまな面であやふやなことが多いが、現在の議論と関わる重大な事実が一つある。クローニングによって生まれた胚は「受精によってできたわけでない」ということである。この技術においては、成体の体細胞の遺伝物質を、核を抜いて細胞質だけになった未受精卵に移植することで胚が形成される。受精はしない。確かに、クローンのための細胞を提供する前世代の個体が生まれたときには受精という過程があった。だがその細胞から生まれてくる子供は、新たな受精によって生まれるわけではない。

人間の生命が受精を経ずに始まるとすれば、受精の瞬間を生命の始まりとする主張は、科学的に何の意味も持たない。これは実に素朴な真理である。


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